第32話 おうめ(改)

(これまでのあらすじ……)


 安達峰一郎ら高楯村の少年達は、関山新道開削は始めからすべて決まっていて、住民賛成協力の建前のためだけに村山四郡連合会が開催された事実を教えられ驚愕します。その後、峰一郎は村総代の安達久右衛門に連れられて東村山郡役所を訪れます。そこで二人は天童村の佐藤伊之吉と出会い、伊之吉の家に行きます。伊之吉の家で久右衛門は天童地区の村の人たちと今後の対策を相談し、東村山郡の住民全員が大原告団を組織して郡役所や県を相手取った法廷闘争を始めることを話し合います。


 **********


 峰一郎は、安達久右衛門(あだち・きゅうえもん)や佐藤伊之吉(さとう・いのきち)たちの話を必死になって聞いていました。その会話の中で出てくる言葉は、理解できない用語も少なくありませんでした。むしろ分からない言葉ばかりです。それでも、そこに多くの新しい世界の存在を確かに感じさせるものがありました。


 久右衛門も、伊之吉も、大人たちはみな、必死に知恵を絞り尽くしているのが、峰一郎にもよく理解できました。


 峰一郎は、自分がただ感情に任せて、短絡的な行動に出たことが、とても矮小であったと感じ、久右衛門に対して、とても恥ずかしく感じました。


 同時に、そんな自分に、大人たちが頭を悩ましている問題を丁寧に教えてくれただけでなく、郡役所まで連れてきてくれて、天童(てんどう)地区の人たちの話し合いをも聞かせてくれた久右衛門に、言い尽くせない程の感謝を感じるのでした。


 **********


 夜中にふと目がさめた峰一郎は、酔いつぶれて眠っている大人たちを起こさないように、そうっと土間に降りて、厠に行きました。


 月明かりがこうこうと厠を照らし、つい夕べまでの曇りがちだった梅雨時の真っ暗な夜とは、まるで別世界のような明るさでした。


 厠で用をたした峰一郎が、月明かりに誘われて、ふと夜空を見上げると、もう夏の夜空になっっていたそこには、またたく星々が輝きを競うようにして空全体一面に散りばめられています。


(わぁ!すげぇなぁ!)


 峰一郎はその場の草むらに腰をかけ、膝小僧を抱いて、しばし、夜空の美しさに見とれていました。北国である奥羽の地ではありましたが、もう七月も半ばにさしかかり、梅雨も明けた空気は、程よいあたたかさを感じさせます。


 ふと、峰一郎は笛を取り出しました。それは、高楯(たかだて)学校に通っていた頃、利かん気の強い峰一郎が少しはおとなしくなるかと、母のしうが峰一郎に教えてくれたものです。


 毎日、畑仕事や家事で忙しい母でしたが、夕げの後片付けが終わると、美しい夜空の下で峰一郎に笛を教えてくれました。峰一郎にとって、毎日が忙しい母との数少ない思い出は、美しい夜空と笛にリンクしているのです。


 凝り性の峰一郎はすぐに上達しました。しかし、それ以来、綺麗な星空を眺めると、つい笛を吹いてしまいたくなります。


(~♪)


 峰一郎は、満月の美しい夜に、その月明かりに誘われて気の向くままに笛を吹きながら、夜遅くまで村を徘徊したものでした。帰宅して父親にひどく叱られて家から閉め出されたこともよくあって、途方にくれて外で泣いていると、母親が父に内緒で助けてくれたこともありました。後に、外交官として海外に赴任した時も、満月の夜は、この話しを家族に話して聞かせていたと伝わります。


 この夜もそうでした。美しい夜空に、透き通るような笛の音が、涼やかに響き渡ります。初秋の鳴き始めた虫の声が、閑かに峰一郎の笛の音に唱和していきます。峰一郎自身も心地よい余韻に浸っていました。


(~♪)


 どれほどの時間、峰一郎はそこで夜空の景色に見とれつつ、笛を楽しんでいたでしょう……。


(さわっ……)


