第31話 法律で百姓一揆(改)

(これまでのあらすじ……)


 高楯村総代の安達久右衛門は、安達峰一郎ら村の少年達に新道問題を丁寧に説明します。その中で、関山新道開削は始めからすべてが決まっており、住民が賛成協力する建前を繕うために村山四郡連合会が北村山郡の楯岡村で開催されたという現実を知り、少年達は驚愕し憤ります。彼ら東村山郡の住民には、これから長く苦しい戦いが始まる事になります。その後、峰一郎は久右衛門と初めて東村山郡役所に来て、そこで久右衛門とともに尽力する天童村の佐藤伊之吉と出会うのでした。


 **********


 その日、安達久右衛門(あだち・きゅうえもん)と安達峰一郎は、天童村の佐藤伊之吉(さとう・いのきち)の家に呼ばれました。


 佐藤家は天童地区を代表する地主であり、佐藤家の伝承では藤原朝臣内大臣鎌足(ふじわらのあそん・ないだいじん・かまたり)から始まり、その七代目の鎮守府将軍・藤原朝臣秀郷(ふじわらのあそん・ひでさと)が佐藤家遠祖とされ、更に八代くだって佐藤義清(さとう・のりきよ)、即ち西行法師(さいぎょうほうし)に続きます。なにやら日本史の教科書に出てきそうな人物名が次々と出てきて、ついつい眉に唾付けて聞きたくなるような家系ではありますが、天童佐藤家にはそのように伝承されています。


 その後、江戸時代貞享年間の佐藤直俊(さとう・なおとし)を初代として、代々、伊兵衛(いへえ)の名を襲名し、天童の大庄屋として天童藩織田家の家系を支え、広く大阪方面とも交易のあった富商でもありました。佐藤家を最も繁栄させ大きくしたのが六代目の伊兵衛直諒(いへえ・なおあき)でした。


 本家は、直諒の先妻の娘に婿養子を取らせて七代目伊兵衛としましたが、直諒は織田家中の娘を後妻に迎えて男子4人をもうけました。その長子が分家として財をなした佐藤直正(さとう・なおまさ)、伊之吉の父です。


 幕末期を生き抜いた佐藤直正は戊辰戦争の罹災者救済に尽力し、また、大義に殉じた天童藩士・吉田大八(よしだ・だいはち)の木像を現在の護国神社の前身となる祠に寄進したことで知られます。吉田大八は天童藩家老でしたが、戊辰戦争に際し天童藩主名代として奥羽鎮撫総督府軍勢の先導を務めましたが、天童藩が奥羽越列藩同盟に加盟するという情勢の変化に伴い、責任を取って切腹をした悲劇の勤皇家でした。


 このように、佐藤直正は地主として小作人も相当数に抱えるだけでなく、本家とともに醤油・味噌・酒の醸造販売や薬種問屋も営み、藩主をも凌ぐ素封家として地元の名士でもありました。


 佐藤家も安達家と同じく小作農家を抱える地主でしたから、それなりの広さを持っていますが、伊之吉の家は地主の家としては、古いながらも安達家の家よりも遥かに大きい住居でありました。その家は元禄期から幕末嘉永年間まで天童織田藩の御用商人を務めていた近江商人日野屋の屋敷でした。


 日野屋は織田家御殿の焼失に伴う御用金賦課に堪えかねて閉店に追い込まれてしまい、その資産処分において佐藤家本家と分家の佐藤直正が日野屋の家屋敷と土蔵を引き受け、伊之吉が一家を立てた際に住居として分け与えられたものでした。


 そのため、伊之吉の住居は、分家でありながらも、かなりの広さをもった立派な家屋であり、天童地区の主だった者たちの会合を度々行ったり、この日のように遠方からの来客を迎えて宴会を開くこともしばしばありました。


