第35話 蠢動(改)

(これまでのあらすじ……)


 安達峰一郎は高楯村総代の安達久右衛門が東村山郡役所へ行くお供をさせていただき、そこで天童村の佐藤伊之吉や、村形宇左衛門を始めとする天童地区の人々、そして伊之吉の娘・梅にも出会い、強い印象を受けてきました。9月となり、東村山郡の様子は表向き平穏でしたが、久右衛門もいよいよ水面下での運動を開始して、高楯村の少年たちもそれに加わります。天童村の伊之吉に使いに行った峰一郎は、無事に役目を果たしますが、一方で不気味な影が郡内にも見え始めてくるのでした。


 **********


 明治13年9月23日、東村山郡役所は朝から騒然としていました。それは、慌てたように郡長の五條為栄(ごじょう・ためしげ)が留守永秀(るす・ながひで)の机にやって来たところから始まりました。


 執務室に留守を呼びつけるでもなく、席も温まらぬかのように五條郡長が執務室を飛び出してきたのは、朝の定例報告に上がった書記の誰かからでも吹き込まれたのでしょう。


「留守くん! まだ、どの村からも上納がないというのは本当ですか! 」


 血相を変えて興奮している五條郡長に対し、留守は無表情のまま、簡潔に答えます。


「さようです、閣下」


 留守の返答に、五條郡長は顔を真っ赤にして、頭に刺さるような甲高い声を上げます。


「さ、さようですって、あ、あなた……い、いったい、どうします! 期限までは、もう、明日と明後日しかないのですよ! 」


 留守の落ち着いた態度と言葉に、一瞬、意味が分からずに唖然となったかと思いきや、再びヒステリックな金切声を張り上げます。


 執務部屋の中、次席の和田徹(わだ・とおる)書記以下の面々は、固唾を飲んで二人の様子を見守っています。


(今頃、気づいたのか……お気楽なものだ。命令を出しさえすれば、下々の者はなんでも素直に出すものだというお公家さんの習性は、なかなか抜けないものと見える)


 留守が黙って思索にふける間も、五條郡長は留守の机の周りをウロウロとさまよいつつ、両腕を振り上げて嘆きながら、わめき散らします。


「戸長会議では皆さん賛成してくれていましたよね! 誰も反対なぞ、していませんでしたよね! 皆さんも見ていましたよね! 」


「会議で決まったことは、全員が実行しなければなりません! それが当たり前です、それが常識なんです! 」


「もし、負担金が集まらなかったら、どうします! わたしは……わたしは悪くないですよね! わたしの責任ではありませんよね! 」


「あ~、わたしは県令閣下に、どう申し上げたらよろしいのでしょう! 一体、どうしてこんなことに! 」


 まるで、この世の終わりででもあるかのように、滑稽なほどに郡長がうろたえています。討幕派公卿として戊辰の戦役に出征したとはいえ、銃声も砲声も聞こえぬ後方での物見遊山でしたから、無理もありません。


 ちなみに五條郡長の戊辰戦役での五條為栄の戦歴は、中国四国追討使副総督としてのものです。ありていに申さば、戦場からもっとも遠い地域を旅行して歩いただけです。実際に戦火を交えた越後や関東・東北の地には一歩も足を踏みしめたことはありません。


「住民は喜んで自分から寄付を申し出たんですよね! なんで、それが今になって! あ~! 意味が分かりません! 」


 最後のその言葉には、郡長のわめきをひとしきり聞いていた留守も、回りにいた書記たちでさえも、今更ながらにその能天気な認識に呆れてしまいました。


(住民が喜んで寄付すると? ……そんなことを本気で信じていたのか! ……意味が分からんのはこっちだ! )


 五條郡長は飽きることなく騒ぎ続けていましたが、そんな時、月例の戸長会議議場に使う講堂の方から、ひとりの下級書記が郡書記の執務部屋に飛び込んできました。


 講堂には、戸長たちが持ち込んできた上納金を嘉納するために、臨時の受付所が用意してあります。その受付を担当している下級書記の1人でした。


 当時においても江戸時代からの為替制度は既にありますが、為替が通用したのは主に大都市間の流通や地方の大商人においてでありました。いかな地主とはいえ、地方の百姓にとって信用貸しとなる為替制度は、まだ十分に浸透してはいませんでした。


 郡役所では、実際に戸長たちが住民からかき集めた貨幣や紙幣を大八車にでも積んで、護衛役の村人も引き連れての大掛かりな搬入を想定し、受付もそれなりに大掛かりに講堂に設置したものでした。


