第38話 郡役所の蹉跌(改)
(これまでのあらすじ……)
安達峰一郎は高楯村総代の安達久右衛門の使いとして、度々、天童村の佐藤伊之吉のもとへと足を運びます。一方、東村山郡役所では実質的なトップである筆頭書記の留守永秀が郡内の状況分析をして住民たちの反逆を推断し、部下の郡書記たちに次々と指令を発します。そして、上納期限締切の翌朝、留守は警察署の治安警備体制を確認し、各村への督促状発出を命じるとともに、郡役所三里四方巡回警備を命じて実質的非常事態の準備に取り掛かることを命じました。
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郡書記筆頭・第一科主任の留守永秀(るす・ながひで)は、自分のデスクでの事務的な所用を終えて郡長執務室に向かいました。重厚な扉を開けると、予想外に冷静な五條為栄(ごじょう・ためしげ)東村山郡長が、椅子に腰を掛けて留守を笑顔で迎えます。
既に期限を過ぎても上納が滞っていることは、いかなお飾りの郡長とはいえ、知らぬ筈はありません。先日同様に見苦しい周章狼狽の体を予想していただけに留守は虚を衝かれた思いでした。
「郡長閣下、現在までの負担金収公状況のご報告をいたします。非常に残念なことながら、本朝までに……」
話をすべて聞くまでもないかのように、にこやかに笑みを浮かべた五條郡長が言葉を挟みます。
「あぁ、大変でしたね、留守くん。いつも、君には苦労ばかりをお掛けします」
想定外の郡長からの労いの言葉に留守は驚きましたが、そんな驚きをおくびにも出さず、留守は答えました。
「いえ、職務ですので、お気遣いなく。閣下からのご配慮、痛み入ります……」
その留守の返答を待たず、郡長はいつになく、いや、いつも以上に饒舌に話しをはじめます。
「今回はね、わたしも、留守くんの苦労をおもんばかって、戸長さんたちへの対応をさせていただきました。……なに、戸長さんたちも住民からの徴収に苦心されてるようですから、わたしが5日ほど猶予を与えたんですよ」
「! 」
それこそ寝耳に水の留守は、もはや驚きを隠しようもありませんでした。留守は目を大きく見開き、握りしめた両手の拳をわなわなと震わせています。
「……そうそう、拜郷くんが督促状を出そうとしていましたから、止めておきました。さすが、留守くんは手回しが宜しいですね。もう、督促状が出来ているとはわたしもビックリしましたよ」
留守が直々に督促状発出を命じた拝郷直(はいごう・なおし)書記に対して、郡長がわざわざその督促状発出の停止を命じていたというのです。郡長からの命令では拝郷もそれを拒否することはできなかったでしょう。留守は目の前が真っ暗になったような衝撃を受けました。そこにやっとの思いで立ちつくし、辛うじて崩れ落ちて膝をつくことを防いだのです。
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(バシ~ン! )
「なんたることだ! 」
郡長執務室から戻るなり、留守は自分の机に大きな音を立てて両手をつきました。
そこへ、悄然とした体の拜郷がやってきます。留守はジロリと拜郷を睨みつけます。拜郷は、留守に目を向けられないまま、俯いて報告をしました。
「わたしも……驚いて抵抗したのでしたが……」
拜郷は唇を噛みしめて無念の表情を表します。拜郷が郡長から聞き出したことは、あらまし以下のような事情だったそうです。
**********
上納期限の昨晩、郡長官舎を訪れる者たちがありました。晩酌をしてくつろいでいた五條郡長でしたが、まれに天童地区の戸長が願い事をしに来ますので、五條も気安く引見したのでした。
訪問してきたのは、落合(おちあい)村戸長の佐藤兵左衛門(さとう・へいざえもん)、高擶(たかだま)村用掛の荻生田林助(はぎゅうだ・りんすけ)、山寺(やまでら)村用掛の宮城静(みやぎ・しずか)、天童村(てんどう)戸長代理として来た佐藤伊之吉(さとう・いのきち)、、以上の4名でした。
東村山郡全住民の代表であると申し出た4人は、畳に額をこすり付けんばかりに平伏叩頭し、涙を流し、上納金を納めるための上納期限の延長を必死に願い出たのでした。
郡長の自尊心をくすぐるような言葉の数々に加え、皇国の未来に役立てる喜び、郡長の期待に添えない悔しさ……等々、郡長が喜びそうな言葉を並べている情景が留守の目にも浮かびます。
そのような子供にでも分かるあからさまな言を弄しながらも、平身低頭する哀れな弱者を演じる住民を前にすれば、郡長としては、皇恩を慕う民草への憐愍の情も止みがたく、容易に為政者の徳を施す気持ちが芽生えたようです。
どうやら、郡長は心底、住民の陳情に感動し、素直にその言を信じてしまったようでした。
まさか、目の前にいる4人の内のひとり、佐藤伊之吉が、1年前に山形県を裁判所に訴えた前歴のある郡の要注意人物であることすら、理解していなかったのでしょう。
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(ドンッ! )
留守は今度は右手の拳を机に叩きつけました。
(なんたることか! 住民共に良いように手玉に取られてしまっているではないか! まさかに身内の、しかも、郡庁の最上級者から足をすくわれようとは! )
留守には住民がほくそえんでいる様子がありありと目に浮かびました。なんと、最大の障碍は味方の中にいたのです。それも郡トップが。
郡長には逐一状況報告を行っていましたし、上級書記の間での話し合いに郡長を加えなかったことが間違っていたとは、留守も思ってはおりません。
しかし、だからこそ、このやり場のない憤りを留守はもてあましていました。留守は目を血走らせ、ワナワナと震えざるを得ません。
(バシ~ン! )
