第55話 郡役所の回答

(これまでのあらすじ……)


 住民上申書での負担金拒否に郡役所側は愕然とします。これに対し和田書記は巡査隊で住民側を弾圧しようとしますが、新聞屋の影を喝破した筆頭書記留守がそれを止めます。その後、留守は密かに三島県令を訪ねて復命し、三島は東村山郡の現状把握の上、新たに留守に命令を与え、更に裏面から様々な手を打とうとするのでした。


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 明治13年10月8日、天童村の郡役所と山野辺村の会所の官報掲示板に『庶第568号』および『庶第569号』と題する文書が掲示されました。住民の上申書に対する郡役所の回答です。


 この郡役所回答の公表は、天童村の佐藤伊之吉や高楯村の安達久右衛門のすぐ知る処となりました。


 そして、明くる10月9日、安達峰一郎は朝から落合部落の須川の渡し場に姿を見せたのでした。


「おう、坊、今日は早いんねが!」


 渡し守の言葉に、峰一郎はペコリとお辞儀をして、渡し賃を差し出します。


「ほれ、坊の嫁こも、朝から迎えに来ったべ」


 渡し守の爺さんが言った先には、茜染めの地色に絣を付けた、ちょっと幼い雰囲気の着物を着た梅が、こぼれんばかりの笑顔で、腕も千切れよとばかりに、喜びを溢れさせて手を振っています。


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「お梅ちゃん、よぐ、俺が来るて分がたなぁ」


「お父ちゃんが、今日、きっと峰一郎さんが来っからて、渡し場まで、迎えさ行げ、て言ってけだんだ」


 既に伊之吉たちは、昨日の時点で郡役所の回答に対する検討を仲間内で終えていました。もちろん、久右衛門も同様に郡役所の回答を吟味して、それに対する再上申の文案を練っていました。


 今回の峰一郎の役目は、久右衛門の作成した再上申書草稿を伊之吉に届け、更に伊之吉たち天童の同志たちの意見を加味したものを峰一郎が久右衛門のもとに持ち帰るという算段でした。


 最終的に久右衛門が浄書したものを郡役所に対して再上申するわけです。


「お梅ちゃん、ほんてん、朝からわれっけな。久右衛門おじさんも、こっからが正念場だ、役人の目もうるさぐなったべがら、気ぃつけるよう言わっだんだっけ。お梅ちゃんに来てもらてしぇがった」


「ううん、おら、なんも大変でねぇ。お父ちゃんの役に立って嬉しいし、それに、峰一郎さんと……」


 そこまで言って、ふいに梅が口ごもります。


「ん?おれ?」


 峰一郎が自分の何かを言われたような気がして、梅に聞き返します。


「ううん、何でもね。おらがお父ちゃんの言う通りすっど、村のみんなのためになるんだべ」


 振り返った梅はちょっとだけ頬を赤らめていましたが、はじけるような笑顔で峰一郎に答えました。


 本当は峰一郎と一緒にいるだけで嬉しいからと、声に出して言いたかった梅でした。


 毎晩、梅は床に就くと、いつも、峰一郎の顔を頭の中に思い浮かべています。峰一郎の明るい笑顔や、はにかんだような照れた顔、真面目に考えてる真剣な顔……そのすべてが、梅は大好きでした。


 峰一郎の顔を思い描くと、不思議と梅は幸せに安心した気持ちになって、ぐっすりと眠りにつくことが出来るのです。


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「おう、峰一郎、早いっけな。さすが、久右衛門さんだべ!分がってだな!」


 やってきた峰一郎の顔を見て、伊之吉は嬉しそうです。


 峰一郎が土間から伊之吉に挨拶をしている間に、すぐに梅がたらいを用意してきて、甲斐甲斐しく峰一郎の足を洗い始めます。


 梅はこの瞬間がとても嬉しいのでした。いつも、お客様に当たり前にやっていたことでしたが、峰一郎にだけは、梅は胸をときめかせながら、その足を洗うようになっていました。


 峰一郎の足に、その肌に、堂々と触れることが出来るのです。その足の指の一本一本を、梅はいとおしむように丁寧に洗い清めるのでした。


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「うん、やっぱり久右衛門さんは分がてだ。おらだが言うだい事は全部、書いである」


