第51話 住民総意

(これまでのあらすじ……)


 安達久右衛門と佐藤伊之吉は郡役所へと向かいます。郡役所講堂で郡役所首脳部と面会した住民たちは、まず、安達久右衛門が口火を切り、丁寧な物言いながら負担金納付の拒否を堂々と宣言し、続いて佐藤伊之吉が堂々と上申書本文を読み上げます。法律の盲点を突いた住民側主張に、郡役所側は呆然として成す術を知りませんでした。


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 奇しくも明治13年7月17日、太政官布告第36号として新たに刑法が公布されました。


 それまで、個別の立法に加えて、幕府時代の法令と先例で補完していた律法体系が、ようやく近代的刑法体系へと脱皮していく一歩を記したのです。


 そして、近代的刑法のもっとも先進性を示すものとして、第2条に罪刑法定主義が高らかに明記され、法の不遡及が採用されることとなりました。


 明治政府による刑法の制定は、元は刑罰事案に対する不遡及問題から話は始まります。明治政府それ自体が、維新で活躍した志士上がりの者たちによって作られていましたから、問題はより身近なことでした。


 つまり、過去の暗殺・破壊活動・テロ行為、また、それに付随する命令・指示・教唆など、当時の法律においてもかなりの重大犯罪事案たる違法行為を、現在の政府高官自体が皆、当時は当たり前に行っていたのです。


 言葉を変えれば、極論ではありますが、明治政府の首脳部は、過激な犯罪者の集まりであったと言うことができました。みな、脛に深い傷を持つ者たちばかりなのです。


 現に、内務卿として関山隧道計画を承認した伊藤博文自身も、天誅の名のもとになにがしかの暗殺事案の実行犯であったことを自ら吐露していましたし、高杉晋作らとともに英国公使館を焼き討ちしたエピソードは有名です。


 西欧社会に伍した文明国家建設という美名のもとに、近代的法治国家建設を目指した裏には、政府高官たちが自らの卑劣な違法行為の数々に対する免罪符を得ようとした、……そういう側面も否めないのでした。


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 いずれにせよ、後付けの法律で辻褄合わせをしようとしても、明治13年6月のこの時、開催された連合会もその議員も、法律上では何らの効力もない私的な会合であり、代表権を持たない個人に過ぎないのです。


 7月の県認可の時点で、6月開催の連合会についても準じる旨の一文さえあれば何らの問題もありませんでしたが、住民側からの指摘を受けてから糊塗したのでは、それこそ行政側の御都合主義もここに極まります。


 すべては、まさかそんなところを突っ込まれるとは思わなかった官側の油断であり、整合性に丁寧さを欠いた官側の怠慢でした。


 結論として住民側の主張に利があるのはもはや明白でした。先に久右衛門が述べたように『邪枉の覇道』を現に行っているのは、県であり郡であるのは明らかでした。


『邪枉』とは、自分の都合の良いように法律や規則をねじ曲げ、お手盛りの立法を行うことを言います。まさに、県が現に今、住民たちに強いていることがそれです。


 7月の戸長会議の後、久右衛門が峰一郎とともに天童村の佐藤家を訪問したあの日、峰一郎が初めて梅と出会ったあの日、すべてはあの日から始まりました。


 あの日から、今日、この日のために、久右衛門も伊之吉も、そして、峰一郎も、この準備を万端に進めてきていたのです。


(ここまで来て、すべてが白紙に戻るというのか!)


(そ、そんなことが、あってたまるか!)


(我々の……今までの苦労は、すべて無駄だったと言うのか!)


(バカな!工事はもう進んでいるんだぞ!)


 様々な心の悲鳴を上げつつ、愕然たる思いの郡書記たちの前で、伊之吉はたからかに最後の第3項を読み上げます。


「みっつ!……代議権を持たない者たちが、如何なることを論じ決定しても、……本町村民は一切これに関知せず!」


 最後の『本町村民は一切これに関知せず』の段は、伊之吉もゆっくり、かつ大声で言い切り、県お手盛りの連合会を、大上段で斬り捨てました。


 好きなように議論するのは御勝手に、我々にはまったく関係ありませんから……、というものです。


「しかしながら!」


 伊之吉の大きな声に、再び役人たちが身体をビクン!とさせます。


「しかしながら!……郡役所が、その議決に由り、その施行を、各町村に達せらるるに及びて……」


 伊之吉は、そこでひと息つきました。そして、決然と宣言します。


「……我らは、断然、反対せざるを得ず!」


 伊之吉は書面から視線を上げて、五條郡長と留守筆頭書記の方向を見つめながら、敢然と言葉を結びました。


(よし!)