「久右衛門さん、どうぞどうぞ。峰一郎、遠慮すねで、おめもあがれ! 」


 伊之吉は屈託のない笑顔で峰一郎を呼び寄せます。


 すると、土間の柱の陰から、峰一郎をじっと見つめる幾つかの瞳がありました。


 それと気づいた伊之吉が大声を出しました。


「こら、梅! おめぇだも出できて、お客さんさ、挨拶すねが! 」


 伊之吉に言われて、土間に5人の子供たちがぴょんと並びました。


「こ、こんにちは! 」


 声をそろえて挨拶して出てきたのは、女の子が2人に男の子が3人でした。梅というのはその女の子の名前のようです。この日、伊之吉の家に天童地区の主だった者が集まってきたので、近在の本家である伊之吉の兄・弥門の子供たちも、祖父の佐藤直正に連れられて遊びに来ていたようです。しかし、伊之吉から名前で呼ばれた女の子は伊之吉の実子で、伊之吉にとっては目の中に入れても痛くない可愛いひとり娘でした。


「梅、かがの手伝いしてこい! 」


「はい」


 そう言ってペコンとお辞儀をすると、弾けるように竃の母親のところに飛んでいき、女の子が宴の準備を手伝いにいきます。歳の頃なら峰一郎と同じくらいでしょうか。


 **********


 久右衛門と峰一郎の二人が通されたのは板の間の囲炉裏端でした。藁円座が囲炉裏を囲むように置かれ、峰一郎は久右衛門と並んで、囲炉裏の一辺を占めます。


 戸長会議の帰りとて、久右衛門とも顔見知りの天童地区の他村の戸長も数名が同道して、佐藤家にあがりこみました。


 上座には、確か病気と言って戸長会議をふけていた筈の、伊之吉の父親である佐藤直正も好々爺然として不意の来客を迎えています。正式な天童村戸長はこの父親ですが、半分隠居も同様に、すべての公務は三男の伊之吉に任せていました。本家の地主の務めは長男の弥門に任せ、しばしば、伊之吉の家に来ては政治向きの相談に預かっているようでした。


 不意の来客に伴う宴の開催でしたが、いつものことなのか、佐藤家の家族はいたって当たり前のことのように、伊之吉の妻や娘も慣れた手際で準備を始めます。


「峰一郎、高楯と山野辺の子供らばちぇで、大活躍だったんねが! 」


 そこに同じく来客で来ていた荒谷(あらや)村戸長の村形宇左衛門(むらかた・うざえもん)も、楽しそうに話しに加わります。


「おお! こいづが小鶴沢(こづるざわ)川の勇士が! ダラ(糞尿)ど馬糞ば役人さぶぢまげでやったんだべ! 」


 この宇左衛門も江戸時代からの代々の地主で、姉は天童織田家の最後の当主、織田信学(おだ・のぶみち)の側室お八重の方でした。


「皆さんだ大人の苦労もしゃねで、生意気して暴っで申し訳ないっけっす」


「なあに、言ってんだ! お前だのお蔭でどんだげ気分しぇっけがって! みんな大喜びだべ! 」


 天童地区の大人衆も、みな、峰一郎に好意をもって嬉しそうに誉めそやし、恐縮している峰一郎に、より一層の好意を持ってくれたようでした。


 **********


 峰一郎の武勇伝を肴に、大いに宴は盛り上がりました。また、伊之吉も大層、峰一郎のことが気に入ったようでした。


 しかし、大人たちの本当の悩みはこれからのことです。


「久右衛門さん、まず、これがらだげんと、どうしたらしぇえべ」


 久右衛門の杯に酒を注ぎながら伊之吉が尋ねます。


「俺なより、伊之吉さんの方が、こういうなは慣れっだべ」


 久右衛門としては、これからの運動は法律闘争しかないと思っています。今更、百姓一揆を起こしたとしても、県庁に弾圧の口実を与えるだけです。その後に待っているのは、残された家族・村民への容赦ない収奪です。


 であるならば、今後の運動は、正々堂々と官側の土俵にこちらから食い込んで、官側の建前を大いに利用するのが一番です。しかし、官側の土俵であればこそ、訴える住民側にはどこまでも不慣れなアウェイの不利は否めません。