 伊之吉は何度も頷きながら、久右衛門の書状に見入っていました。


「峰一郎、久右衛門さんからどごまで教ぇでもらった?」


「お役所がら返事が来ったてのは知ってだげんども、詳しぐは、まだ、知ゃあねっす」


 峰一郎も上申書の内容や、役所での顛末は聞いて知っていましたが、今回の郡役所の回答がどういう意味を持っているか、どのようにそれに対するかは、まだ、久右衛門からは聞かされていません。


 そもそも、役所の回答は、概略、以下のようなものでした。


 《……政府が町村会・町村連合会の議員選挙法を定めていない現在、町村において主だった名望者達が協議を遂げ、代議者を選定し、本人承諾を得て差し出すも、敢えて選挙法に背くとは言えず。戸長からの当選者届もある……》


 ……と、連合会議員の実質的有効性を主張し、その身分は保証されているものとして、住民側上申はこれを却下する、というものでした。町村連合会の議員は、町村で選んだ人たちだから問題はない、ということです。


 住民は、国や県の定めた法律にしたがって、飽くまで徹頭徹尾、法律に準じて上申書を提出したのでした。


 しかし、法律を作り、法律を自ら運用する国および地方行政府自身が、自ら法律そのものを放棄したのです。まったく先の上申書の回答にもなっていません。


「話し合いすんのは勝手だべ、ほれはしぇえ。んだげんど、決めだがら言う事ばきげ!て村のみんなさ命令するんだば、話しがつがう!そんでざ、山賊や盗賊が金ば出せっつうのど変わりねぇ!」


 決議の決定を、参加していない大多数の人民に強制力をもって命じるのならば、会議と代表者の法的根拠、法律での保証もなしにそれを認めることは出来ません。


「前の上申書さ俺だがちゃんと言ったなさ、同じ事の繰り返しだ。返事にもなっていねべ。ほれだげ、役所に理屈も道理もねぇのば、自分で認めっだど同ずださ」


 そう言うと、伊之吉は書状を膝に置いて、峰一郎の顔を見て話し続けます。


「しぇえが、峰一郎、これがらの時代、みんなが幸せで平和に暮らしていぐために、一番、大事なのは法律だ」


「法律……」


「みんなが幸せに生活するには、世の中ば暮らし良ぐ便利にさんなね。道ば作て、橋ばこさえで、鉄道も山形さも広げらんなね。ほいづには金もかがっさげて税金も要る……」


 伊之吉は、道路の拡張整備には十分な理解を示していました。その工事の必要性と重要さを誰よりもよく身に染みて感じています。なぜなら、今まで、伊之吉自身が関山峠や二口峠を通り仙台に商いに行ったことが何度もあったからです。


 人が通るにやっとな峠道は、現在の感覚なら獣道に見紛う程度で荷車はとても通れません。また、険しく急峻な峠道は駄馬の通行さえも叶いません。峠を利用する旅人は自ら背負う程度の荷物しか運ぶことが出来なかったのです。


 それを、隧道を掘削することで、道を広げ、傾斜をなくし、距離も短くして、輸送量の増大が図れるのです。この恩恵のもたらすものは計り知れません。


 この関山の道が出来れば便利になるのは、久右衛門も伊之吉も分かっています。二人とも新道工事自体に異を唱えているわけではありません。


「んだけんと役人の好き勝手に何でもかんでも税金ばり取らっでは困る。俺だはいづまでも苦すいばりだ。峰一郎、お前だば、どおしたらしぇえど思う?」


 伊之吉の話しを黙ってじっくり聞いていた峰一郎は、素朴な疑問を呈しました。


「その法律は誰がこさえんのだべ?」


 その疑問を聞いた伊之吉は破顔一笑します。


「峰一郎、良いどさ気付いだな!やっぱりお前は賢い!」


 峰一郎は恥ずかしそうにしましたが、伊之吉は我が意を得たりという感じで、話しを続けます。


「今は国どが県どが、役人自分だで勝手に作てんだ。国同士の外交や貿易どが軍隊どがの事だば国さ任せらんなね。んだげど、自分だの暮らし向ぎさ関わる事は自分だの意見も、いっくど聞いでもらわんなね、ほれが出来でごその『御一新』だ!」


