第40話 和田書記、孤軍奮闘ス!(改)

(これまでのあらすじ……)


 東村山郡役所では留守永秀筆頭郡書記が矢継ぎ早に住民対策を講じますが、それをあろうことか郡役所トップたる五條為栄郡長がひっくり返してしまいます。そんな中、役所の監視の目をくらます方便として、安達峰一郎が佐藤伊之吉の娘・梅との婚約をします。一方、留守の腹心の和田徹書記が、留守の命を受けて山形県庁を訪れ、高木秀明土木課長と鬼塚綱正一等警部に面会し、郡内の状況を報告し、留守の伝言を伝えました。いよいよ、県庁が動き出す事になるのでしょうか。


 **********


 明治13年9月26日、表面的には静かな状態を保っている東村山郡の村々ではありましたが、目に見えない水面下では、既に官民の攻防が繰り広げられています。


 それを敏感に察知した東村山郡役所筆頭書記・第一科主任の留守永秀(るす・ながひで)は、山形県庁に腹心の和田徹(わだ・とおる)郡書記を使いして、高木秀明(たかぎ・ひであき)土木課長と鬼塚綱正(おにづか・つなまさ)一等警部に面会させたのです。26日の夕刻のことでした。


「では、明日と言わず、すぐにでも郡長に使者を使わし、郡長独断の上納期限延長猶予をお取り消しいただき、併せて、巡査隊の派遣もお願いいたします! 」


 身を乗り出して迫る和田に対し、しかし、ふたりはなぜか沈黙を貫きます。和田の期待に反して、ふたりの反応はなぜか鈍いものでした。


「課長、いかがいたしました! ……警部、どうか警察署に御下知を! 」


 和田の必死な懇願でしたが、ふたりは無言です。


 高木課長はまるで静かに瞑想したままかのように沈思した状態で、一方の鬼塚警部は、眉間に皺を寄せた困ったような顔をしたまま、なかなか返答がありません。


 しばらくの沈黙の後、まず、高木課長が答えました。


「和田書記のおっしゃる趣はよく分かります。しかし、まずは五條郡長に対する行政指導を発動して、延長猶予を無効にするのが一番妥当であり、それがもっとも近道です」


 それは和田にとっても、至極もっともなことであり、まさしく留守が望んでいることもそれでした。


「しかしながら、郡長に対する指揮命令が可能なのは、唯一、三島県令のみであり、我々ではそれが出来ないのです」


「では、さっそくに県令閣下へのお取り成しを……」


 そう述べる和田に対して、ふたりの歯切れは良くありません。


「それが……、県令閣下は、現在、帝都東京に出張されております。現在、県庁に県令閣下は不在なのです」


「! 」


 和田はその言葉に驚きました。和田もまた県の役人でありますから、自分たちの最高位者である県令の動向は常に把握しています。もちろん、官報にも県令の東京出張などとは記載されていません。


 第一、つい昨日のこと、和田が両者に面会した時にはそのようなことは何ひとつ聞かされませんでした。


「おはんの驚きもごもっともにごわす。じゃっどん、今回の県令閣下の御出張は、やんごとなき処からの要請でありもんで、対外的には県令閣下の東京出張自体が内密でありもす」


 鬼塚警部の説明に続き、高木課長が事情を説明します。


「早ければ来月初めにも、栗子(くりこ)で山形側と福島側から掘り進めている掘削工事が開通する予定です」


 唐突に、東村山郡の関山(せきやま)新道ではなく、米沢福島間で工事遂行中の栗子の話しに飛んでしまい、和田もいぶかしげに話しを聞いています。


「……そのため、松方正義内務卿のお計らいで、畏れおおきことながら、栗子開通の暁には陛下の栗子行幸の運びとなります。そのための打合せです」


 実際には、この23日後の10月19日、両県側から掘り進めた栗子隧道は貫通を果たしました。


 その偉業を称えるため、伊藤博文の後を継いで内務卿に就任した松方が、同じ薩摩出身の三島を引き立てるため、東北行幸の日程に、急遽、栗子隧道の天覧を繰り込んだのでした。


 和田は驚きを隠せません。最大の頼みの綱としていた肝心の県令が、今のこの時期、山形を不在としているのです。


 しかし、和田にしても子供の使いではありません。だからと言って、ここで引き下がれる訳ではないのです。


「で、では、せめて、巡査隊の組織および郡への派遣はいかがでしょうか! 」


「うむ、おいもおはんの言う通り、すぐでん、行きたかど。じゃっどん、……できっこつなら手順をば踏まねば、……ほんなこつ、一年前、二年前とは状況がまるでん違っど」


 またも腕組みをする鬼塚警部の隣から、高木が動きにくい不確定要素となっている原因のひとつを口にします。


「……県会なのですよ」


 山形県会は明治12年3月より発足しました。国政選挙はまだ実施されてはおりませんが、この時期、地方においては、納税額・年齢・性別などの条件付きながら、選挙で県会議員を選出する制度がスタートしていたのです。


 第1回山形県会議員選出選挙は、明治11年7月の三島県令布達によって、明治11年7月から翌明治12年2月の間までに各郡長が実施するものとされ、その結果、議員の選出時期は郡によりまちまちとなっていました。そのため、山形県会議員の身分の効力の発生は、第1回山形県会の開催日である明治12年3月1日となります。。


 これにより各地で選出された議員を招集しての県会が開催されましたが、これが当初から対決ムード一色で開始されたのでした。県議会は『冗費節約』と『県民休養』を唱えて、県が提出した予算案を徹底的に削減していきます。一方の県は、県会の決議を完全に無視して予算案通りの施策を強行いたします。これでは議会が荒れないわけがありません。


