第41話 落合の渡し(仮)
(これまでのあらすじ……)
東村山郡役所では留守永秀筆頭郡書記が矢継ぎ早に住民対策を講じていきますが、それを郡役所トップたる五條為栄郡長がひっくり返してしまいます。郡役所次席の和田徹郡書記は留守の命で山形県庁を訪れ、高木秀明土木課長と鬼塚綱正一等警部に現状を報告し、県庁の協力を要請します。しかし、肝心の三島通庸山形県令は極秘に帝都への出張をしていたのでした。民権派の伸長著しい社会状況の中で、トップ不在の組織を勝手に動かすのは困難でありました。
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安達峰一郎と佐藤伊之吉(さとう・いのきち)の娘・梅は天童(てんどう)村から西に向かい歩いていました。
峰一郎は、こんな色恋の経験はまったくないので、何を話して良いか分からず、ズンズン先に進んでいきます。それでも、朝、高楯(たかだて)村から来る時のような駆け足ではありません。
一方の梅は、峰一郎の後を慕うようについてゆきます。それだけでも梅は嬉しそうに峰一郎の背中を追いかけているのです。
時折、峰一郎が後ろを振り返り、後ろの梅の様子を気づかいます。その時は梅も嬉しそうに笑顔で応えます。でも、峰一郎は恥ずかしそうにまた前を歩いていくのでした。
そうして、小一時間も歩くと寺津(てらづ)村の須川の渡し場に着きます。須川は、それほどの川幅はありませんが、高楯村の小鶴沢(こづるざわ)川のように歩いて渡れるような浅い川でもありません。
ここから更に下流700mほど下がると、須川は最上川に合流しますが、この場所を地元では蛸首(たこのくび)と呼ぶ須川の湾曲部になっていて、その湾曲部で流れが減殺されたところに渡し場がありました。
そこは長崎(ながさき)村と寺津村を繋ぐ交通ラインになっていました。その渡しは、誰が言うともなく『落合(おちあい)の渡し』と呼ばれています。
そこには年老いた渡し守がおり、長崎・山野辺地区と、天童地区との往来に使われている渡し舟の船頭を長年していました。その船頭の住まいが、長崎村側の落合という集落でした。
天童側からすれば、寺津村を挟んで須川の先に長崎村があり、そこから地元で立ち道と呼ばれる一本道を通って、湿地帯と原野を突っ切った先に峰一郎の住む高楯村があります。
「じゃあ、おうめちゃん、またな」
「峰一郎さん、また。……あ、あの……また、……また来てけるよね」
梅はうつむき加減に峰一郎に答えると、峰一郎も恥ずかしげに言葉少なに返事をしました。
「うん、……必ず」
小さな桟橋とも言えない渡し場の板敷、その手前の河原で、二人は名残を惜しみつつ、峰一郎は小舟に乗りました。
「坊主、ちぇっと待ってろな。山形の方から、くだて来る舟、来ったさげ」
峰一郎が差し出した渡し賃を銭入れにしまい、懐に入れながら渡し守の老人が言いました。
老人の声に誘われるように、峰一郎が須川の上流を眺めると、数人の客を乗せた舟が次第に近づいてきます。近づく程に、舟の様子も見えてきました。
先頭に黒い洋服姿で髪を七三に分けた洋髪の紳士が端座しています。その後ろには、襟なし白シャツに着物とたっつけ袴姿の、今で言うところの書生風の者が二人控えていました。
それはいかにも上級お役人という感じの御一行でした。恐らくは県庁方面の馬見ヶ崎(まみがさき)川から須川に入り、行き先は分かりませんが、この先で最上川に入るのでしょう。
峰一郎は、その舟をじっと見ていました。その洋装の役人らしき人物は、峰一郎にちらっと一瞥をくれただけで、再び硬い表情のまま前を向いています。
そうして、その舟は、川の流れにしたがい、峰一郎のすぐ目の前をゆっくりと通りすぎていったのでした。
「坊主、だば、行ぐべ」
年老いた渡し守が、棹を巧みに操り河床を捉えて岸を離れます。すると、渡し守が峰一郎に声を掛けます。
