第37話 非常事態宣言(改)

(これまでのあらすじ)


 安達峰一郎は天童村で佐藤伊之吉や梅に会い、その後も高楯村総代安達久右衛門の使いで度々天童村に足を運びます。一方、東村山郡役所では実質的トップたる留守永秀筆頭郡書記が冷静に情勢の分析をし、住民たちの反逆を推断します。留守は、住民の動きに対抗し、郡役所上層部の書記たちに向けて、巡邏と監視の強化徹底、県庁への報告と山形警察本署への協力要請、郡内への督促通達文書の作成、そして、郡役所24時間体制の準備など、矢継ぎ早に次々と命じるのでした。


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 東村山郡住民の意思が事態として表に現れたのは、その2日後、明治13年9月25日でした。この日は負担金上納の最終期限です。


 この日、陽が暮れて夜になっても、ギリギリで上納金を持ち込む戸長もいました。住民からの徴収に手間取ったというよりは、地主の金策の都合でしょう。


 現実問題として、大部分の小作農に上納金を納める余裕はありません。実際は小作農の分を地主が肩代わりをして支払わねばなりません。しかし、内福な地主とはいえ、小作農の分までまとめてというのは大変だった様子が窺えます。


 そのような事情も勘案して、郡役所はまるで合戦に臨む陣屋のように、玄関に夜通し赤々とかがり火を焚いて、上納金の搬入を待ったのでした。


 遠くから見ると、暗闇の中に漆喰の白壁がかがり火に照らされ、浮かび上がった擬洋風建築が幻想的な美しさとなって眺められたことでしょう。


 村々の様々な事情を抱えつつ、この日までに、深夜に納入した者も含めて、上納金を納めたのは十ヶ村にも足りませんでした。しかし、それは東村山郡全域1町97ヶ村の僅か1割にも及びませんでした。


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 明治13年9月26日の朝、郡書記筆頭の第1科主任・留守永秀(るす・ながひで)は会議室で、和田徹(わだ・とおる)たち上級書記と話し合っていました。


「皆、明け方までご苦労だった。疲れているところを悪いが、これからがいよいよ正念場だ。皆には金貸しの取り立てのような嫌な思いもさせるだろうが、これも山形の発展のためだ」


 まず、和田が山形からの復命を、6名の上級書記全員の前で披瀝します。すべての情報は個別に留守のもとへ届けられてはいますが、改めて全員が情報の共有をして、首脳部として意思の統一を図らねばなりません。


 しかし、この場に五條為栄(ごじょう・ためしげ)郡長の姿はありません。


 留守としては、事態の真相を見抜けない郡長が急激な状況の展開に対応できぬまま、穏便な弥縫策に走って適宜の効果的な対処が取れない状況となり、掻き回された挙げ句に対策が後手後手に回ることを恐れたのでした。


「鬼塚警部は全面的な協力を約束してくれました。更に、来年、雪解け後に開庁を予定していた天童(てんどう)分署も、工期を前倒しして、年内竣工・即日開庁を目指して調整し、巡査も大幅増員するとのことです」


 和田の報告は留守を安堵させるに足るものでした。鬼塚警部とは、山形警察署のトップ、一等警部の鬼塚綱正(おにづか・つなまさ)です。


「なお、本日26日より、天童分署に巡査20名を臨時増員し、郡役所警備のために巡査も派遣常駐させるとのことです」


 治安面での警察署の対応は、留守を満足させるに足るものであったようです。


「そうか、それは良かった。治安面での受皿が担保されているのが大前提だからな」


 そこまでは留守も余裕を持って受け止めていました。しかし、次の報告は留守にやや自戒の思いを誘います。


「南郡の村上郡長のお話しでは、南郡において不払い運動の出そうな芽はまったくないそうです。一部の東郡に呼応しそうな懸念のある戸長や委員には、既にかなりの圧力を加えているようです」


(頭にいただく神輿の差が出てしまったな……。その分、わが郡が対応で出遅れた面は否めん。仕方ない、わたしの責任だ……それにしても、郡長には困ったものだ……)


 この場では、和田は詳しくは言いませんでしたが、南郡の村上楯朝(むらかみ・たてとも)郡長からは散々に発破をかけられて来たのも事実です。もちろん、その裏面情報は留守に逐一報告済みではありました。


 しかも、東郡の複数の戸長が南郡の戸長になんらかの運動をしているらしき節を南郡役所でも感じたため、その旨、既に1ヶ月以上前に、情報として村上郡長から五條郡長に警戒通知を伝えてあると言うのです。


 村上郡長も留守の手腕に不満を感じているわけではありませんでした。しかし、自分の警告がまったく周知されていなかったことに呆れると共に、五條郡長の状況認識の甘さについてはかなり不安を感じているようです。


 東郡役所の対応のまずさで、せっかくの事業が元も子もなくなるのでは……それを懸念しているのです。


 この事業は宮城県の野蒜(のびる)築港事業と連動して内務省を巻き込み、今や一地方の問題ではなく国家事業の一部になっています。


 既に、関山(せきやま)関連事業は、総工費の面でも栗子(くりこ)隧道関連事業を超えて、三島県政の今までのすべての土木事業の中でも最大の規模に膨らんでいます。今更、住民の抵抗で御破算にできるものではありません。