留守は再び、両の手のひらを机に叩きつけ、目の前の郡書記幹部をひとわたり睨みつけます。そして、しばらくすると、留守はどっかと椅子に腰をおろしました。
留守はひと息、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせます。
「今更愚痴っても始まらんな。たとえ状況がどう変わろうと我々がすべきことは、朝、話し合った通り、何ら変わるものではない」
そう、ひとりごちると、留守は和田に視線を向けました。
「和田くん、君にはとんぼ返りですまないが、もう一度、県庁に行って、高木課長と鬼塚警部にことの次第を報告してくれたまえ」
「はっ! 」
和田は椅子から立ちあがり、すぐに答えました。
「それと、飽くまでわたしの……留守永秀の私見として補足していただきたいのだが……」
留守はその場でサラサラと筆を走らせます。
「これを、留守永秀個人の私見として、渡してくれたまえ」
書面を和田に渡しました。宛名は高木課長と鬼塚警部のようです。和田は中身を読んで息を飲みました。
『……現下の勢を慮るに、住民の挙動、極めて不審の廉これあり、畏れ乍ら、郡長閣下の措置と真反対なるを陳ぶるに、定めし御不審に思わるると思惟す可くと雖も、……旬日之間、屹度、鎮定の要これある可く推断せざる可からず、願わくば巡査隊を断然組織し……』
私見とは言いながら、郡長の措置を公然と批判し、あまつさえ、まだ、何らの具体的事件もない内から、郡内住民の暴発は必至と決定付け、鎮圧のための警察力の出動準備を要請したのです。
「留守書記……こ、これは、いくらなんでも……状況報告のみで宜しいのでは?」
「無論、何事もなく、住民が上納してくれればそれに越したことはない。その時は、郡長批判・不服従、および、無用の混乱を招いた責任はすべてこのわたしにある」
留守は静かに語りましたが、次の言葉には非常な力がこもっていました。
「……しかし、だからと言って、この状況で手をこまねいてはおられん。既に事態は看過できないところまで逼迫しておる!」
留守は自らの立場で郡長の決定を掣肘することはできません。それができるのは県下でただ1人です。留守はそれを高木・鬼塚両氏に託したのでした。
留守は次いで津田に顔を向けます。
「津田くんは天童分署に出張してくれ、分署に詰めて、署長の協力を仰いで巡査隊を組織していつでも出動できるように準備してくれ。山形の本署が動いたらすぐに出られるように、めぼしい目標まで打ち合わせをしてくれ」
「はい! 」
この場合、警察が動く大義名分は表向きは治安維持ですが、実際は、戸長や地主たちへの圧力行為です。具体的には、警察による強制執行であり、ヤクザ顔負けの取り立てです。これは既に県庁造営での前歴があります。
ついで、留守は更に視線を転じます。
「小松くん、拜郷くん、柴くんは、全職員を動員、組分けをして、可及的速やかに役所三里四方の巡回を開始するのだ。不穏な動きを確認したら、天童分署と連携して、直ちに実力行使を行い鎮圧せよ」
もちろん、武装組織でもない郡役所に住民運動鎮圧の手段は持っていません。あくまでも鎮撫の延長線上であり、実力行使が必要な場面では警察組織の協力を仰ぐという建前でした。しかし、士族階級出身が多い官庁においては、住民の撫育鎮定という意識はまだまだ当たり前にしみついていました。
しかしながら、郡役所の職員を総動員して動くとなると、否応なしに郡長の知るところとなります。まして、警察も絡むとなれば一大事です。
それを心配した和田が重ねて留守に尋ねます。
「全職員、更に警察までをも動かすとなれば郡長の知るところとなります。仮にも郡長が指示し約束した件はいかがいたしますか?」
そこが留守にとっても最大のネックでした。
「まずは保安のための予防的措置であるとわたしから伝えておく。しかし、ゆえにこそ、君から高木課長、鬼塚警部を通じて三島県令閣下を動かしていただくしかない」
留守は一旦、言葉を区切り、和田をひたと見つめて続けて言いました。
「よろしく頼む。わたしの進退を賭けて、その書面の意図するところを、高木・鬼塚両氏に汲んでいただくのだ」
和田は、自身の任務の重大さをよくよく思い知ることとなりました。三島県令を動かせない限り、郡役所は表立って動くことは出来ないのです。すべての成否は和田の働き如何にかかっているのでした。
「はっ! 承知いたしました」
和田は今までにない高揚感と緊張感に包まれて、任務を引き受けたのでした。
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その日の昼下がり、郡役所がそんなことでひっくり返っていることとはまったく関係なく、天童村の佐藤家では、伊之吉の前に峰一郎と梅が正座をして並んでいました。
伊之吉は、二人を前にして言いました。
「峰一郎、梅、今日からお前だは許嫁だ。峰一郎、ふつつかな娘だども、梅をよろすぐ頼む!」
そう言って、伊之吉は峰一郎に頭を下げました。
「はい!」
峰一郎は、目を大きく見開き、頬を真っ赤にして、大声で答えました。
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(おわりに)
東村山郡書記筆頭たる留守永秀の懸命なる対策を根底から崩したのは、あろうことか、郡役所トップである五條為栄郡長でした。留守は最後の手段として、郡長の上級任命権者である三島通庸県令を動かすため、県庁に腹心の和田徹書記を派遣する手立てを講じます。そして、その成否を待って、警察と連携しての郡内鎮撫のための非常事態準備を続けてるよう部下たちに命じるのでした。そんな中、天童の佐藤伊之吉のもとを訪れた安達峰一郎と伊之吉の娘の梅が、なんと婚約?
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