遺灰章第3節「輪廻から逃れること能わず」
アトランティスには『開かずの間』に関する噂話が伝わっている。商店で賑わう通りを突き抜けた先にある噴水広場、その一角にポツンと建てられた民家。そこに出入りする者を誰も見たことがなく、扉が開くこともないという。そしてその民家には、実は錬金術師グランチェスター卿の末裔が住んでいるのではないか────という噂だ。
結論から言えば、全て真実である。ではそもそもなぜ開かずの間が生まれたのか。それは町の総督府プロヴィデンスと、グランチェスター卿の間で結ばれた契約まで遡る。
グランチェスター卿は錬金術に関わる実験の場所を融通してもらう代わりに、全ての成果を総督府に開示する。契約は数世紀に渡って有効で、孫娘の代となった今でも続いていた。総督府が提供した場所は町の人々には秘匿され、グランチェスター卿も代々その部屋の秘密を守ってきた。それが、開かずの間と呼ばれるようになった由縁である。
開かずの間へ出入りする方法は、彼女に直接扉を開けてもらう他にもう一つ存在する。教会にも存在する暖炉が、その扉となっているのだ。
普通、薪が燃える暖炉に足を踏み入れれば火傷を負うだけだが、実際は違う。燃えている暖炉を通れば、開かずの間の暖炉へ通じている。この暖炉を通ることで、給仕係や連絡員は教会と開かずの間を行き来していた。
「へぇ、誰かと思えば神父のおっさんじゃん。あれ、枢機卿だったっけ?」
錬金術師の末裔ことマルグリット・グランチェスターは、暖炉から現れた男に目を丸くしていた。
「どちらでも構わない。偉大な錬金術師の前ではどんな肩書きもカエルの足と同じだろう」
「まぁね。あたしも最近忘れっぽくってさ。歳には勝てないよ」
教会の神父であり総督府の枢機卿でもあるアルセーヌ・ジェンキンスを前にして、マリーは緊張の素振りを見せない。それどころか、机にひょいっとお尻を乗せて足を組んで見せた。
「で? もしかしてあたし、またなんかやっちゃいました?」
どれだけ無礼極まりない態度を取られても、総督府とマリーとの間の契約がある限り文句は言えない。ジェンキンスが開かずの間に訪れるのはこれが初めてではないが、ほんの少し苛立たされることもあって率先して来訪することもなかった。
そんな彼が来たというからには特別な事情があるのだろう、とマリーはある程度目星をつけている。とはいえ、彼女にやらかした覚えはない。
ジェンキンスはマリーから視線を外して苛立つ気持ちを落ち着かせてから、本題へと入る。
「ルミナ・ルミエール・ラナンキュラスという名に聞き覚えはあるか?」
「ない」
即答。どうやら知り合いではなさそうだが、問題ないだろう。本当に聞きたいのは彼女の正体についてだ。
「そんな喉ちんこに引っかかりそうな名前、一回聞いたら嫌でも覚えちまうよ」
下品な小言を聞き流す。ガレージをそのまま錬金術の実験場へ仕立て上げた空間を見回し、ジェンキンスは詳細を語る。
「魔界からやってきたそうだ。おそらく、総督閣下が妊娠している神の子の命を狙っている」
ルミナ・
「ほらな、あたしの言った通りだ。吸血鬼なんかじゃなかったろ? だいたい吸血鬼は何世紀も前に滅んだ」
実は、マリーもルミナの存在については話に聞いていた。というのも、ルミナが発見された当初に相談へやってきたのは誰でもないドロシー。彼女はジェンキンスへ相談するよりも前に、マリーへ助言を求めていた。
「奴は吸血鬼じゃない。町をさらった魔界、総督閣下が授かった神の子……。私の推察が正しければ、彼女は悪魔だと言わざるを得ないだろう」
しかし、ジェンキンスは誰に助言を求めることもなく一つの真実を導き出していた。
町の総督ドロシーは想像妊娠────つまり処女懐胎をしている。当時の彼女はそれを魔界からの災いの子と考えていたが、ジェンキンスは神の子であると見抜いていた。それを証明するかの如く、魔界からはルミナが現れた。ルミナはドロシーと面会を重ね、ドロシーとドロシーのお腹の子を誑かそうとしている。それを悪魔と言わずして何というのだろうか。
「あっはは、神の子を狙う悪魔か。そりゃ傑作だけどさ、あたしはこの目で確かめない限りは信じない」