 当時の政府が作っていた法律は、国民のための法整備ではなく、欧米中心の国際社会に文明国と認めてもらいたいがための法整備でした。


 不平等条約の改正を願って、欧米の方向に顔を向けながらの法整備であり、少なくとも、国民に顔を向けた法整備でないことは確かでした。


 伊之吉は、会議規則や議員規定のみならず、会議運営や決議事項についても、しっかりと法律条文を作り込まなければ法律としての意味はないと言います。


 今回の連合会での議長裁定のように、強引な手法によって、住民や議員にしこりを残しては話し合いの意味がありません。


 公正な会議運用ができるよう、しっかりと練った法律制定が必要であることを、伊之吉は熱心に峰一郎に説きました。。


「ほいづば、地方から始めで、村会・県会ば作て、お前だがしっかり勉強して大人になる頃には、俺だが選んだ人で国会ば作て、外交どが軍隊の事も俺だの意見ばも取り入れでもらえるようにすんだ!ほして、俺だの住みやすい平和な世の中ば作らんなねんだ!」


(……く、くに?、……国会?……俺だの代表!)


 峰一郎は驚きました。峰一郎には、東村山郡の自分の身の回りのことを考えるだけで、まだ精一杯でした。


 しかし、伊之吉は、自分たちの村のことだけではなく、国に自分たちの代表を送り込み、国の政治を動かすことを、その行く先に見据えているのです。


 伊之吉の考え方は、当時の民権運動家にとって珍しいことではありませんでした。既に民権家は様々な私擬憲法を作り、国によらず自分たちの力で国会を設立し、それを国に認めさせようとして活動の幅を広げていました。


 しかし、まだそのような世の中の動きを知らない峰一郎にとって、伊之吉のその言葉は非常に驚かされるものでした。


 この時、峰一郎は初めて「法律」と「国家」というものを、その意識の中に刻み込んだのでした。村の平和を考える上で、それが大きな影響を及ぼしていることを、その肌身に重く受け止めたのでした。


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(史実解説)


 関山隧道の掘削が完成開通し、関山新道が山形まで開通している明治16年11月、この時期の関山を通過した荷物量は1日平均で、馬荷駄70駄・荷車50輌・牛馬車2頭でした。この輸送量は明治初期の時点ではかなりの量と言えます。一方、明治20年代の関山村には運送人夫50人・人力車50台・荷馬車200台が常駐して稼働していました。また、10数軒の宿屋と20数軒の茶屋が軒を連ね、活況を呈していました。伊之吉が述べたように関山ルートの開通は、物資流通に劇的な変化をもたらしたのでした。


 これを交通史の観点で見ると、当時の状況は、東京・仙台を中心とする交通体系への過渡期段階でした。それまでの江戸後期から明治初期にかけての時期は、全国の物資が日本海側の酒田湊から入って、青森を除く東北全体に山形から流通していた段階でした。しかし、関山開通により、日本海側と太平洋側の双方からの物資が競合競争的に山形へ流入する段階へと変わりました。明治20年の東北線の鉄道開通は、更に太平洋側からの物資の山形流入を促進します。そこでは、米俵などの重量物は最上川舟運を利用して日本海側へ、軽量物は仙台方面へと、両ルートが併用されていました。


 しかし、関山ルートの黄金時代は比較的、短い期間で終わりを告げます。それは明治34年の奥羽線の山形までの開通が直接的な契機となりました。この鉄道延伸により、明治10年代から明治30年代にかけての「三島道路の時代」は終わりを告げます。とはいえ、明治期での山形の近代化に「三島道路の時代」が果たした役割は絶大なものがあったと言えます。


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(おわりに)


 郡役所の回答が示され、峰一郎は再び天童村の佐藤伊之吉のもとへと行きます。伊之吉は法整備の重要性を峰一郎に説くとともに、東村山郡だけではなく、ゆくゆくは国の政治にも関与しなければ世の中を変えることは出来ないと言いました。峰一郎は伊之吉の壮大な構想に圧倒されました。

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