遺灰章第4節「輪廻から逃れること能わず」

 ジェンキンス神父が開かずの間へ訪問して以来、総督府の人間が訪れなくなって久しい。そう、給仕係すらもマリーの元へ来なくなったのである。

 総督府と錬金術師が契約を結んだ際に、総督府側は錬金術師が安全に実験をできる場所の提供と保障を約束した。その中には食事や日用品なども含まれており、専門の給仕係が当てられることになっている。マリーの給仕係はヴァネッサ・シャロンというシスターだった。ジェンキンスから変更の連絡自体はあったものの、後任の給仕係は一度も来ていない。

 後任の給仕係となっているのはエイザ・アシュベリー。彼女が暖炉から現れたのは、かなりの時間が経過してからのことだった。

「あんたがエイザ? 給仕が変わるとは聞いてたけど随分来るのが遅かったな。何かあったのか?」

 暖炉から現れたエイザは、給仕係であるに関わらず何も持ってきていない。ただ彼女は深刻な表情で、目を伏せたままでこう言った。

「ジェンキンス神父が失踪しました」

 事実の報告を受けたマリーは少しばかり面食らった表情を見せる。パラダイムシフトが起きてしまったこの町では、いつ誰が失踪したとしてもおかしくない。

「そうか。いなくなって清々するよ」

 神父の失踪を容易く受け入れたマリーは軽口を叩く。実際、マリーにとってジェンキンスや総督府はフェアな関係とは言えず、契約も時間と共に総督府側に有利なものへ歪んでいった。契約があやふやになるという意味で、ジェンキンスの失踪は朗報とも言えるだろう。あとは総督であるドロシーが消えれば、マリーにとっては万々歳だ。

 そんなマリーの考えなど露知らず、エイザは周囲を見回す。開かずの間は元々ガレージとして使われていて、車両もない広々とした空間だ。それが今となっては作業台や棚などが置かれ、古い本や実験器具、羊皮紙が散乱している。開きかけの書物はレミューリア神話に関するもので、ヴァネッサも読んでいた本だ。

 エイザは息を切り、次のことを問いかけた。

「あなた、ヴァネッサと仲が良かったそうですね」

 そもそも、エイザがマリーの元へやってきたのは神父の失踪を伝えるためだけではない。

「別に。ただの召使いだよ」

 突然聞かれたマリーは、訝しげに言葉を返す。前任の給仕係について、根掘り葉掘り聞くつもりなのだろうか。

 しかし、マリーの予想は大きく外れた。

「ヴァネッサも、いなくなりました」

 ジェンキンスだけでなく彼女まで。

 ただの給仕係とはいえ、マリーとヴァネッサには長い付き合いがある。心優しいヴァネッサはマリーに対しても分け隔てなく接し、少なくともマリーにとって友達と呼べる数少ない人物でもあった。

「そうか……気の毒に」

 ジェンキンスの失踪を知った時とは異なる反応を見せ、腕を抱くマリー。彼女が一抹の寂しさを感じているのは明らかだったが、エイザはそれに同調しない声で言う。

「私はそうは思いません」

 彼女の意図が分からず、マリーは思わず視線を向ける。

「あの子はいつも周囲の人たちに無礼を働きます。良かれと思っているんでしょうけど勘違いも甚だしい」

 どうやら、エイザはヴァネッサに対して少なくない不満を抱えていたらしい。マリーには知る由もないことで、給仕係を庇うというのもおかしな話だ。侮辱の意図を問いたい気持ちをおさえ、マリーはなるべく刺激しないように平坦な声色で話す。

「そうは見えなかったけど」

 周知の事実ではあるが、ヴァネッサは教会のシスターであり優しい心の持ち主。給仕係としてしか接していないマリーにさえ、彼女の清純さは遜色なく伝わっている。そんな彼女が侮辱されるようには到底思えない。

 すると、エイザはやりきれない様子で深いため息をついてから、ゆっくりと頷いた。

「えぇ。あの子は愚かですけど、真面目なのは確か」

 先ほどとは打って変わって、エイザはマリーを認める発言をした。

「何も言わずいなくなったりはしないはず。それとも、あの子も巻き込まれたって言うのですか? アトランティスで起きているパラダイムシフトに」

 ここまで聞いてきて、マリーはようやくエイザの真意を掴み始めていた。

 エイザは単にヴァネッサへ不満を抱えているだけではない。この町で起きる不条理な現象────それにヴァネッサが巻き込まれてしまったことに苛立っているのだと。

「あたしに何が聞きたいんだ?」

 マリーは片足に重心を乗せて腕を組み、下手に問いかける。正直なところあまり慣れないが、ヴァネッサのためなら力になってもいい。彼女は心のどこかでそう感じていた。

 不器用ながら協力してくれる姿勢を見せたマリーに、エイザはようやく視線を合わせる。

「教会には洗煉師せんれんしという役職があるのをご存知ですか?」

「あぁ。トゲトゲした仮面をつけて杖を持ったやつだろ? けっこうイカしてる」

 ラフト教会には洗煉師と呼ばれる特別な役職が存在する。洗煉師は教会に訪れる人が抱える罪を浄化し罰を緩和することができる者のことを指す。アトランティスでは古くから存在する神職と言えるだろう。

「ヴァネッサは失踪する前、その洗煉師に任命されました。前任者たち四人の失踪が理由で。これはヴァネッサから聞いたことですが、洗煉師となれば失踪してしまった人々を助け出せると信じていました。そして、ヴァネッサも前任者たちと同じように失踪し、後任のトーカとダニエラも続いています。おかしいと思いませんか?」