 しかし、今はまだ誰も納付に訪れる戸長もおらず、広い講堂は閑散とした有様でした。そんな時でした……。


「郡長閣下! 上納金を持ってきた戸長殿が来られました! 」


「えぇ! 」


 続けてもう1人の書記が、まるで押し蓋を掛けるかのように駆け込んできました。


「閣下、他にも、何人も戸長殿が来ております! 」


 すると、たちまち驚きと喜びがないまぜになった顔で、目を大きく輝かせて、吉報を入れてくれた書記の方に振り向きます。


「おお~! 皆様、よくぞ来てくださいました! ようこそ、ようこそ! 皆様こそは皇国の民の鏡です! 」


 郡長は地獄で仏にでも会ったかのような喜びで、見苦しいほどにへつらいの言葉を並べて、受付所のある講堂へと向かいました。


「そうでしょうとも、そうでしょうとも、自ら願い出た寄付金ですもの、間違いのあろう筈もありません! 」


 先ほどまでの狼狽ぶりもどこへやら、喜び勇んで郡長が書記の執務部屋を出ていきます。来た時もひとしきり賑やかでしたが、帰りもなかなかに賑やかな郡長でした。


(バカめが、……恐らくは、長崎(ながさき)地区の新道計画路線沿いの村の戸長だろう。天童(てんどう)地区や山野辺(やまのべ)地区の村ではあるまい)


 果たせるかな、留守の予想は見事に当たっていました。上納金を持参してきた戸長は、いずれも長崎村とその近隣の村の者たちでした。


 結局、その日、数件の上納があったものの、後はそれきりでした。もちろん、天童地区・山野辺地区からの上納は、まったくありませんでした。


 **********


 夕刻、郡役所の会議室には、留守と和田、そして、租税地理担当筆頭の津田端(つだ・はじめ)、出納担当筆頭の小松英休(こまつ・ひでやす)、庶務担当の拜郷直(はいごう・なおし)、土木担当の柴恒玄(しば・こうげん)、といった顔触れが揃いました。なお、庶務筆頭は留守自身ですので拜郷は筆頭担当官ではありません。また柴は唯一の土木担当官となります。


 この6名はすべて官位十五等以上、東村山郡役所の事実上の実務方首脳部です。他にも7名の書記がいますが、一人が官位十六等の他はすべて十七等、租税・庶務・出納の補佐役で、その多くが地元下級士族からの採用の下級職員です。


 ちなみに、当時の郡書記の職制は、第一科が庶務・衛生、第二科が勧業・学務、第三科が地理・土木・租税・出納と分科していました。ですので、正式には第一科主任・留守永秀、第二科主任・和田徹、第三科主任・津田端となります。


 まず、その中から第二科主任の和田が立ちあがります。


「最初にわたくしから報告いたします。……天童地区・山野辺地区の戸長、連合会委員らに目立った動きはありませんでした。集会のようなものもまったく確認されておりません」


 和田の報告を留守は腕を組んで瞑目していました。頭の中で上がってきている情報を整理しながら考え込んでいるようです。


「戸長宅、委員宅に訪れている者の身元は、ほとんどが自分の土地の小作農ばかりでした。また、村内に触れ書きや回覧板のような類いも確認出来ていません」


 留守は目をつむり、和田の報告をじっと聞いています。その留守の様子を一瞥して和田は締めくくります。


「それどころか、なぜか村全体に負担金を集めている様子もありません。金貸し、質屋の類いが飛び回っている様子も確認されませんでした」


 留守が一瞬だけ眉をピクリと動かしましたが、誰もその些細な変化に気づかぬまま、和田に続いて第三科主任の津田が立ちあがりました。


「小松くん、拜郷くんと協力し、地元採用の書記・従僕たちに聞き取りを行いましたが、彼らから特に有益な情報は得られませんでした……」


 津田は、チラリと和田を一瞥して、更に話を続けます。


「和田主任からも言われたように、負担金徴収の様子もなく、職員たちから自分の村の戸長に尋ねてみても『小作たちが苦労してる』とか『もう少し時間がかかりそうだ』とか、のらりくらりで要領が得られないそうです」


 和田も聞きながらため息が出てしまいます。


「職員自身も本当に何も知らないようで、各書記には地元の不審な情報があれば、些細なことでも報告するように言い含めて……」


「……るい」


 留守がぼそりとつぶやきます。


「は?」


 報告の途中で、聞き取りにくかった津田が聞き返します。


 腕組みで思案していた留守が、カッと目を見開き、力強く語り始めます。


「手ぬるい。……負担金を集めている様子も見えない時点で、住民どもの郡庁への反逆は明らかだろう!」


 留守は、和田と津田を順に見渡して、そのように断言したのでした。


 **********


(おわりに)


 なかなか関山新道開削のための負担金が集まらない状況に、東村山郡役所では次第に苛立ちがつのってきます。郡役所講堂に誂えた住民負担金の受付所は誰も訪れる戸長の一人もなく閑散としたまま、東村山郡長の五條為栄もまたその状況に一喜一憂して役所の中でヒステリックに騒ぎまくっています。一方、実質的な郡トップたる留守永秀郡書記は、村人の様子についての部下からの報告を聞きながら、冷静に情勢の分析を重ね、いよいよ住民たちの反逆は明らかであると判断したのでした。

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