ジェンキンスの推察は確かに筋が通っている。だがマリーからすれば、それはただの可能性に過ぎない。マリーは足を組み替え、肩を竦めて言う。
「総督が妊娠したっていう子どもだってそうだ。あたしらには見ることもできないし話すこともできない」
マリーの言う通り、実のところドロシーの処女懐胎は証明する手段が存在しない。なぜなら、それはあくまで想像妊娠に過ぎず、外見では判別できない。ドロシーの言葉でのみ表現され、彼女の視界にのみ現れる。
「まあ、理には叶ってるよな。要は、実態を持たない魂だけの存在はあたしらには見えない。稀に、幽霊が見えるなんてやつもいるけど……あたしはそういうのはさっぱりだ。実際にお腹を触らせてもらったこともあるけど、とても子どもが入ってるようには思えないし」
聞く限りでは、マリーが展開する論理は全て正しく聞こえてくる。だが、ジェンキンスはその中に些細な違和感があることに気づく。
「彼女に触れたことがあるのか?」
お腹に触っても中に子どもがいるとは思えない、マリーはそう語った。実際にドロシーの腹部を見て触らない限りは出てこない感想だ。ドロシーは気安く他人に体を許す人間でないことを、ジェンキンスはよく知っている。だからこそ、マリーの言葉には違和感があった。
「あぁ、もちろん総督のじゃないぞ。せ……あー、その。知り合いに妊娠してるヤツがいてね」
彼からの指摘を受けて、マリーはそう説明する。どこか焦るような素振りこそ見えるが、ここで嘘をつくメリットがあるとも思えない。もし、ドロシーに触ったというのならそれだけのことであり、子どもの正体を知るためならやったとして不思議でもない。
しかし、マリーの知人にはどうやら妊婦がいるらしい。
「ほう。無事に生まれたのか?」
何の気なしに問いかけてくるジェンキンスに対して、マリーは机から腰を浮かせると背中を向ける。
「さぁ? あたしの知ったことじゃないよ」
気まずい空気を紛らわそうと作業台の整理を始める。
どことなく怪しくも思えるが、おそらく彼女にとってあまり気持ちの良い話ではないのだろう。まして、アトランティスは未曾有の危機に瀕している。妊婦が無事かどうかを聞いてはぐらかすのなら、相応の事実があるはず。
「神の子であろうとなかろうと妊娠は神聖なものだ。君の知人の子が無事なことを祈る」
ジェンキンスは神父らしく、マリーの背中に情け深い言葉をかけた。
それを、マリーは鼻で笑った。机の整理をしていた手を止め、独り言とも取れぬ呟きを漏らす。
「子育てが得意な方には見えないけどな」
彼女の言う妊婦が誰であるか、ジェンキンスは知る由もない。だが、件の彼女はまだ時折開かずの間へやってくる。マリーには彼女のことを隠しておく義理もないが、これ以上詳しく話そうとはしなかった。
そんなマリーの姿勢が伝わったのか、ジェンキンスは咳払いをして本題へと話を戻す。
「話が逸れてしまったな。君は我々よりも魔法や魔界について詳しい。だからこそ契約を結んだ。総督が孕んだ神の子を無事に誕生させるにはどうすればいい?」
不都合な話が終わったことで、マリーは今一度ジェンキンスへ向き直る。
総督府への情報開示は契約によって定められている。マリーに断る権利はない。ジェンキンスが知りたがっている事実について、彼女は一呼吸置いてから話し出した。
「魔界に囚われてる連中は、世界に傷をつけるか命を喰らうことで自己の存在を保つ。お腹に宿した子はへその緒で繋がった母親から力を受け取るが、それを絞り尽くした場合は外の生命を喰らい始める。例えば、町の人間、教会の人間、……あたしら。どのみち魔界に流されて消える運命なんだろうけど、悪魔に喰らわれればそうとも言えなくなる。もっと悲惨なことになるだろうな」
魔界に沈んだ町。そこに住んでいたドロシーは魔界から子どもを授かり、魔界からはルミナという悪魔が現れた。ルミナを放っておけば、いずれ神の子を手にかけ町を破滅へと導くことになる。ルミナから神の子を守り、彼を誕生させるにはどうしたら良いのか。
「悪魔の欲求は満たせるものなのか?」
神の子といえど、魔界から生まれた子どもは悪魔にもなり得る。そうした存在は欲求を持ち、それをどう導いていくかで悪魔と堕ちるか神と成るかが決まる。ジェンキンスはそれをできる限りコントロールし、正しい方向へ導くことはできるかと問いかけている。
