第49話 安達久右衛門の口上
(これまでのあらすじ……)
郡役所と県庁が善後策に腐心する中、峰一郎は怪しげな人物と接触して様々な教えを受けました。そして、気が熟した高楯村の安達久右衛門と天童村の佐藤伊之吉はいよいよ郡役所へと向かい、それぞれの家族・友人たちは複雑な思いで二人を見送ります。いよいよ、東村山郡の住民たちが動きだしました。
**********
郡書記たちの職員室の扉を開けて、和田徹次席書記が興奮を押さえるかのように表情を固くしつつ、もっとも奥にある留守永秀筆頭書記の机のもとに近づきます。
「彼らが来ました」
和田は、留守の机の前で、その一言のみを告げました。しかし、留守にはその言葉で十分でした。
留守は、努めて平静にゆっくりと書類から目を離すと、机の前まで来た和田を見上げ尋ねます。
「そうか、遂に来たか。……一体、何人で来たかね」
留守の声は努めて平静でした。
「6人です。既に講堂へ通してあります」
(ほう、6人か……もし、暴れても取り押さえられん人数でもないか……)
留守としては、大人数ではないだろうと見越して5~6人程度と予想していただけに、自分の想定の範囲であったことにひとまず安堵しました。
講堂は、毎月の戸長会議に使われ、今回の関山新道建設負担金の受付窓口にも使われている場所でもあります。
既に、和田の手配で土木担当書記の柴恒玄、租税担当書記の津田端、出納担当書記の小松英休、その他、下級書記7名全員も呼集して講堂に向かわせていました。
それだけではなく、講堂に隣接した部屋には、留守の合図でいつでも飛び出せるように、郡役所警備に緊急配置された巡査3名を待機させていました。
「では、郡長もお呼びしてきてくれたまえ」
「ははっ」
恭しく叩頭しつつも、和田は内心で苦笑いしつつ舌打ちせざるを得ませんでした。
(留守書記は、どうやら本気で郡長閣下のことを、わたしに丸投げするようだな……やれやれ、気の重いことだわい……)
和田は、書記職員室から続く郡長執務室に重い足取りで向かいます。
それを横目で見た留守の顔には、不可思議なる若干の笑みがこぼれていたようにも見えたのでした。
(コンコン……)
「閣下、和田です、失礼いたします」
**********
数分後、講堂に置かれた大テーブルの両側に、住民代表と郡役所の面々が対峙することとなりました。
片や住民側は、紋付き羽織袴の正装をした安達久右衛門と佐藤伊之吉を中心として、両側にふたりずつの合計6人が着席しています。
片や役所側は、洋装に身を包んだ五條郡長と留守筆頭書記を中心に、和田・津田・小松・柴の上級書記の6人が着席し、その後ろに担当官である下級書記7名が起立した状態で住民側と向き合っていました。
まず、いつものように、冒頭、和田が口火をきります。
和田は、大テーブルの両脇に双方を眺められる真ん中の位置までツカツカと歩み出て、一度、五條郡長に向き直り、うやうやしく一礼をします。
そして、改めて住民側に体の向きを変えると、朗々と言葉を発しました。
「天童村住人、佐藤伊之吉、ほか2名、ならびに、高楯村住人、安達久右衛門、ほか2名。本日の用向きの件、いかに!」
その問いかけに応えるように、正装姿の安達久右衛門が、袴の裾をはたいて立ちあがります。そして、五條郡長に対して深く一礼をしました。
「畏れ多くも郡長閣下、ならびに皆様方に面晤の機会をつかまつり、恐悦至極に存じあげます。こたび、何卒、お聞き届けいただきたき旨、出来(しゅったい)つかまつり、上申のため、かく、罷り越した次第にございます」
「はて、面妖な。既に昨日、嘆願の儀は郡長閣下のご恩情にて、閣下おん自ら聞き届け申した筈……」
その言葉に官側中央の五條が大きく頷きます。
五條としては、側近の諫言を押さえてまで、住民の切なる願いを聞き届けてあげたつもりのだけに、負担金も持参せずに手ぶらでやってきた住民に不審げな目を向けざるを得ません。
まして、自己保身のみの処世術に長けた公家として、自分の判断が間違っていたらと思うと、もはや気が気ではありません。
しかし、久右衛門は『嘆願』ではなく『上申』と言いました。和田にも、まだその言葉の違いに留意できてはいないようでした。
「……この期に及んで、もはや嘆願は無意味、早速に負担金を納付すべきに非ずや。……されど、皆々の手許には持参の金子も見えず。かくなる上は、疾く村に立ち返り、負担金持参の上、早々に出直して参られよ!」
和田の堂々とした口上が講堂の隅々まで響きわたります。その和田の対応を当然だと言わんばかりに官側の面々は頷いて聞いています。