 後に、地方議会たる府県会に遅れて、明治23年に発足した帝国議会においても、初期議会の主題は『経費節減』と『民力休養』でした。いずれにせよ、自由民権運動の目的がこれに集約していたものと考えられます。


「全国的にも、この春に愛国社などの政治団体が大同団結して国会期成同盟なるものを組織して大いに気勢を上げています」


 愛国社とは、板垣退助が明治8年に結成した政治団体で、一時的な消滅の後、明治11年に再興し、国会開設請願署名活動と全国遊説活動を積極的に展開していました。


 愛国社の一時的消滅は創設者である板垣退助自身が明治政府に取り込まれたために空中分解してしまったことによるものでしたが、運動理念そのものは残っていましたので、その後の運動はより一層、過激に広範囲になっていきます。


 明治13年3月に第4回愛国社大会が大阪で開かれ、2府22県から地方政治結社代表を含む114人が参加し、国会開設請願を求める約9万人の署名が集まりました。ここに国会期成同盟が発足したのでした。


「中央政府は集会条令を発布して民権運動を抑えようとしていますが、勢いに乗る民権派は今年中にも第二回大会を開こうと画策している現状です」


 集会条例とは、国会期成同盟に呼応するかのように4月5日に布告された政治活動規制のための法律で、その後の自由民権運動を弾圧するものとなります。


 しかしながら、そのような政府の弾圧にもかかわらず、結果的に、11月に国会期成同盟第2回大会が東京府下で実施されます。


 高木課長自身、栗子隧道建設を始める際も、米沢有志社という民権団体が民賦課費・人夫徴発に反対して建白書を提出し、鎮撫に苦心した経験があります。


 それは、まだ県会も始まっていない明治10年の頃の出来事でした。まして、その後の伸長著しい民権運動の現状を勘案すれば、高木としても一層の慎重さを求められざるを得ませんでした。


「このような状況下で、県庁舎造営や栗子隧道建設開始の時のような強硬手段で住民に臨むのは、県内の民権派に付け込む隙を与えることになりかねません」


「おいどんらも留守どんや貴殿の意見にはまったくの同意でありもんど、今ここで、県令閣下のおらん間に、高木どんとおいの独断でことを運ぶこつは、民権派に乗じられる恐れもありもんそ」


 しかし、和田はまだ府に落ちませんでした。


「わたしも民権派の動向には気をつけていましたが、まだ、その手は山形には及んではいない筈ではありませんか?」


 高木がそれに答えます。


「確かに、山形では小さな政治団体の動きはあるものの、大規模な弁論会開催はまだまだ押さえています。しかし、それに代わり新聞なるものが県政批判を住民に浸透させています」


「たかが、瓦版ではありませぬか」


 和田のその意見に苦笑して答えたのは鬼塚警部でした。


「おいどんも昨年まではそう思っちょりもしたが、こいが、なかなか油断できもはん。かなりの影響を及ぼしておりもんど」


 東京の民権派の活動手段は、もっぱら弁論会と新聞紙面での国民への浸透です。


 この時期、山形県に出回っている主な地元新聞は明治9年創刊『山形新聞』、明治12年創刊『米沢新聞』等ですが、民権運動情報の先端事情や論説の多い首都圏の新聞も少なからず山形県内に出回っていました。


 県としても、下手に手を出して、寝ている子を起こすような事態になることを警戒していたのです。


「では、せめて巡査隊を……万が一住民蜂起となれば、鎮圧しても禍根が残り、工事にも影響が及びます」


 そのように語る和田に対し、鬼塚警部が答えます。


「昨日の約定通り、分署増員と役所警備は継続し、分署庁舎も突貫工事で急がせもす。加えて、山形署での巡査隊組織も約束しもす。一旦、ことあらば、早急なる現場到着と警察治安活動は確約しもんそ」


 そこで一旦言葉を区切った鬼塚警部は、腕組みし瞑目します。


「じゃっどん、現時点での性急なる東村山郡への派遣はできんとじゃ。県令閣下の帰県を待ってたもんせ」


 高木が続けます。


「わたしも、県庁経理課を通じて、東村山郡長に対して、可及的速やかなる上納金納付の催告を実施させましょう。あまり期待は出来ませんが」


 ……和田は暗澹たる思いで県庁を辞し、帰途に着きました。


 今のところ、住民側の布石が、すべてにおいて郡役所の対応の先を行っていることを認めざるを得ませんでした。


 **********


 和田が悄然と郡役所への帰途に就いた頃、安達峰一郎と梅の二人も、天童(てんどう)村から西へ、芳賀(はが)村・高擶(たかだま)村と、東から西に向かって歩いていました。


 郡役所の留守や和田にとっても、そして、峰一郎や梅にとっても、とても長く感じられた明治13年9月26日が、まもなく終わろうとしていました。


 **********


(おわりに)


 山形県庁を訪問した和田徹郡書記は、高木秀明土木課長と鬼塚綱正一等警部に面会し、現在直面している東村山郡の現状を報告しました。そして、三島通庸県令による五條為栄郡長への指導と警察巡査隊の出動を要請します。しかし、頼みの綱としていた三島県令は極秘に帝都出張をしていました。それでも必死に県庁を動かそうとする和田でしたが、県会や新聞など民権派の伸長著しい状況の中で、トップ不在の組織を勝手に動かすのは、いかな高木や鬼塚でも困難でした。

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