「一時的にはね。けど時間が経てば、すぐに飢える。あたしらと同じだよ。っていうか、欲望ってそういうもんだし。人も悪魔もそこは変わんない」
マリーは答える。善人と悪人も元を辿れば同じところから生まれたように、神と悪魔も根は同じ。そこには欲望というものが深く関わっていて、それを如何にしてコントロールするかがカギだと。
「とにかくそうやって力をつけない限り、連中があたしらの前に現れることもない。神が信仰心によって現れるのなら悪魔は恐怖心によって現れる。総督の赤ん坊がどうなるかは、あんたら次第ってこと」
「よし。ならば捧げる供物が必要となるだろう。我らの信仰心を示し、神の子の降臨を祈るのだ」
ジェンキンスには策がある。神の子をルミナから守り、生誕を迎えること。魔界から授かった子どもを悪魔ではなく神へと導くためには、当然その欲求を満たす必要がある。
信仰心、恐怖心────つまり、神のために供物を捧げるのだ。
「あのルミナという女も、これ以上の邪魔を許すわけにはいかん」
如何なる手段であれ、悪魔を排除しなくてはならない。
ジェンキンスはマリーからの助言に決意を固め、踵を返す。虎視眈々と神の子を狙うルミナを始末するために。
暖炉を通って教会へ戻ろうとする彼を、マリーは「なぁ」と呼び止めた。
「一つ頼みごとがあるんだけどさ」
事を急くジェンキンスだったが、足を止めてマリーの声に耳を傾ける。
「『魔剣ライフダスト』が見つかったってのは本当か? よかったらあたしにも見せてくれよ」
何の用で呼び止めたかと思えば、今までの話とは何ら関係のないことだった。あるいは、関係があるのだろうか。
質問の意図を探ろうと、ジェンキンスは「なぜだ?」と続ける。
「あの魔剣と神の子に何か関係があるのか? それともあの魔剣が町に現れた理由……パラダイムシフトの原因が分かりそうなのか?」
魔剣ライフダストは、パラダイムシフトが起きた後に町で見つかったもの。レミューリア神話の中で登場する遺物であり、未だ謎に包まれている部分が多い。それを見ようとするということは、何か気になる点があるのだろう。
そう思っていたが、マリーは驚くべき真実を口にした。
「いいや、パラダイムシフトを引き起こしたのは大方予測はついてる。アルカディアにいるユリウス・フリゲートって魔導師だ。噂じゃこの世界に魔法をもたらした母だとかなんとか言われてるみたいだけど」
ジェンキンスもその名前を聞いたことがある。世界では魔法の始祖とまで囃し立てられる女性だが、彼女がパラダイムシフトを引き起こした発端だというマリー。それについて詳しく聞きたいところだが、魔剣ライフダストを調べる理由とはまた異なるものらしい。
「ではなぜ魔剣ライフダストを調べたがる?」
「ただの興味だよ。この町の外に出られるかもしれないしな。それとも何か、もしかして本当は魔剣ライフダストなんて見つかってなかったりすんのか?」
町の外に出る方法。アトランティスに閉じ込められた誰もが求める真実。マリーは魔剣を調べることでそれを探ろうとしているようだ。
しかし、ジェンキンスの目下の目標は神の子の生誕。町の外に出る方法を探るよりも、彼は明確な救世主を捉えている。マリーには申し訳ないが、彼女の要求は二の次になった。
「残念だが君の願いは叶えられない。仮に魔剣ライフダストがあったとして、それを手にした君がどう出るか計りかねている」
疑り深い視線を向けられ、マリーは口を閉ざす。二人の間にあるのは契約であって、信頼ではない。そのことを思い出し、マリーは返す言葉を取り落としていた。
「パラダイムシフトへの君の見解については今度詳しく聞かせてもらおう」
今度こそ開かずの間を去る。その直後、暖炉の前まで歩いた彼は最後に振り返った。
「それともう一つ。君の給仕係だったヴァネッサだが、別件で離れることになった。次からはエイザが担当する」
最後の最後に業務的な連絡を残し、ジェンキンスは暖炉の火へ消えた。
残ったのは、燃える薪が崩れる音と────────
「…………チッ」
────────悪態をつく舌打ち。
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