第56話 追跡者
(これまでのあらすじ)
上申書で郡役所との対決姿勢を鮮明にした住民側に対して、留守を始めとする郡役所は三島県令の意を受けて、いよいよ住民への弾圧の準備に入ります。一方、上申に対する郡役所の回答が示され、再び天童村へと使者に立った峰一郎に、伊之吉は法整備の重要性とともに国会構想を語ります。峰一郎はその壮大な構想に圧倒されました。
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「お梅ちゃんのお父ちゃんはすんげえ!村の人の事だげでねぇ、世の中の人、みんなの事ば考えっだ!」
峰一郎は心の底から驚き、そして、感動していました。峰一郎は笑顔で何回も「すごい」を連発します。
伊之吉の言葉を思い出すたび、峰一郎はワクワクするこの溢れる気持ちを押さえようもありません。そして、未来にはとても素晴らしい世界が峰一郎を待ち構えているように思えて、嬉しい興奮が止まりませんでした。
「すげえ!ほんてん、すんげえ!」
梅の父を称賛する峰一郎の言葉を、梅は嬉しそうに聞いていました。峰一郎もまた、そんな嬉しそうな梅の顔を見て、ますます楽しそうに話し続けます。
「みんなで選んだ総代が東京さ行って、国の政治ばすんだ。したら、みな、税金で苦すむ事もねぐなる」
「ほしたら、お父ちゃんたちも楽になるべね、友達もいねぐなたりしねよね(居なくなったりしないよね)」
峰一郎と行動をともにする中で、梅も、この頃には、友達の村の女の子が急にいなくなるのは、どうしようもない貧しさのために、どこか遠くに奉公に出されたらしいということが、薄々ながら分かってくるようになりました。
「あだり前だべ、道や橋や堤防も、代表で話す合って公平に決める。冷害や旱魃、大水や大雪で難儀な村ば協力すて助げ合う。ほれができる法律ば作んだべ」
「日照りで困った村さ、豊作の村からお米ば分げであげんだね、すご~い!」
梅も目を輝かせて峰一郎に答えていました。自分は峰一郎と一緒にそのお手伝いをしているんだ、そう思うと、峰一郎との楽しいだけの時間ではなく、村の役に立っているという喜びと誇りまでもが感じられるのです。
峰一郎は、梅の喜ぶ笑顔を見て、いつもとは別人のように更に梅に話しかけます。語りかけて梅を見ては、照れたように視線を外し、また、話しを続けては梅に笑顔を向けてくれるのです。
(峰一郎さん……嬉しそう、わたし、もっともっと、峰一郎さんの役に立ちたい……)
いつも照れたように寡黙な峰一郎が、こんなにも自分に饒舌に語りかけてくれることで、梅は峰一郎との距離が一気に縮まったような、そんな感じを受けていました。
今、梅は、峰一郎のバートナーとして、不思議な喜びに小さな胸を膨らませているのです。峰一郎との幸せに溢れたこの時間が、ずっとずっと、いつまでも続いてほしいと願う少女でした。
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いつ頃からだろう……、つい夢中で話しをしていた峰一郎は、ふと、梅の表情の変化に気づきました。
それまでの梅は、その愛らしい瞳をまんまるく大きく輝かせて頷いたり、相づちを打って言葉を返してくれていました。
それが、いつの間にか気のない生返事をしたりして、口数も少なくなっていました。変にあらぬ方向に視線が泳いだりもしていて、峰一郎の方を見ていないような……。
(俺……何か、お梅ちゃんの気にさわることでも言ったのだろうか?)
峰一郎が、ふと不安になり、戸惑いをみせたその時です。
「峰一郎さん!」
峰一郎の名前を叫んで、梅が峰一郎の胸の中に、身体ごと飛び込んできました。
「うわっ!」
突然の衝撃に、峰一郎は細道の脇のけやきの木に身体ごと押し付けられたようになりました。
「え!お、お梅ちゃん!な、なした!」
峰一郎はびっくりしてしまいましたが、梅はひっしと峰一郎の身体を抱き締めて、峰一郎の胸に顔を埋めています。
(峰一郎さん、おらの背中ば抱き締めでけろ)
梅の囁くような声が峰一郎に届きます。
「え!えぇぇ!」
突然のことに峰一郎は身体が固まってしまいました。
(峰一郎さん、お願い!早ぐ!おらば抱ぎ締めで!)
「は、はい!」
まるで叱られた子供のように梅から急かされた峰一郎は、弾かれたように返事をしました。
しかし、その動きは恐る恐るといった体で、峰一郎はこわごわと梅の背中に手を回したのです。
(もっと、きっづぐ!……おらば、きっづぐ抱いでけろ!)
(きっづぐ=きつく=強く)
(はい!)
