第46話 世の中を変えろ!(改)

(これまでのあらすじ……)


 東村山郡役所と山形県庁が住民達の不穏な動きに対する善後策に腐心する中、三島通庸山形県令は住民の目的を喝破します。一方、安達久右衛門の使いで天童村を訪れた峰一郎は、佐藤伊之吉に頼まれた使いで、怪しげな人物と接触します。その謎の男は、いかに地主という者の勤めが大変か、そして、いかに不条理なものかを、峰一郎に教えます。始めは警戒していた峰一郎でしたが、いつしかその男の話しに聞き入り、今まで自分が考えもしなかったことを教えられて愕然としてしまいます。


 **********


 小作人のあばら家、そこで峰一郎は正体を隠す謎の男と対面しています。


「そんなにやっているのに、そのうえ、お上からは毎年の税金を取られ、そして、降ってわいたように、気紛れな運上金や冥加金なんぞの名目で、突然、金を出せと言われる」


 その男の言う通り、峰一郎の疑問や怒りもその一点にあります。


「一軒あたりなんぼと言っても、払えん小作人の分までも地主が肩代わりする。今回の負担金もそうじゃ! 代官が郡長に替わっただけで何も変わらん! ……なんで地主ばかりがそこまでせにゃいかんのじゃ? 峰一郎、なんでじゃ? 」


 峰一郎は驚きました。今まで考えもしなかった疑問が、次々に突き付けられ、しかも、それらがすべて峰一郎の思考の核心を付いて心に響いてきます。


(なんでだろう? ……税金を払う先は国じゃろう? でも、国はその税金を何に使っているんじゃ? 道路を作ったり、橋を架けたり、堤防を作ったりしているんじゃないのか? )


 しかし、峰一郎はすぐにその矛盾に気付きます。


(……いや、今回は道を作るから、税金とは別に金を出せと言ってきた。じゃあ、税金はなんで出すんじゃ? )


 疑問はまた新たな疑問を産み、際限がありません。


 **********


「峰一郎、東村山郡の役所の人間はどれくらいいると思う? 」


 急に話しの方向が変わったように感じた峰一郎は、また戸惑いました。


「100人? ……いや、200人ぐらいはおらんと……東村山郡の村だって100ぐらいあるべし」


 考えもしなかった峰一郎ですが、思い付きながらも、峰一郎はそれなりの理由も付けて答えました。


(賢い坊主じゃ、自分なりに理屈を考えちょる……)


「ふふふ……そうじゃ、東村山郡全部で町がひとつ、村が97もあるしの。それぐらいは役人がおらんと、郡をまとめられん……峰一郎もそう思うよの」


 男は悪戯っぽい笑顔を見せていました。しかし、次に男の口から出た言葉は峰一郎を驚かせるものでした。


「じゃが、実際の郡の役人は、郡長が1人、書記13人、訓導3人、わずか17人しかおらん。雑役の筆生・従僕まで入れても、たったの30人足らず。これで10万の郡住民を差配しておるんじゃ」


 想像していた数よりも遥かに少ない数字に峰一郎は驚きました。


 郡役所の職員には、その男の言葉の通り、郡長以下、郡書記・訓導・筆生の役職があります。


 まず、『郡書記』は実質的な実務担当者ですが、『訓導』は戦前の旧制小学校の教師を指します。しかし、当時はまだ学制がスタートしたばかりの創成期で、各学校も寺院を間借りして、正規教員もまだいない時期です。ですので、郡役所に配置された訓導は、現在の教育委員会のように、郡内各学校行政の指導にあたっていたのではないかと推察されます。


 また、『筆生』については、役所の各種文書を専門に作成することのみに特化した本来の意味での書記官です。この時期は図面作成などの地理行政も重要行政事項に数えられていましたから、文書のみならず絵図面作成も作業任務にあったかとおもわれます。


「ほ、ほんてんだが! それっぱりで、おらださ偉そうに指図しったなが! 」


 峰一郎は目を丸くして驚きを隠せませんでした。


 当時の東村山郡の戸数は1万1728戸、平均1戸あたり7人~8人(祖父母・両親・子供3~4人)と考えれば8万~9万程度の人口と推計できます。もちろん、兄夫婦・弟夫婦同居で子供10人以上の大家族もザラであった当時ですから、その男の言った人口10万という数字も、あながち的外れではないかもしれません。


