遺灰章第5節「輪廻から逃れること能わず」

「あ、そうだ。パンの残りはやるよ。お腹の子のためにもな」

 マリーはパンの入った紙袋を投げた。それを受け取ったのはセツナという少女だ。紙袋の中身はガサゴソと音を立て、残されたパンの数は少なくなさそうだ。

「ありがとう」

 礼を言うセツナを見ていたのはジルという男。元保安官で、セツナが開かずの間へ連れてきた。彼からは魔剣ライフダストの情報を得られたが、正直なところ大きな進展はない。魔剣ライフダストが総督府にあるという話は予想通りで、ジェンキンスが言っていたことも嘘ではなかった。

 マリーはふと暖炉の方へ目をやる。灰だけが残されているそこは、教会へ繋がる秘密の出入り口だが既に使われていない。あの日、エイザが訪れて以来誰も来ていないのだ。

 もし誰か来た時には、ジルから得た情報をもとに揺さぶりをかけるのも悪くない。そんなことを考えるが、エイザもジェンキンスやヴァネッサと同じく失踪した可能性もある。姿を見せなくなるということは、そういうことなのだ。

 マリーは深いため息を吐くと、パチンと手を叩く。

「さて、もうおしゃべりも終わっただろ。さっさと帰んな」

 誰かを客人として家に招き入れるのは本来なら珍しいことだ。開かずの間と言われるからには、誰もマリーが住んでいることすら知らないのだから。それを超能力で見破ったセツナを除いて。

 二人を追い返したマリーは、扉を閉めてソファへ座る。

 つい先程までセツナが座っていたこともあって、少し温もりが残っている。それは何も問題ないのだが、彼女が気にかかったのは隣のスペース。セツナが腰をかけたのと同じ場所に座って、そこに体温が残るのは普通だ。しかし、丁度マリーが手を置いた隣のスペースにも、のはなぜだろうか。

「…………」

 よく見ると、ようにも見える。

 セツナは総督ドロシーと同じように処女懐胎をしているらしい。マリーはそれを信じ込んでいるわけではないが、ソファの痕跡はあまりにも生々しいものだった。

 その時、木が軋む音を立てて扉が開く。

「なんだまた忘れ物か?」

 扉を開くことができるのはマリーと超能力者であるセツナだけ。扉には時空を歪める術が施されているため、開けられる者は限られる。そのため、マリーはセツナとジルが戻ってきたのかと思っていた。

 しかし、扉の前には誰もいなかった。

 対して、マリーは外を確かめに行くこともせずにソファの背もたれに体を沈める。それから小さく呟いた。

「………………来たか」

 マリーの目線は定まらない。どこを見ていいか分からないのではない。彼女には訪問者が見えないのだ。

「ゆっくりしていってくれ。まあ、これも聞こえてるか分かんないけどさ」

 それでいて、マリーは相手が誰であるかおおよその検討を付けていた。

「そういえば、あんたにそっくりなやつを知ってるよ。あたしの友達が妊娠してる女の子だ。もしかして腹違いってやつ?」

 まさか、自分がそれを真実だと認める時が来るとは思いもしなかっただろう。いや、心の中では半ば悟っていたのかもしれない。証拠に、彼女は自嘲気味かつ面白そうに話を続けていた。

 まるで、相手に話す隙を与えないかのように。

「まあいいや。そんなことより、あんたの本当の親にはよろしく伝えといてくれ。あたしはそっちに行くつもりはないから」

 面白おかしく話しながら、マリーは立ち上がると壁に向かって歩いていく。壁には釘が打ち付けられていて、ネックレスがかけられていた。マリーはいかりの装飾が付けられたネックレスを取り、首につけ始める。

「悪いけど、魔界に落ちるのだけはごめんだね。天国だか地獄だか知らないけど、そんなところに行くくらいならあたしはここに残るよ」

 錨のネックレスをつけ終えて、改めて意識を背後へ向ける。

 これまで、開きっぱなしの扉の方を視界に入れずに振る舞ってきたマリー。彼女は錬金術師だ。レミューリア神話に精通し、魔界という土地に魅了された人間の一人。その血に秘める好奇心は、彼女の幼い理性では到底我慢できるものではない。

「ところで────」

 だからマリーは振り向いた。そこに誰がいるのかを見ようとして。

 最後に一目でも、確認しようとして。

 直後、マリーの体は何かによって弾き飛ばされて壁へと縫い付けられる。突然の出来事に彼女は苦痛に顔を歪めたが、微かな微笑みを浮かべた。その関心を言葉にしようと、最後の力を振り絞って弱々しく声を発する。

「なんだよ、こんなとこにッ……あったん……だな……?」

 言い終わると同時、マリーの胸から血が滲み出す。さらに驚くべきことに、血は重力に逆らって体とは垂直方向へ流れていく。まるで、胸から伸びる何かを伝うかのように。




 そして、最後に彼女の目に映ったのは、自身の胸を貫いた、血で縁取られた魔剣ライフダストの影だった。




 神のいなくなった土地に行ったところで何の恩寵も受けられない。

 世界は予定調和ばかりで退屈に感じることこそあれど、神がいなければ世界は予定調和にはならず混沌と化す。前者を好む者もいれば、後者を好む者もいる。

 単に、マリーは前者を好んだ。世界の理に則った学問である錬金術を嗜むからこそ、神のいない土地である魔界を拒む。エイザに対して神は滅んだと語ったのも、結局はマリーが神を信じているに他ならないから。

 ともあれ、彼女は失踪して魔界の藻屑となることはない。彼女の肉体と魂は此処で永遠に囚われ続けるだろう。

 彼女の胸元にあるが、この世界にを下ろし続ける限り。

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