 洗煉師と失踪。その二つに関連性を見出している様子のエイザだが、核心を突いている感触はない。

「こう言っちゃあ何だけどさ、今の町はいつ誰が失踪してもおかしくないんじゃないか?」

 そう。失踪する人間は何も洗煉師だけに限った話ではない。教会とは何の関係もない住民たちもまた、次から次へといなくなっているのだ。洗煉師になったから失踪したとは言えない。真相を探りたいのであれば、洗煉師だけでなく町の住人にもあてはまる条件を見つけなくてはいけない。詰まるところ、その真相は既に皆が勘づいていた。だからこそ、あのような噂がささやかれている。 

「────?」

 エイザが口にした真しやかな言葉に、マリーは目を回した。果たしてそれは、的外れなことなのだろうか。はたまた答えかねるということなのか。

 彼女の戯けるような素振りに、エイザはしがみつくようにして言い寄る。

「私に教えて。失踪した人たちはいったいどこへ行ったのですか? ヴァネッサは洗煉師となって彼らを追って消えた。あなたは何か知っているんでしょう、グランチェスターさん」

 距離を詰めてきたエイザの表情は真剣そのもの。だがマリーは鬱陶しそうにして、作業台へ向かう。開きかけだった書物を閉じて雑にどかすと、いつものように机に腰をかけた。

「あんたらは教会で何を崇めてんの?」

 手振りをつけて問いかけてきたマリーは、とても真剣そうには見えない。それでも、エイザは彼女に取り合うべく質問に答える。

「私たちが信仰するのは神であって神でないもの。自らを救ってくれる奇跡をもたらす存在を神と呼ぶのなら、それを崇めます」

 教会で崇められるものは、アトランティスの土地に根付くレミューリア神話を基にしている。その内容は時代と共に変化し、都合の良いように解釈されてきた。そうして人々は信仰の対象として神という存在を充てがっている。

 この経緯を見守ってきた錬金術師の家系にあるマリーは、エイザの信仰を嘲笑った。

「おめでたいこったな。どいつもこいつも、見たこともない神様ってやつを崇めてやがる。神を崇めたっていい。あいつらは確かに存在したし、だからこそ神話がある。だけど肝心なことを分かっちゃいない。神はとっくのとうに滅んじまってるってことをね。それを知らずに、いざとなると神のご加護なんてなかったんだだの神に見捨てられただの言いやがる。聞いて呆れるよ」

 マリーの語る見解は異端だった。彼女の視点は既にエイザやヴァネッサと同じ地点にはない。総督府が錬金術師と契約を結んだ理由にもあった通り、彼女は錬金術師として世界の真理を読み解こうとしている。そんなマリーの世界の捉え方は簡単に得られるものではない。だからこそ、総督府との契約が存在し、エイザ以前にヴァネッサがマリーに助言を求める手紙を綴ったのだ。

「レミューリア神話だけの話じゃないが、なぜ神話に世界の終末や最終戦争まで描かれてるのかってことだよ。レミューリア神話で言うと、フリゲートとアストレアの戦争だな」

 エイザは貶されることに耐え、マリーの意見を素直に受け取る。全ては総督府が隠しているパラダイムシフトの真実を暴き、ヴァネッサを救うために。

「この世界は神々が滅んだ後の土地だと言いたいのですか?」

 知らされた真実は非現実的で、突拍子もないこと。とても全容を把握できる規模の話でもない。

 エイザは自身が読んできた書物から得た知識を思い起こしつつ、慎重な口ぶりで確認を取る。

「ま、可能性の話だ。あたしも自分の目で確かめたわけじゃないしな」

 と、マリーは両手を広げた。相変わらず生意気な態度を取ってくるが、頼りになるのは彼女しかいない。

 簡単に引き下がるつもりはない。エイザの意思は十分マリーに伝わったのか、彼女は渋々ながら付け加える。

「おそらくだけど、洗煉師は魔界に失踪した人々の後を追っていたんだろう。ヴァネッサが失踪したのにも、説明がつく」

 真実を確かめるためなら、マリーよりも神父に聞くべきことだろう。だが神父は失踪し、総督はルミナという女としか口を聞かない。エイザが行動を起こすには、マリーの助言が必要だ。

 たとえどれほど荒唐無稽だろうと、それを信じる他に道は残されていない。

「本当にヴァネッサも魔界に……なら、魔界で生きていくことはできるのですか?」

「魔界じゃあたしたちは生きられない。あんたらの言う神様があたしらを庇護し導いてくれることもない。自分たちでなんとかしなくちゃいけないんだ」

 アトランティスは魔界へと沈んでしまった。

 教会へと逃げ込んできた住民たちの噂話としてしか受け止めてこなかったもの。それが今、エイザの胸を掴んで離さない。

「分かりました」

 ついに、彼女は決断を下した。その責任は助言を与えたマリーにも、行方知れずとなったヴァネッサにもない。

「ここから先は自分の目で確かめます」

 ただ、運命は不条理にもあらゆることを現実にする。

 それが悪いことであれ良いことであれ。

 物事の良し悪しは、神ではなく人が決めること。

「あ、おい……」

 マリーの呼びかけは虚しく響く。

 エイザは暖炉を通って教会へ戻ると、自室に届けられていた仮面を手に取る。横合いに目をやれば、白いローブと長い杖が立てかけられていた。

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