 村形宇左衛門だけでなく、石川理兵衛、三浦浅吉の二人も、ぎゅっと握り拳に力を入れて、心の中で快哉を叫びました。


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 伊之吉が上申の条々を読み終わった時、議長役の和田は茫然と立ち尽くし、久右衛門を怒鳴りつけた小松は机に両手をついてうなだれていました。


 柴・津田の両書記もまた、あまりの衝撃に、椅子にへたりこみ、呆然の体でうなだれていたのでした。


「右の条々、謹んで郡長閣下に上申、奉るものにございます」


 静かな落ち着いた声で最後を締めくくった伊之吉は、上申書を元のように巻き畳み、『上申』と墨痕あざやかに書かれた和紙の包み表紙に入れました。


 そして、郡役所の面々に対して書面の向きを正し、テーブル上に置いて五條郡長にずいっと進めました。


 伊之吉はそのまま着座しましたが、東村山郡郡長五條為栄の方はしばらく茫然としていました。しかし、いかなるものであれ、住民側から郡長宛に公式に奉呈された上申書をそのままにしてはおけません。


 五條郡長は、自分の目の前の物に手を伸ばしてそれを掴もうとした瞬間、まるで、その物に触れることを身体が拒否したかのように、ぶるぶると身体を震わせたのです。


 そして、次の瞬間……


「なぜだ!……なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだ、なぜだ!」


 髪の毛をかきむしり、ヒステリックに郡長が叫びました。しかし、郡役所側の面々は誰もその郡長の様子を気にかけて手を差しのべる者もいません……。


 郡長の姿に呆れているというよりは、他にかまけている余裕を持てないほど、自分自身もまた郡長と同じような衝撃を受けていたということでしょう。


 その一部始終を無表情に見ていた伊之吉と久右衛門でしたが、頃合い良しとして、それぞれの隣に控えている村形・石川・三浦の介添人に対して頷きました。


 すると、その合図を受けた3人は一斉に立上がり、背中に斜めかけして背負ってきた荷を肩から外し、その荷をほどいて中から書類の束を取り出しました。


 それまでヒステリックに頭をかきむしっていた郡長が、一体、何事が始まるのだろうかと、動きを止めて、彼らの動きを見つめ始めました。


 彼らが取り出した書類の束が3人の手によってテーブルの上に並べられると、やにわに伊之吉と久右衛門の二人も再び立ち上がります。


 村形・石川・三浦の介添人3名は、立ったまま、並び立つ久右衛門と伊之吉のふたりより一歩だけ後ろに下がりました。


 その作業を、郡役所側は、茫然と見つめていました。すると、その並べられた束を前にして、改めて伊之吉と久右衛門が叫びました。


「山形県羽前国東村山郡1町67ヶ村、士民7069人が総代、天童村205番地、平民・佐藤伊之吉!」


「同じく、同県同国同郡7ヶ村、平民743人が総代、高楯村3番地、平民・安達久右衛門!」


 そして、久右衛門がそのまま言葉を継いで慇懃に続けます。


「……以上、合わせて、東村山郡1町74ヶ村の人民7812人を代表し、明治13年10月2日、佐藤・安達の両名、慎んでここに上申つかまつります!」


 5人は、郡長に向かい、深々と頭を下げました。しかし、これは決して敗者の屈従の叩頭ではありません。むしろ、この時点では役所側こそが自らの敗北を自認していたのです。


 東村山郡の町村の実に4分の3を超える村々から、そこに住まう住民の8割から9割の人々が、この二人に委任状を与えて、今回の負担金について正式に郡役所への反意を突き付けたのです。


 約8000人弱の家長の背後には、その家族約6~8万の人間が付き従っており、いかに郡が強硬手段に訴えたくとも、あだやおろそかに出来るものではありません。


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(史実解説)


 数日遅れで盟約に参加した村と戸長を加え、最終的に集まった委任状は1町82ヶ村8206人を数えました。この数字は、東村山郡内町村の85%、総戸数の70%に達します。これは関山新道が通過する長崎地区、現在の中山町を除く東村山郡のほとんどを占めていると考えて良いかと思います。現在の自治体区分で言うところの、天童市・山辺町および山形市北部がその地域に当たります。戦後日本で猛威を奮った日教組、日本教職員組合が、活動のピークにあった昭和30年代の組織率が80%台であり、昭和25年から30年にかけての労働争議が華やかなりし絶頂期にあっても、労働組合の組織率が60%に満たなかったことを考えると、東村山郡住民の組織率が如何に高かったかがうかがえます。


 特に山野辺地区においては、大塚村・三河尻村・北山村など99%の組織率に達する村を始め、村数は少ないながらも山野辺地区全体で9割の戸数が久右衛門らの活動を支持し参加しました。この事実は、久右衛門の並々ならぬ力量を示す証左と言えます。


 なお、上申書の文中、佐藤が総代となる住民を「士民」、安達が総代となる住民を「平民」としてあるのは、佐藤総代の住民の中に士族も入っているからと思われます。東村山郡の唯一の町である田鶴町とは、織田信長次男信雄の後裔である織田家天童藩2万石の藩庁天童陣屋周辺の「郭内」と称された地域を指し、元天童藩士である士族が多く住まう町だったと思われます。


 もうひとつ補足で恐縮ですが、実際の上申書本文は、より格調高い候文です。しかし、現代語にするには難解で長文となりますので、かなり省略の意訳であることを御了解ください。


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(おわりに)


 読み上げられる上申書に愕然とする郡役所の面々を尻目に、伊之吉が最後のだめ押しの結びを宣言したのです。そして、最後は東村山郡住民の委任状の山を郡長の面前に突きつけたのでした。

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