第50話 佐藤伊之吉の上申

(これまでのあらすじ……)


 機が熟した高楯村の安達久右衛門と天童村の佐藤伊之吉は郡役所へと向かい、いよいよ東村山郡の住民たちが遂に動きだしたのでした。郡役所講堂で郡役所首脳部と面会した住民たちは、まず、安達久右衛門が口火を切り、丁寧な物言いながら負担金納付の拒否を堂々と宣言します。憤然とする郡役人たちとの戦いがここに始まりました。


 **********


「此度の負担金、つかまつる能わず!」


 ピシャリと言い切った安達久右衛門の言葉に、講堂は水を打ったように静まり返ります。その胆力に気圧された感の郡役所側にあって、辛うじて和田が声をあげます。


「そ、それは、いかなる存念か!当職には、まったく理解できん!」


 しかし、平身低頭の哀願哀訴程度のことと高を括っていた郡書記たちは、この堂々とした久右衛門の威勢に完全に位負けしてしまいました。


 真っ青になった郡長を始めとして、書記たちも固まってしまい、和田の言葉を継ぐ者もいないまま、しばし、静まり返った空気が講堂を支配しました。


 その静けさを破ったのは、それまで腕を組みながら、静かに瞑目してことの成り行きを見守っていた郡書記筆頭、留守永秀でした。


 留守は、静かに目を開けると、掌を握った両肘をテーブルについて身を乗り出し、安達久右衛門を見つめます。


 そして、二人の視線が交錯する中、留守が初めて口を開きました。


「負担金、それ自体が法に触れると?」


 留守の鋭い視線を受け止めた久右衛門は、しっかりとした形で大きく頷きます。


「左様にございます」


 即座に、留守の隣から声が飛びます。


「百姓風情が何を言うか!この痴れ者が!」


 留守の左側で棒立ちとなっていた小松が、勢い込んで叫び出します。現代の公務員であれば、とんでもない暴言となる問題発言ですが、当時とあらば無理もありません。


 わずか十数年前の江戸幕府の治世では、農工商の一般国民が御政道を口にするのでさえ憚られていたのです。まして、御政道批判などしようものなら、それ自体が重い罪とされていたのです。


 その名残がまだ色濃く残る明治初期、民は何も言わず、官の命令に唯々諾々と従うもの、という風潮が官民の双方にありました。故に、この小松の言は、その場にいた郡役所側の者たちに等しく共感される思いでした。


 しかし、留守はその小松の言を左腕で制止し、自らは落ち着き払ったまま久右衛門を見つめ続けます。


「……よい、……子細、申し述べよ」


 すると、久右衛門の左隣に座席を占めていた佐藤伊之吉が、袴の裾をはたいて立ちあがります。代わって久右衛門が静かに着座しました。


 伊之吉は、久右衛門と同じく、郡長に向かい恭しく一礼します。しかし、当の五條郡長は顔を青ざめさせて、呆然自失の体にて、答礼さえも忘れていました。


 椅子から立ち上がっていた上級郡書記の面々も、忿懣やるかたない体ながらも、改めて席に着きます。


「されば」


 伊之吉は懐から取り出した書状を目の前にバサリと広げ、音吐朗々と読み上げ始めます。


「村山郡各町村連合会決議書にせられたる御達し、服従し難きに付き上申!」


 再び、郡役所側にどよめきが走ります。上申とは言いながら、第一声から、あからさまに『服従し難き』と始めたのです。


(ようし!行け!伊之吉!一気に突っ走れ!)


 隣に控える村形宇左衛門の心の叫びが伊之吉をより奮い立たせたものか、郡役所側の動揺を尻目に、伊之吉は朗々と先を続けます。


「ひとつ!……明治12年布達『町村会規則』『数町村連合会規則』については、明治13年4月太政官布告第18号『区町村会法』布告によって先の両規則を廃止するとの明治13年5月13日県達乙第71号により、両規則は正式に失効せられたり!」


 突然に法律名を列挙された五條郡長は、意味が理解できず、痴呆のように口をぽかんと開けたまま、茫然としています。


 一方、瞑目して、伊之吉の言葉を聞いていた留守は『正式に失効』の言葉に、眉をピクリと動かして僅かに反応を見せました。


 しかし、伊之吉はかまわずに先を続けます。


「……にもかかわらず、旧規則に基づいて選出された『四郡連合会』議員は、その一人たりとも人民の正当なる委任をその身に負いたる者なきことは、明白なり!」


 伊之吉の主張は大要、次のようなものです。


 連合会の存在を規定していた法律は既に失効している。ならば、連合会自体には何の法的効力も存しない。もちろん、その議員は人民の委任を受けた代表の資格も有しない、……というものでした。


 その論拠の真意を見抜いたのは留守だけではありませんでした。和田を始めとする上級書記たちもまた、その言わんとする趣旨を瞬時に理解しました。


(こやつら、……そうか、条文の解釈論ではなく、法律自体の有効性を突いてきおったか。……解釈論なら喧々諤々している間に我々が事を進めて既成事実化できるが、法律自体の失効ならば、シロクロ明白だからな……)


 和田は素早く頭を回転させました。


(なるほど、目の付け所は悪くない……が、やはり百姓は百姓だ。愚か者め、そのような手抜かりを我々がすると思うか。確か、その整合性はとっくに済ませていた筈……そう、間違いない!)