 なお、現在の東村山郡に相当する天童市(6万2千)・山辺町(1万4千)・中山町(1万1千)の1市2町で人口8万7千人、明治初期とさほど変わりないと仮定して、市役所・町役場の職員はそれぞれ516人・117人・105人の合計738人となります。明治期の東村山郡は現在の山形市北部も含みますし、公務員職員数には警察官・消防士を含んでいませんから、その実態はより隔絶しています。


 約百名いる戸長と各村役場に在勤する数名の職員まで含めて現在の市役所・町役場の職員数にようやく近い数字になるものと思われますが、しかし、警察・消防・冠婚葬祭などを考えれば、その他の地主の協力や働きがいかばかりであったかがこの数字からも伺い知れます。


「そうじゃ、郡の役人は何も動かん。ただ、地主や戸長たちにああしろ、こうしろと命じるだけ。実際に動くのは地主たちだけじゃ」


 峰一郎は大きく頷きます。


「だから、峰一郎の叔父さんや親爺さん、伊之吉たちが、毎日毎日、住民のために一生懸命に働かんといかんのじゃ」


 これが明治初期の地方政治の実態でした。すなわち、この時期の地方行政は、江戸時代の10~20人規模の代官所政治とまったく変わらない『委託行政』だったのでした。江戸時代の地方行政の主体は、大名や旗本のように見られがちですが、実態はその出先機関である代官が名主・庄屋に対して行政事務・行政行為のほぼすべてを委託していたのです。そして、それは明治時代にまで引き継がれていきます。


 特に、官僚化していく武士に対し、安達久右衛門のように婿入りまでして土地や地域を任された地主は、武士以上に武士たらんとして、自らを律しながら、家の格を上げ、地域全体の利益のために働いたのです。


 関東地方などは大大名が少なく、小さな知行地が入り組んでいるために、余計に名主・庄屋の住民庇護意識が育ち、実質的に何もできない官僚的武士に代わり、二宮金次郎や渋沢栄一のような人物が実務者として台頭して歴史に名を残したのです。


 そして、その後も、明治の足尾鉱毒問題で活躍した田中正造のように「絶対に村民を守る! 」という激しいパワーを持って活動する人物が出たのも、背景にはそういう地主のコミュニティ保護責務的な土壌があったためです。その人物が偉かったのはもちろんながら、地主階級の一般的な認識として、小作人は搾取する対象なのではなく、守り、そしてともに生活をする家族なのでした。


 山形の内陸地区も関東地方と同じで、譜代の小大名や代官領が細かく入り組んでいたために、名主層・庄屋層の意識は関東地方と同じような状況が多く見受けられたのでした。


 一方で、関東地方や山形県内陸部と異なり、比較的広い封土を治める外様大名の領地では、商人や地主への規制が強く、経済活動が不活発な傾向にありました。仙台は伊達家のお膝元でありながら、こと商人の経済活動においては、紅花商人を始めとする山形商人に遅れを取っていました。現在からは考えられませんが、明治10年頃までの山形は仙台よりも栄えていたのです。


 だからこそ、大久保内務卿直々のお声掛りで、当時、内政で業績を上げていた三島に山形への赴任が命じられたのかも知れません。鹿児島の不穏な情勢に庄内の不逞士族が呼応するのを未然に防ぐだけなら、西南戦争終結後、とうに東京に呼び戻されても良い筈です。即ち、東北の産業の要として山形が重要な位置を占めていた可能性が少なくないためであったと思われます。


 このように当時の地主の状況と地方の政治の実情をつぶさに見れば分かるように、明治初期の自由民権運動が『豪農民権』と言われるのは、上記のような背景があるからです。地主たちは地方行政の主体者という立場で、地方に住む住民たちの利益代表として、国家の不当な圧力から自分たちの家族とも言える住民たちを守るために立ち上がったのです。


 《明治初期の地主階級》は、支配者から住民を庇護するという使命感を持ちつつ、地方行政の現場での実務を取り仕切り、それを江戸時代から伝統として連綿と受け継いできました。


 《昭和初期の地主階級》は、国が近代化を進める中で地方行政の主体という機能を失い、何度かの大恐慌を経て農村自体が次第に疲弊変質していき、いつしか小作人を収奪搾取の対象とするようになっていきました。