「坊主、手、振らねでしぇえなが? 」
「え? 」
渡し守の言葉で川岸の方を振り返ると、渡し場のところで梅が満面に笑顔をたたえて手を振っていました。
峰一郎は顔を真っ赤にして恥ずかしそうになりながらも、梅に向かい手を振ります。
「あの娘っ子、こないだも来ったっけな、坊主の姉様が? 」
最近、よくこの渡し場に来ている峰一郎は、渡し守の老人とも顔馴染みになっていました。
「んねっす、……おれの、……おれの、いいなずげ……だっす」
少しためらいつつも、峰一郎は胸を張って堂々と言い切りました。
「ほうがぁ、めんこい嫁っこだなぁ……めんこい、めんこい……」
(めんこい、めごこい=可愛いい)
渡し守の老人は巧みに舟を操りながら、さも愉快そうに顔をほころばせました。
この時代、15、6歳で嫁に行くのはざらでしたから、小さい頃から親が決めた許嫁がいても珍しくはありませんでした。
ほどなく対岸に付くと、峰一郎は舟を降り、土手に上がります。それでもまだ、梅は笑顔で峰一郎に向かって手を振っていました。
峰一郎は、一気に土手まで駆け上がり、最後に土手の上から大きく手を振ることで別れを告げました。そして、気恥ずかしさを振り切るように、一気に土手の反対側斜面を駆け下りていくのでした。
峰一郎は、初めて赤の他人に、梅のことを自分の許嫁と紹介しました。それは、とても恥ずかしくて、でも、とても嬉しいような、誇らしいような、不思議に満ち足りた思いを感じさせてくれました。
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しかし、土手を駆け下りた峰一郎は、そこで一端、足を止めて気持ちを静めます。
梅とのふたりだけのひと時は、峰一郎に不思議な高揚感を感じさせ、どうしても押さえがたい不思議な胸の鼓動にとらわれます。しかし、峰一郎には、安達久右衛門と佐藤伊之吉から託されている重大な使命があります。
「よし! 」
土手を降りて一人となった峰一郎は、改めて自分に言い聞かせるかのように声を出し、気持ちを落ち着けて歩き始めます。
「……? 」
そんな時、ふと、峰一郎はどこからか見られているかのような不思議な視線を、しばしば、感じるのでした。しかし、振り返ってみて周りを見渡して見ても、誰もいるわけがありません。そこは、数軒の小さな家々が並ぶのみの落合部落の手前、土手の下にはそこらじゅうに自生しているススキが風にそよいで揺れているだけです。
重大な使命を帯びている緊張感からか、神経が過敏になって、ススキの揺れる穂影にさえ、人の影かと感じてしまうほど、峰一郎は自らの任務に重大な責任を感じていました。
押さえがたき胸の熱い高揚感はその使命によるものか、はたまた別の何かか。その思いに急き立てられるがごとく、峰一郎は、大好きな故郷、高楯村に向けて駆けていくのでした。
峰一郎の向かう先にある立道(たちみち)に出れば、湿地帯を突っ切るその一本道の先に高楯村があります。その高楯村には、峰一郎の帰りを首を長くして待ちわびているであろう久右衛門がいるのです。
峰一郎は、西に向かってひた走ります。
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東村山郡書記の和田徹(わだ・とおる)は、馬見ヶ崎川から須川に入った舟の上で、鬱々としていました。頭の中は、首尾よく行かなかった県庁での話し合いと今後の対策をどうするかで一杯でした。
(まずは、県令閣下の帰県を待つしか方策はない。しかし、その間、無為に時間を浪費するわけにはいかん。今以上に各村落への監視を強化するのはもちろんだが、他に今の我々に出来ることはないだろうか……)
しかし、どんなに考えても、すぐに良い方策が閃くであろう筈もありません。