 ふと、雑草を踏み分けるような誰かの足音が聞こえたように思い、峰一郎が笛の音を止めて振り返りました。すると、その峰一郎の視線の先には、伊之吉の娘、お梅がいました。


 梅は白地に絣柄がところどころにある浴衣を着ていました。月明かりを浴びた梅の浴衣姿は、峰一郎がつい見とれてしまうほどに、幽玄で美しいものでした。


「ごめんなさい、驚がしだ?」


 梅は頬笑むと、峰一郎の左隣に腰をかけました。


「綺麗な笛の音したがら、笛さ誘わっで来たっきゃ……」


そう言うと、峰一郎と同じように膝小僧を両腕で抱くようにして、夜空を見上げました。梅に見とれていた峰一郎も、慌てたように、再び空を見上げます。


「きれいだね」


「うん」


 それだけの言葉を交わしただけで、峰一郎と梅は、しばらくの間、ずっと夜空の星を無言のまま眺めていました。


 どれほど、二人はそうしていたでしょう。峰一郎にはとても長く感じたような、でも、あっという間だったような不思議な時間、でも、なぜか心地よい時間に思えました。


 ただ、今の峰一郎にとって、最初に感じたような夜空の星への感動とは、ちょっと違うような気持ちが感じられました。なぜか、しんと静まり返った中、左隣にいる梅のかすかな息づかいが、聞こえるとはなしに峰一郎に感じられたのです。


 峰一郎は、いままで感じたことのない不思議な緊張感を感じました。それは、先日、小鶴沢(こづるざわ)川で郡役人が来るのを息を潜めてじっとしていた時の緊張感にも似ています。でも、それとは決定的に何かが違うように思いました。


 今の時代であれば、まだ中学1年生か小学6年生くらいの歳のふたりでした。まだ、異性を意識するほどにませたことのない明治の頃ですから、峰一郎がその不思議な緊張感に戸惑いを覚えたのも無理はないかもしれません、


「みね……いちろう……さん? 」


 名前を尋ね聞くような少女の声に、峰一郎は驚いて左にいる少女の顔に振り向きます。


 まだあどけない、でも、可愛い少女の顔が月明かりを浴びて美しく見えました。


「お父ちゃんね、すんごい喜んで、楽しそうだっけ」


 夜空を見上げながら、かすかに微笑みを浮かべて、少女はそう言いました。


「え?」


 唐突に話した梅の言葉に、峰一郎は何を言い出したのか分からず、きょとんとしました。


「お父ちゃんな、峰一郎さんのことが、とっても気に入ったみだいだべ」


「ほだな……」


 峰一郎は、どう答えてよいか分かりません。不思議に心臓がどきどきと鼓動を強めて、喉や口の中までもが何故かカラカラになって、思うように言葉がでません。


「あ、あの……! 」


 話題を転じようと思った峰一郎でしたが、口の中が不自然にカラカラとなっていたために、思わず大きな声になってしまい、自分でもびっくりしました。梅も驚いたように、峰一郎に視線を向けましたが、そこで視線が合うとにっこりとほほ笑みました。


 梅の笑顔に、なぜか心臓の鼓動がまた早くなったように感じるとともに、不思議な気恥ずかしさを覚えて、峰一郎は視線を外してうつむいてしまいます。


「うめ……さん……は、お父ちゃんや、天童のみんなの話しば、どう思った? 」


 恐らく、太陽があれば顔を真っ赤にしていたかもしれない峰一郎は、月夜とはいえ、夜の暗がりを味方にして、少女に問い返します。


 少女は、峰一郎との会話を楽しむように、微笑みながら再び夜空を見上げて答えました。


「おらな、ちっちゃい頃がらの村の友だちが、いっぱい、いだんだっけ……、すんちゃんだべ、せいちゃんだべ、それに、たきちゃん、いよちゃん、えいちゃん……」


 峰一郎は、少女が何を言い出したのか、まったく意味が分かりませんでした。


「でもな、たまに、急にその友だちがいねぐなるの。村さ、いねぐなて、あどは絶対に会わんねの。去年もたきちゃんや、えいちゃん、せいちゃん、……急にいねぐなて、たきちゃんのお母ちゃんさ聞いでも、えいちゃんのお母ちゃんさ聞いでも、おしぇでけねくて……」


 峰一郎はますます意味が分からなくなりました。でも少女はそんな峰一郎に構わず話しを続けます。


「せいちゃんのお父ちゃんから、『うるさい! 』って、ごしゃがっで、……おら、泣いで帰たら、お父ちゃんが迎えに来てけで……」


 意味不明ながらも、峰一郎は少女の話しに引き込まれてしまい、夜空を見上げる少女の横顔をじっと見ていました。すると、ふと、少女の目尻から、ツーッと流れ落ちるものが見えて、峰一郎はドキリとしました。