 更に村上郡長は、既に工事の先を見据えて、三島県令の意を汲んで次の行動に移っていたのです。それは天皇の山形行幸の嘆願運動であり、村上は既に上京して関係各省への嘆願行動も終えて帰県したばかりのところでした。


 村上郡長とすれば、東村山郡からの状況報告は、今更この段に及んで何を言っているのか!というところでもあったでしょう。


 確かに、せっかくの情報を無為にした責任は五條郡長にあります。しかし、すべてを五條郡長の責に帰すのは少々酷と言う面もあります。


 県都山形に近くて自由民権運動関連の最新情報に接する機会も多く、温暖肥沃な土地で農村部でも比較的余裕のある東村山郡の住民には、人材を輩出する環境が整っていました。


 実際に、東村山郡の農村の中でも、地主層の中からは、佐藤伊之吉(さとう・いのきち)や安達久右衛門(あだち・きゅうえもん)のような先進的知識人が少なからず育っているのです。


 一方で、県都山形を含む南郡では、県庁の威圧や警察署の強制力により、住民の言論活動は常に圧伏せしめられています。しかし、隣接する東郡住民は、南郡より比較的、緩やかで、住民運動の素地が醸成されていた側面もあります。


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 和田の報告に続き、小松英休(こまつ・ひでやす)書記が山野辺地区の情勢報告を行います。


「山野辺(やまのべ)地区の戸長も喰えない狸揃いでした。山野辺村戸長の渡辺庄右衛門(わたなべ・しょうえもん)や高楯(たかだて)村総代の安達久右衛門は表向き恭順的ですが、もう少しお待ちくださいの一点張りです。恐らく、準備出来次第に一斉蜂起に及ぶやもしれませぬ」


「では、やはり」


 和田の声に小松が頷いて返します。また、それを裏付けるように、天童地区に行った津田端(つだ・はじめ)書記が天童の状況を報告します。


「天童村の佐藤直正(さとう・なおまさ)戸長も近隣村の戸長もまったく同じです。畏れ多く恐縮狼狽の体というよりは、どこか余裕を感じられるくらいで、明らかに何か企んでいるようにも感じます」


 更に津田は思いだしつつ憤懣混じりに続けます。


「それとなく、今年の豊凶の具合や秋祭の準備などを尋ねると、息子の伊之吉が、いけしゃあしゃあと、お上への上納金を用意せねばならぬから、それどころではないと抜かしおった」


 それらの様子を聞きながら、留守が推測します。


「うむ、早ければ今日、明日、……遅くとも、今日の督促状を受けた数日後には何らかの反応が現れるだろう。拜郷くん、督促状の用意は? 」


 留守の問いかけに、拜郷直(はいごう・なおし)書記が大声で答えます。


「はい! 万事抜かりなく! これより直ちに全町村に向けて通達を発出いたします! 」


「うむ、よろしい。従僕たち全員を使って構わん。すぐに発出したまえ。……なお、各村で不穏な動きを目にしたら任務中途でも構わぬから、すぐに郡役所に戻り復命するように伝えておけ」


「は! 」


「その後も、特に別命ない限り、郡役所周辺三里四方を常時巡回するように。諸君たちも別命ない限りこの郡役所に待機せよ」


 事実上の非常事態宣言です。この留守の決定により、郡書記以下、職員は全員が泊まり込みで即応態勢に入ります。常駐巡査数名も間もなく到着する手筈になっています。


 万が一にも暴徒が郡役所に近づいた際には、敷地内にある半鐘を鳴らして天童分署に急を知らせると共に、近隣に住む職員の家族も郡役所に非難する手筈はついていました。


 東村山郡役所において、考えうるだけの処置は留守の采配にて実施されつつあったのでした。


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 高楯村の天満神社……いつものように峰一郎が神社の高台から遠くの空を見つめています。


 本家の久右衛門の使いや手伝いをしている峰一郎にとって、この日が一体どういう日か、よく理解をしています。だからこそ、峰一郎は家にじっとしておられず、この日も天満神社に来てしまったのでした。


 しかし、この日の峰一郎は、いつもとちょっとだけ違いました。北西方向に見える大杉ではなく、神社の社を挟んで大杉の見える反対側の高台の立って、北東の空を眺めていたのでした。高楯村の北東方向には天童村があります。


(おうめちゃん……、……)


 峰一郎が眺める先の空は、天童村の空に続いています。峰一郎は、今日もこれから天童まで使いに行かねばなりません。


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(おわりに)


 運命の上納期限締切の翌朝、郡書記筆頭の留守永秀は次なる行動に移ります。郡役所の上級書記たちは留守に郡内の状況を報告し、それを受けた留守は次々と部下たちに今後の指示をくだします。警察署の治安警備体制を確認し、各村への督促状発出を命じるとともに、郡役所三里四方の巡回警備と上級書記の役所待機を命じ、上級書記の面々に実質的な非常事態への備えをするように伝えたのでした。一方、高楯村では、安達峰一郎が天満神社の高台から天童村の方角を眺めているのでした。

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