しかし、……。
「しばらく!」
まるで、初代市川團十郎の歌舞伎の演目を見るかのごとく、久右衛門の低く通る声が和田の語尾を遮ります。
突然の大音声で、一瞬の和田の怯んだ隙を見逃さず、久右衛門が更に言葉を続けます。
「負担金の納付、それは叶いますまい。……いえ!負担金なぞ、はなから存在せぬのでございます!」
ゆっくりと、しかし、ピシャリと言いのけた久右衛門の言葉に、和田は蒼白となります。いいえ、和田だけではありません。五條郡長以下の居並ぶ郡役所側の面々にも激しい動揺が走ります。
「な、なにを言っているのです!あ、あなた、気は確かですか!」
狼狽する五條は、顔を真っ赤にしながら、甲高い悲鳴のような絶叫をあげます。
「あ、あなたがたは、わ、わたしに『どうか、もう少しお待ちください』と、涙ながらに頭を下げたのを忘れましたか!」
五條の狼狽ぶりとは対照的に、久右衛門は落ち着き払って答えます。
「郡長閣下のご恩情、郡住民10万の等しく感涙にむせぶところ、我ら、郡長閣下の御徳に応えたく、1人として努力せざる者はございませぬ」
ならば、なぜ素直に負担金の納付をしないのか!……郡役所側に居並ぶ郡長以下、郡書記の面々が同じ思いを抱きながら、久右衛門を睨み付けます。
しかし、そこで久右衛門の、ひときわ大きな音声が講堂の中に響き渡ります。
「されど!」
その声に居並ぶ郡役所側一堂は、その久右衛門の迫力に、びくりと体を硬直させます。
「されど、……皇国の民として、近代国家の定めに従うは我らの務め、世界に伍する皇国の地位向上のため、諸事万端、衆議を尽くし法律に基づく国家を作らんは、今上の陛下の願いにございまする。陛下の斉民慈愛の王道治世において、恣意的に法を曲げる邪枉の覇道は叶いませぬ」
ひと息ついて言葉を区切り、郡長を見据えた久右衛門に対して、五條郡長が挑むように、また、金切声を上げます。
「それが分かっていながら、なにゆえ!なにゆえじゃ!」
久右衛門は、軽く頷き、再び先を続けます。
「郡長閣下の仰せ、ご不審、ごもっともにございまする。……されど、陛下の思いを汲めばこそ、われら臣民も陛下の願いに応えて、法に基づき上申、申し上げます……」
久右衛門はそこで目を閉じて深く息をつきました。
そして、次の瞬間、決然と目を見開き、意を決したかのように力強く言葉を紡ぎ出します。
「此度の負担金、御納付、申し上げる事は、法の定めるところにより、つかまつる能わず!」
その決然としたもの言いに、対面に居並ぶ官側は一様に驚愕しました。議長役の和田だけでなく、柴・津田・小松らの上級書記たちも、ガタガタと椅子を鳴らして立ちあがり、身を乗り出して詰め寄ります。
「な、なに!」「いま、な、なんと!」「おのれ、何を言うか!」
血相を変えた郡書記の面々に対し、それにもまったく動じることなく、久右衛門はひときわ大きな声で繰り返しました。
「此度の負担金、つかまつる能わず!」
ピシャリと言い切った久右衛門の言葉に、講堂は水を打ったように静まり返りました。
(きゅ、久右衛門さん、……かっこえぇ!歌舞伎役者みてぇだぁ!)
脇に控える三浦理兵衛や石川浅吉も、その堂々とした久右衛門の口上に惚れ惚れとして聞きいってしまいました。
今まで水面下でくすぶり続けてきた官民の対立が、遂にこの東村山郡役所講堂にて、その火蓋を切ったのでした。
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(史実解説)
『暫』(しばらく)は、歌舞伎の演目で歌舞伎十八番のひとつです。内容的には平安期に題材を取った時代物で、荒事の代表的な演目です。「しばらく!」を何度も繰り返し、その語調やアクセント、更には團十郎相伝の『睨み』などで巧みな表現を使い分けて舞台を盛り上げます。久右衛門は一度しか言いませんが、イメージとしてはそんな歌舞伎の雰囲気を意図して、その言葉を選びました。
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(おわりに)
郡役所講堂で郡役所首脳部と面会した住民たちは、まず、安達久右衛門が口火を切りました。久右衛門は慇懃に丁寧な物言いながら、負担金納付の拒否を堂々と申し上げたのです。憤然とする郡役人たちと住民代表との戦いがここに始まりました。
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