 相手の論拠が分かり、記憶をたどり、それに対する備えが万全である自信が確認できた和田は、一時的な動揺から回復し、心の余裕を取り戻したのでした。


(てっきり、あの別段建議書について申し立てしてくると思ったが……、まぁ、それとしても、どこまでもシラを切れば済むことだかな)


 別段建議書とは、県側に都合の良い結論ありきの建議書に対抗して、東村山郡住民が独自に作成したもので、この場にいる柴書記が、あろうことか旅籠の竈にくべて完全にこの世から抹殺した建議書です。


 余裕を取り戻した和田は、知らず知らず笑みさえ浮かべていました。


(……さてさて、あとは何をほざくか、好きに語らせてやろう。どのみち、貴様らには我々に敵うべくもないのだから)


 伊之吉は、淡々と次を読み上げます。


「ふたつ!……明治13年7月となり、協議のうえ県の認可を得て、はじめて旧連合会議員の据え置きが決定されたのであり、6月25日の四郡連合会開会時、更に6月28日の四郡連合会決議時において、連合会議員と呼ばれる者は、即ち単なる1人の人民に過ぎずして、人民を代表する議員には非ざること明白なり!」


 その言葉の意味するところを知った和田・柴・津田・小松らは再び愕然とします。一端は着席していた和田以外の三人も、ガタガタと、また椅子を倒して立ちあがり、あまりのことに動揺を隠せません。


(な、なぜだ……た、確かに法律上の整合性は取れていた筈……な、なんで、そんなことに!)


(そうか!起工式か!県令閣下の御意向で起工式を前倒しで6月25日にしたのだった!それで連合会の開催も……)


 内務省からの工事着工認可は6月1日でした。1日でも早い完成を待ち焦がれていた三島県令は、諸般の準備を急がせて、当初、7月半ば頃と予定されていた着工を、6月末に強引に前倒ししたのでした。


(7月に議員身分据え置きを決めたなら、それで良いだろう!遡って身分を保証することで問題はない!……こいつらの言ってることは詭弁だ!)


(むむ……ことはそう簡単にはいかんぞ……今年7月の太政官布告の刑法で、法律適用の不遡及が明文化された)


(そうか、行政行為の不都合を、後付けの法律で如何様にも合法化できるとなると、またぞろ民権家どもが騒ぎだす)


(まして、新刑法を出したばかりの司法省に法的判断や解釈を求めても、不遡及を言い出した手前、及び腰になるのは目に見えている)


 郡役所は、すべからく法律に乗っ取って行政事務を司っています。そのプロとしての自負が、法律に関して住民からつけ入られる隙のあろう筈もないとの慢心をそこに生み出していたのです。


 しかし、たった今の住民からの痛烈な指摘により、法律に依って立つところの郡役所の威信はガラガラと音を立てて崩れ去りました。


 今、郡役所に激震が走り出しました。


 **********


(史実解説)


 明治初期の地方行政の分かりにくさを助長しているのが、地方行政単位の度重なる変更です。まず、大きな括りとして、藩というものの消滅があります。藩という呼称は廃藩置県まで存在していたので勘違いされがちですが、政権主体が江戸幕府から太政官政府に変わった時点で、封建制度を組織化していた地方分権的な藩は制度上は消滅し、新たに地方行政単位としての中央集権のもとでの藩に変わりました。ですので、「藩主」という地位は存在せず、中央から任命された形式を取った「知藩事」という地位が新たに生まれ、その後、廃藩置県で完全に藩という呼称も消えました。しかし、それより小さな行政単位の組織については意外に知られていませんが、廃藩置県後も様々な変遷をたどります。


 明治5年、江戸時代から踏襲していた町村の名主・年寄・庄屋を廃止し、新たに地名ではなく数字番号を冠した大区・小区を設置して戸長・副戸長の制度を設けます。次いで明治11年に郡区町村編成法の制定で、郡役所の統括のもとに町村が復活設置されます。更に、明治21年の市制・町村制、明治23年の府県制・郡制を経て、大正12年に行政単位としての郡は消滅し、住所表記としてのみ、その名残が残りました。この推移の中で、郡役所管理下の町村連合会や郡会などの住民諸会議も細かく変遷していきました。この回で焦点となっているのは、まさにこの「町村連合会」のことです。


 **********


(おわりに)


 安達久右衛門の口上に続き、佐藤伊之吉が堂々と上申書本文を読み上げます。法律の盲点を突いた住民側の主張に、郡役所側は呆然として成す術を知りませんでした。

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