 同じ『地主』という呼称を使いながら、両者はまったくの別物なのです。戦後教育で植え付けられた『地主』というイメージで、明治の地主をイメージすることは非常に難しいことです。しかし、当時は地主階級にこそ開明的な人材が続々と輩出されてきたのでした。


 **********


 しばらく無言で峰一郎とその男は互いを見つめあいます。そのうちに、男の方が、フッと口元を緩め、峰一郎に再び問いかけをします。


「峰一郎よ、お前はどうする? どうしたらいいと思う? 」


 それに対する峰一郎の答えは、今更何を言うかとばかりに、峰一郎にとっての当然の言葉を返します。


「俺はおんつぁまの手伝いば……」


 しかし、男はみなまで言わせずに言葉をかぶせます。


「違う、そうじゃない。こんな役人の非道がまかり通る世の中を、変えなきゃいかん。それにはどうすべきか、だ! 」


 男はそれまでの柔らかな顔つきとはまったく違い、峰一郎に対して刺すような真剣な目付きを投げ掛けてきました。


「世の中を……変える……? 」


 またまた想像もしていない大きな問いかけに、峰一郎は言葉に詰まってしまいました。


「本当は、地主に全部やらせて、何もせなんだわしらの責任じゃ。わしらが怠けてきたツケが、峰一郎の叔父に皺寄せとなって来たんじゃ」


「え? 」


 峰一郎は、男の言葉に違和感をおぼえました。男は確かに「自分たちのせいだ」と言いました。「自分たちが怠けてきたツケだ」と言いました。


 しかし、峰一郎にはそれがどういう意味を指しているのか、さっぱり分かりませんでした。


「峰一郎はあの小鳥海山の大杉に誓いを立てたと聞いたぞ。あの大杉のように、まっすぐで、でかい人間になるんじゃろう」


 また、峰一郎は驚きました。この男はどこまで自分のことを知っているのか? 不気味に感じてしまいます。


 目を丸くしている峰一郎に、男は身を乗り出して食い入るように見つめます。……そして、数瞬後、先刻のように、フッと顔を弛めて視線を外しました。


「まあ、良い。峰一郎、これからじっくりと考えていけ。……いやぁ、わしも小僧相手にむきになってしまったわ、ハッハッハッハッ! 」


 **********


 峰一郎はぎっしりと野菜を詰めた重い篭を背負い、梅と一緒に、佐藤伊之吉(さとう・いのきち)の家に戻りました。


 その篭の底には、あの男から預かってきて伊之吉に届けねばならない封書が隠されていました。


 しかし、その道々、峰一郎はずっとあの男から言われたことを反芻して考え込んでいました。


 地主の務め……、


 役所の有り様……、


 税金とは何か……


 世の中を変える……


 あの男は「役人の非道がまかり通る世の中を変えなきゃいかん」と言いました。世の中を変える……そんなことがどうすれば出来るのか?


 石川尚伯(いしかわ・しょうはく)先生からは、誰も傷つかず、戦うこともなく、怨みを残さず、皆を納得させる大きな力があると教えられました。


 小鶴沢(こづるざわ)川で自分たちがやったことは、東海林寿庵(とうかいりん・じゅあん)先生からたしなめられました。そして、寿庵先生は、尚伯先生の言った大きな力は、峰一郎にも間もなく分かるだろうと言われました。


 峰一郎は、尚伯先生が言われた「大きな力」というのが、きっと世の中を変える力になれるのかもしれないと、漠然と思うのでした。


 しかし、それが一体、何なのか?それがなんとなくもやもやしていて、分かりそうで分からないのです。


 本家の叔父や、峰一郎と梅の父たちが頑張って動いていることに答えが見えそうで、まだ、峰一郎にはそれが見えません。そのことが、峰一郎には歯痒いのです。


 **********


(おわりに)


 謎の男は、峰一郎に、地主の務めの激しさと世の中の不条理を説き教えたのでした。そのすべてが峰一郎にとっては驚くべきことであると同時にそれがもっともなことであると理解できるのでした。そして、その謎の男は、最後に、この世の中を変えなければいけないと、峰一郎に詰め寄ったのでした。峰一郎は、謎の男から受け取った封書の束を背中に背負った野菜籠に潜めて運びながら、謎の男の言葉を反芻していました。峰一郎は悩みながら成長していきます。

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