 しかし、伊之吉は既に昨年の明治12年に県を相手どって山形裁判所に「地券證印税處分不服ノ訴訟」を起こしていました。久右衛門はそれを指して言っているのでした。


「いんや、あれだば、ずるずるど伸ばさっだあがり、音沙汰もねぐなて、何もならねっけがらな。あん時だば、久右衛門さんさも迷惑かげでわれがったべし、俺が県から目ぇ付けらっだだげだべ」


 この訴訟の時、明治12年の正月早々、久右衛門の祖父である戸長の渡辺庄右衛門(わたなべ・しょうえもん)が、突然、理由も告げられないままに山形警察署に連行され、実印も取り上げられ、暖房もない極寒の留置所に7日間も勾留される事件が起きました。


 この連行・勾留は、庄右衛門が山野辺村・高楯村の兼任戸長職を拝命した翌日のことで、現代なら、首長当選翌日に市長や町長がわけもなく勾留されたら、新聞でもテレビでも間違いなく全国トップニュースとなる異常事態です。


 その後、3日間、わけも分からぬまま勾留されて、4日目に県庁に連れ出されて勾留理由を聞かされました。それによると、地券証印税剰余金処分不当の訴訟を起こそうとしている伊之吉に委任状を出したからである、と!


 国や役所の会計取扱方についての訴訟沙汰なぞ、オンブズマン制度が当たり前の現在では国民の当然の権利でもあります。しかし、明治初期のこの時代は、お上のやりようにケチをつける不届き者という感覚が主流でした。


 そのため、久右衛門をはじめ親類縁者が委任状を取り下げるよう庄右衛門を説得し、ようやく釈放されたのでした。裁判制度が発足する一方、お上への批判が警察による勾留理由になるという驚くべき時代でした。


 しかし、久右衛門はそれが無駄なことだったとは思っていませんでした。


 県はまともに裁判では勝てないことが分かっていたからこそ、強権で訴訟を封殺する暴挙に出たのだと久右衛門は見ていました。だからこそ、まだやりようはあると踏んでいたのです。


 久右衛門は伊之吉の自嘲気味な言葉に首を振って、笑いながら話します。


「つがうべ(違う)。ほれは1人でしたがらな。今度は村ぐるみ、郡ぐるみでやれば、いっぐら県令でも押さえらんね。住民みんなで法律さ決めらっだ通りにやれば、国で決めだ法律の通りに訴えればしぇえ」


 久右衛門は、イタズラな笑みを浮かべて言いました。


「法律で百姓一揆ば起ごすのよ、正々堂々どな。ほいだば、県令も、国も、誰も俺だば止めらんねべ」


 伊之吉は目を輝かせて、身を乗り出します。宇左衛門たち、天童地区の他の戸長も興味津々になって耳を傾けます。


「法律通りにやる百姓一揆が! ほいづはしぇえ! 」


「国で認めだ百姓一揆だべ! 法律で百姓一揆だ! 」


 久右衛門は合法的に百姓一揆を起こすことを考えていました。力のない平民が自分たちの要求を通すには、数の圧力で自分たちの意見を聞いてくれるようにするしかないのです。


 それに、完全要求貫徹は望むべくもないことは久右衛門も理解しています。しかし、法律闘争であれば、非力な平民であっても県に対して一定の圧力をかけることができますし、闘争内容は基本的に話し合いと第三者裁定ですから、条件闘争に持ち込んでの和解も可能です。


 けっして暴力には訴えない、それは久右衛門の信念でした。力で対抗しても国家を後ろ盾にした官に結局かなわないことは自明の理です。


 それは明治初期に起きた様々な地租改正反対一揆・徴兵令反対一揆・解放令反対一揆・学制反対一揆などを見ても明らかです。


 三重・名古屋・岐阜の広域圏や九州・北関東の日本全国に起きた地租改正反対一揆でも、結果的に地租減免を獲得したとはいえ、多数の死者や逮捕者を出し、住民多数が死刑を含む過酷な処分を受けました。