「お父ちゃんがな、『泣ぐな! お父ちゃんが、友だちば、いねぐならねぐ、頑張てけっがら、泣ぐな! 』て言ってけだんだ。んだがら、おら、お父ちゃんが何ばしてっか分がらねげんと、お父ちゃんば信じで、お客さんも、いっづも、いっぱい来るげんど、お父ちゃんの仕事だべがら、お母ちゃんの手伝いしったんだ」


 峰一郎には、少女の言う意味が何を指しているのか分かりませんでした。でも、少女が悲しみをこらえて父親の手伝いをしているのはよく分かりました。


 去年と言えば、天童地区は日照りによる水不足で、水源たる山寺(やまでら)村を巡って大きな騒動がたびたび起こりました。郡役所や警察署からも人が派遣されて、重症者までもが出る大きな騒ぎになったものでした。その混乱した状況は東村山郡役所の記録にも残っています。


 一方で、山野辺(やまのべ)地区は玉虫(たまむし)沼から引いた水のおかげで最低限の被害で済みました。その時に、江戸時代からの玉虫沼の管理をしている水元の安達家本家の久右衛門が、山野辺地区の先頭に立って、村の枠を越えて山野辺地区全体に水を回したことが知られています。


 しかし、天童地区は違いました。そういう中で、悲しいことではありますが、百姓が生き残るために、村の少女にそのシワ寄せが行ってしまった場合も少なからずあったようです。


 まだ、峰一郎にはよく分からないことばかりでしたが、峰一郎には、少女のその涙が、印象深く心に刻みつけられ、美しい夜空の景色と共に、とても忘れられないものになったようでした。


 ふたりはお互いに不思議に幸せな気持ちに包まれながら、じっと西方の山野辺地区の方角に向かって、いつまでもいつまでも、飽きずに夜空を眺めているのでした。


 **********


 翌朝、久右衛門と峰一郎は、伊之吉の家族に見送られて、天童村を後にしました。梅も見送りに出て、にっこり微笑みながら峰一郎に手を振っています。峰一郎は伊之吉に向かってペコリとお辞儀をしたあと、梅に顔を向けて、恥ずかしそうに右手をちょっとだけ挙げて手のひらを振りました。


「んだば、行くべ」


 久右衛門に促された峰一郎は、もう一度、伊之吉の家族に会釈をして振り返り、背を向けて久右衛門の後を歩き始めました。


「峰一郎、なんだが、良い事でもあったが? いい顔しったべ」


「な、なんも……」


 ほほ笑む久右衛門に、峰一郎は無理に表情を硬くして歩き続けます。その様子を、久右衛門も楽しげに眺めつつ、歩き続けます。峰一郎は夕べの不思議に楽しい時間を思い出しつつ歩き続けたのでした。


 しかし、高楯村までの道中はまだまだあります。この道中で、峰一郎はまだまだ自分が分からないことを久右衛門から教えられながら行くのでした。


 僅か一泊二日の時間ではありましたが、この日、村に帰り着いた峰一郎は、きっと村を出た時よりは少しだけ大人になって帰ってきたかもしれません。


 **********


 峰一郎たちの後姿を見送りつつ、伊之吉が娘の梅に話しかけます。


「梅、しぇえ男だな」


「え?」


 少女はふいに掛けられた父親の言葉にドキリとしました。


「おめの婿にちょうど良いんねが?おめ、峰一郎から嫁にもらてもらわねが?」


 伊之吉は満更でもないような顔で、いたずらっぽく少女に話しかけました。


「しゃね!」


 少女は、顔を真っ赤にして、家の中に駆け込んでいきました。


 **********


(おわりに)


 天童村の佐藤伊之吉の家に泊まった安達峰一郎は、深夜、ふと目を覚まして夏の美しい星空の下、ひとり笛を楽しんでいました。そこへ、峰一郎の笛の音に誘われて伊之吉の娘・梅が現れます。二人は並んで星空を見上げながら話しをしました。梅の幼馴じみの村の少女たちが、その貧しさ故に売られていったのかもしれないという話しは、まだ子供の峰一郎にはよく理解できませんでした。しかし、父の手伝いを一生懸命にしようと誓う少女のその姿に、峰一郎は強い印象を受けたのでした。

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