小さく細い梅の身体は、峰一郎にとって、片腕でも余裕でぐるりと回ります。そんな華奢な梅の身体は、峰一郎が力を入れたら折れやしないか、峰一郎も気が気ではありません。
それにも増して、妹たちや母親でもない女性の身体を抱き締めてしまい、峰一郎の心臓は、まるで村の半鐘を乱打しているかのごとく、爆発しそうにバクバクしているのでした。
(おうめちゃん……)
少し落ちついてくると、峰一郎は、梅の髪の毛の香りとは別に、心地よい甘いような梅の香りに包まれました。それは不思議と安らぎを感じさせるような香りでした。
下を見ると、自分の胸に顔を埋める梅の姿が、峰一郎の間近に見えてきます。
いつも峰一郎の足を洗ってくれている時に見える梅の白いうなじが、ほんのり桜色に染まっています。ふと気づくと梅の耳たぶが真っ赤になっているのがわかりました。
その姿を見た峰一郎は、今、自分の腕の中に抱かれたこの少女を、心からいとおしいと思いました。そして、この少女の願いを、思いを、心から叶えてやりたいと思うのでした。
その時、再び、梅の囁くような声が峰一郎の耳に届きました。
(峰一郎さん、ごめんなさい、ちぇっとだげ、このまんまで……天童村ば出る時がら、誰がだが、ずっとつけで来ったみだいなの)
(え!)
(だめ!周りば見ねで!……おらも知ゃね人……、……もうちぇっと、このまんま……)
なんということでしょう。天童村を出た辺りから、何者かが二人の後をつけていたとは!話しに夢中だった峰一郎は、そのことにまったく気付きませんでした。
そういえば、峰一郎は落合の渡しから長崎村に入っての帰り道にも、誰かに付けられている不思議な気配を何度か感じたことがありましたが、気にし過ぎかもと思っていました。
しかし、そんなこともあって、いつも気を緩めることなく緊張感をもって歩いていましたが、伊之吉の話しに興奮した峰一郎は、今日ばかりはうっかりしてしまいました。
峰一郎は自らの迂闊さを責めると供に、梅の聡明さに改めて感嘆しました。
(ごめんしてけろ。おら、初めでだがら、いいなづげらすぐすんのさ(許嫁らしい所作をするために)、何したらしぇえが、わがらねくて、ごめんなぃ、峰一郎さん、突然、抱ぎづいて……)
(ほだな、お梅ちゃん、俺がしっかりしてねがら、ごめんな。……お梅ちゃん、われげど、もちぇっと、このまんまで我慢してけろ)
峰一郎は、改めて梅の身体を左腕で強く抱き締め、右腕で梅の頭を抱えるように抱きながら、自分の顔も梅の頭に埋めるようにしました。そうして、梅の髪の毛や右腕で顔面をかばいながら、慎重に辺りを伺います。
梅と歩いてきた細道の方向を見ると、路傍の荒神塚の隣に腰をかけて、煙管に火を点けてスパスパと煙草を吸っている野良着姿の男がいました。梅が感じた人影はこの男でしょう。
(いだ!)
その男は手拭いで頬被りして、顔は横を向いて動かしていませんでしたが、恐らく視線はこちらに向けているであろうことは間違いありません。
(峰一郎さん……)
峰一郎の身体の僅かな反応から、その何者かを峰一郎が見つけたであろうことを察した梅が、峰一郎の身体にしがみつく手に、ぎゅっと力を入れます。
(お梅ちゃん、大丈夫だ、俺がついっだ、絶対にお梅ちゃんば、守てける)
(峰一郎さん……)
根拠も何もない少年の、稚戯に等しい若気の勇でした。しかし、梅はその言葉に心からの安堵を覚え、守られている喜びを感じていました。
梅には、激しく早いながら、力強い峰一郎の心臓の鼓動が聞こえていました。その鼓動の早さは、ひょっとすると目の前の危機に対する緊張によるものだけではないかもしれません。
しかし、梅は、その鼓動に峰一郎の雄々しい逞しさを感じました。そして、危険の中にありながらも、不思議な幸せを感じているのでした。
二人はやや西に傾いた柔らかな日差しの中、いつまでも固く抱き合っているのでした。
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(史実解説)
梅の話しにもありましたように、東北地方の貧困は現在からは想像もつかないほど、厳しいものでした。実際にどのようなものだったか、資料から当時の社会状況を見てみましょう。
明治31年に山形県内務部第5課が実施した県内貧民状態の調査報告によれば、東村山郡の23・9%1822戸が無収入もしくは自立生計不能の貧民で、それは人口にして8149人に上りました。更にその予備軍とされた没落手前の住人を加えれば、4244戸1万9057人とされました。東村山郡人口のおよそ3割が極貧の飢餓状態にあると県の実態調査に記されています。その職業内訳を見れば、日傭・車夫・土方・運搬・零細小売りなど、その日暮らしの人々が大半でした。
実際の暮らしを具体的に見ると、衣服・什器などの家財道具はすべて売り払って何もなく、冬でも一張羅の単衣を着て、煎餅布団一枚に家族全員が身体を寄せあって就寝し、食事は1日1食で鍋釜もなく、雪菜・屑芋・大根干・蕪切干・蕎麦粉で糊口をしのぎ、藁餅・松皮餅等も食べていました。地主層の援助や資産家の醵金のほか、政府も外米輸入をしたりしましたが、数多の貧民層の多さに有効な施策は取りえなかったのが現実です。
蛇足ですが、タイトルの『追跡者』は、大好きなハリウッド俳優トミー・リー・ジョーンズ主演のアメリカ映画、ジェラード連邦保安官シリーズのタイトルからいただきました。
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(おわりに)
伊之吉の話しに興奮した峰一郎は、帰路、梅にその喜びを語ります。しかし、二人を狙う黒い影が近づいていることに、峰一郎は迂闊にも気付きませんでした。いち早く察知した梅が機転をきかせて愛し合う許嫁の振りを演じるのでした。
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