そんな、和田の思索を断ち切るかのように、不意に船頭の声がします。
「お客さん、間もなく蛸首(たこのくび)だで、あすこの渡し場ば過ぎっど、一気に流れが速ぐなっさげて、しっかりつかまってでけらっしゃいな」
上流から下ると須川が左の西側に大きく湾曲していきます。それがちょうど蛸の頭に似ていることから、地元ではそこを蛸首と呼んでいます。
湾曲の始まる蛸の頭の根元は、一瞬、流れが止められて速さが減殺されるので、ちょうど良い渡し場になっています。しかし、そこを過ぎて左側に大きく迂回して、蛸の頭の頭頂部に来ると、一転して急速に流れが速くなります。
船頭の声に思索を止められた和田は、目を開けて見やると前方右側の天童方面側に渡し場と渡し舟が見えました。そこには年老いた渡し守と少年が一人、渡し場には少女が一人いるだけでした。
和田は両腕で船の両端を押さえて、舟の動揺への備えをすると、再び瞑想の中へ入っていきます。今の彼には考えなければならないことが山ほどあるのでしたから。
舟は緩やかに渡し場の前をよぎっていき、川の流れに沿って左側に進路を振られていきます。
「おい、なした? 何ば見っだなや? 」
和田書記の従僕の1人が、もう1人の同僚の様子をいぶかしんで尋ねました。
「いや、……あの坊主、……どっかで見だ事ある坊主だなぁど思てや、……どごでだっけ? 」
「天童のこの辺の在所の坊主だべ」
別段、気にもとめていない同僚が、興味なさげに答えます。
「んだら分がんだげんど……、おっ! うわっ! 」
その従僕が思わず声を上げるほど、不意に舟が揺れると、そこから急に舟足が速くなりました。
あとは、一気に最上川に合流してすぐの寺津の舟着場まで間もなくです。
しかし、天童の郡役所では、留守永秀(るす・ながひで)筆頭書記が和田の復命を待ち望んでいます。和田にとっての長い長い1日はまだ終わることを許されてはいないようでした。
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その後、和田の復命を受けた留守は、県令不在という事態に驚きはしたものの、思った以上に気持ちの切り替えは早かったようです。
留守は周辺三里四方の巡回を継続しつつ、各戸長宅への巡回も始め、更に、警戒体制の長期化を見込んで職員の全日在番を交代制とすることを命じました。
この巡回に当たっては、天童分署との協力体制をより密にし、郡職員は常に複数名の巡査と組をなして任務に当たります。これは言うまでもなく威圧・恫喝を伴う上納金の催告と表裏一体でした。
そして、三島通庸(みしま・みちつね)県令が帰県したならば、直ちに鬼塚綱正(おにづか・つなまさ)警部が巡査隊を引き連れて郡役所に進出、武力を背景に村民への圧力を加えます。そこで、留守としては住民側に取られた主導権を取り戻す目算です。
しかし、今のこの瞬間も住民たちが惰眠を貪っているはずはありません。恐らくは虎視眈々と次の布石の準備を進めている筈です。
官と民、いよいよ両者の時間との競争が始まったのでした。
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(おわりに)
佐藤伊之吉の娘・梅と許嫁を装った安達峰一郎は、天童村からの帰り道を梅と歩き、須川に掛かる落合の渡しに到着ます。峰一郎は、船頭からの問いかけに、梅を自らの許嫁と話しました。運命の悪戯か、そこで山形県庁から悄然として東村山郡役所へと帰る和田徹郡書記の一行と交錯します。和田は不首尾に終わった県庁出張の顛末を受けて鬱々としていましたが、両者ともにお互いの素性すら知らぬまま、それぞれの帰るべき場所に向かいつつ、次なる静かな戦いへと備えているのでした。
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