 更に、士族の反乱でも分かるように、どんなに強力に武装しようが国家の軍隊にはかないません。まして、鍬や鋤に筵旗の百姓一揆ではひとたまりもありません。


 久右衛門は、高楯(たかだて)村の少年たちが郡役人に狼藉をはたらいた事件を受けて、少年たちの郷里への強い真心を感じると同時に、少年たちへ自分たちの背中を見せる大人としての責任をも痛感したのでした。


 だからこそ、久右衛門は、子供たちにも、未来の子孫たちにも恥じない、正々堂々とした行動を考えずにはおけなかったのです。


 本人たちにその意識はありませんでしたが、これはまさしく後の世に繋がる市民運動・民衆運動であり、彼らこそ、その担い手である市民活動家に他なりません。


 後の自由民権運動が、福島事件・加波山事件と先鋭化過激化するのに比べれば、久右衛門たちの東村山郡住民による法律闘争は、時代を50年以上先取りした開明的な市民運動と言えます。


 しかし、久右衛門はそれが簡単なものでないことも知っています。現に、三島通庸(みしま・みちつね)県令の土木県政に反対して訴訟を起こした先例も幾つかありますが、やはりどれも一筋縄では行きません。


「んだげんと、大事なのはその手順だべ。バガ正直に訴訟ば起こしても、ながながうまぐはいがね」


 伊之吉も大きく頷いて賛同を示します。


「まずは郡全体ば巻ぎ込んで、みんなが団結さんなねべずな」


 全体を一枚岩に糾合し、それを持続させる……それが一番難しいことでした。勢いよく燃え上がった炎は急速にしぼむ、それが道理でした。


 **********


 しかし、彼らには良い先例もありました。それは、山形県日本海側の庄内平野全域を巻き込んだワッパ騒動でした。このワッパ騒動では、部分的とはいえ司法判決で農民側勝訴を勝ち取ったことが知られています。


「ワッパ騒動がぁ……」


 宇左衛門が思い起こし、独白しました。それに対し久右衛門と伊之吉が頷きます。しかし、これは条件がかなり異なります。


 ワッパ事件は、旧庄内藩士族を中心に運営されていた鶴岡(つるおか)県の圧政に対して、一斉に沸き起こった百姓一揆をその始まりとする農民暴動でした。


 更に、当時の鶴岡県そのものが親西郷派・反政府のスタンスであり、その県政改革と騒動鎮圧のために、内務卿大久保利通の命を受けた三島通庸が鶴岡県令として赴任したのでした。そして、鶴岡県を糾合した統一山形県に引き続き県令として残っているのです。


 つまり、ワッパ騒動は、終結こそ司法判決の形式を取ったものの、当初はあくまでも百姓一揆という実力行使からスタートしたものでした。


 対する統治者側たる鶴岡県も紛れもない圧政を行い、なおかつその反政府的性質から中央政府の支援も受けられず、しかも頼みとした西郷隆盛が西南戦争で敗北したため、騒動の原因を作った統治者側が既に孤立無援の状況下に置かれていたという農民側に有利な特殊環境のもとにありました。


 更に、現在の東村山郡が相対する三島県令は、ワッパ騒動当時では裁判の当事者でもありながら、調停者・鎮定者的な側面もありました。加えて、裁判を担当した人物が、後の大津事件で司法権独立を守ったことで名高い開明的な児島惟謙(こじま・これかた)であったということも、農民勝訴に少なからず預かっている側面は否めません。


 東村山郡住民がこれから立ち向かわねばならないのは、中央政府の支援を受けている圧政者自身たる三島県令その人であり、また、裁判官にその人を得られるかどうかも保証の限りではありません。


 **********


(おわりに)


 高楯村の安達久右衛門と安達峰一郎は、天童地区の中心人物である佐藤伊之吉の家に行き、今後の対策を話し合います。そこで久右衛門から語られたのは、法律にしたがって行う百姓一揆でした。しかし、前途はそう簡単なものでない事は、実際に行政裁判を起こして県側の弾圧を目にしている伊之吉や久右衛門にはよく分かっていました。だからこそ、東村山郡の住民全員が一丸となって前代未聞の大原告団を組織し、郡役所や県を相手取って法廷闘争を行うというものでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る