第12話 郡書記留守永秀(改)

(これまでのあらすじ……)


 関山新道問題に対して、安達峰一郎を始めとする少年たちは純粋無垢な正義感に駆られ、東村山郡役所から来る役人を村のために追い払おうと決意し、役人を迎え撃つ準備を始めました。東村山郡役所では粛々と計画が進められる中、ただ待つしかない安達久右衛門ら村の大人たちはじりじりと不安にさいなまれて待ち続けます。一方の峰一郎たちも自分たちの考えで、村の役に立とうと必死に頑張っていました。


 **********


(パタン……)


 扉を閉めて郡長執務室を出てきた郡書記筆頭の留守永秀(るす・ながひで)は、郡長室に続く書記室の大部屋で、窓を背にして部屋全体を見渡せる自分の机に腰を据えます。


(内容も知らずに、「よしなに……」もないもんだ。まぁ、お飾りの郡長閣下には、おとなしくさえしてもらえれば良い……)


 窓を背にした留守の机は、他の書記たちの仕事ぶりをあたかも監視するかのように睥睨しています。


「和田くん、例の件は間違いなく始末できたんだろうね」


 留守は、もっとも近い机で事務をしている和田徹(わだ・とおる)郡書記に声を書けました。和田の官位は13等の学務勧業兼庶務担当で、留守の次席でした。


「大丈夫です。たまたま柴くんの目に留まったお陰で助かりました。柴くんの気転で間違いなく焼却を確認しています」


 和田はもちろん、山形の田舎の郡役所でありながら、驚くべきことに部屋の中の他の書記もすべてが洋装でした。書記以下の従僕たちは、ほとんどが白シャツに着物を合わせ、野袴を着けた書生風の出で立ちであり、他県でもまだまだ洋装が十分には浸透していない明治10年代でしたが、山形では三島通庸(みしま・みちつね)県令の指示で、官吏の洋装化が徹底していました。


 明治10年4月、第1大区杉原区長から県令に宛てた『奉職中誓約』に、「十七等以上に於て、出庁巡回共すべて公務上の節は、成る可く洋服相用う可く申す」とあります。結果的に、役人は見た目にも一般県民との判別がつきやすかったかもしれません。


 つまり、高楯(たかだて)や山野辺(やまのべ)あたりの地方の村であれば、洋装しているのは巡査くらいであり、見た目にもすぐ分かる洋装の役人が歩いていれば、在所では「すわ、何事か!」と村全体に緊張感が走ります。


 洋装はともかく、その和田が言った柴とは、土木担当郡書記の柴恒玄(しば・こうげん)のことです。彼は担当事務方として連合会に出席していました。そして、例の件とは、共同採択の後、東郡と南郡の2郡が独自に共同提案してきた工事ルートと負担金割合についての変更を要望する建議書のことでした。


 慎重派と見られている東南二郡の代表者から、改めて別の建議書を受け取った連合会の西川耕作(にしかわ・こうさく)議長も細谷巌太郎(ほそや・いわたろう)副議長も、両者とも計画推進派の西郡選出県議でしたから、このタイミングで提出された慎重派の建議書に非常な戸惑いと不審感を抱きました。


 そのため、それと知った柴書記が「悪いようにはしないから、それをわたしに預からせていただきたい」という言葉に、中身を確かめもせず、厄介払いでもするかのように、一も二もなく引き渡したのでした。


(ふむ。表だって誉めるわけにはいかんが……。まずは、良くやってくれた)


 そして、昨夕の郡役所での議長による会議報告でも、この別件の建議書について、議長から留守郡書記には何の報告もなされてはおりませんでしたし、留守も素知らぬ体で尋ねもしません。まったく呆れる他はありません。


 議長たちは北郡、西郡、東郡と回って共同採択建議書を各郡長に奉呈し、その後、最後に旅籠(はたご)町の県庁脇にある南郡役所に行くことになります。しかし、彼らはその別件の建議書を既に柴書記に渡しており、現物を持っているわけでもありませんので、南郡役所でもその件に触れることはないでしょう。


 では、その建議書はその後どうなったのか?


 その建議書を手に入れた和田書記は、その内容を一目見るなり、共同採択建議書を根底からひっくり返すものと知り、その日の内に宿泊先の旅宿の竈に放り投げ、完全な灰にしてしまったのでした。


 かくして、その住民苦心の建議書は、永遠に歴史の闇に葬り去られたのでした。


「よいかね、そんな建議書など、はなから存在もしていなかったのだ。何もなかった。……そういうことだ。いいね」


 そう言うと、留守はおもむろに立ちあがり、窓から見える天童(てんどう)村ののどかな街並みを眺めていました。


(まあ、何か言われたらシラを切れば良い。土台、共同建議採択後のあとから出てきた建議書なぞに効力はない。いざとなれば、議長の県議二人の首を飛ばせば良いだけだ。県と郡の威光に傷はつかん)


 しばらく街並みを眺めた留守は再び椅子に座ります。途端に目の前の机に座る書記たちの緊張感が高まったのか、皆、無言で筆を走らせています。


 それを見ながら、留守はニヤリと笑い、再び思索を続けます。


(平民どもが、まったく、余計なことをしてくれる。人が良いだけのお公家さんに見せたら、意味も解さずに受け取ってしまいかねない。……まったく、国学の学者先生の次は、世間知らずのお歯黒とはな。お守りも疲れるわい)


 前任者の郡長であった筒井明俊(つつい・みょうしゅん)は、日本の国体についての著述を多数執筆する国学者で、後に県立病院の済正館(さいせいかん)創設に功があったと山形県史にその名を残しますが、御一新がなければ、寺子屋の親爺がせいぜいの人物であったかもしれません。済正館は、山形市立済生館病院として現在に至っています。


 また、現職の五條為栄(ごじょう・ためしげ)郡長は公卿の出身で、幕末には尊攘討幕派公卿の列に名を連ねて戊辰戦役にも出征し、明治政府の成立とともに陸軍少将に任じられました。しかし、格別の能力や軍功に恵まれたわけでもなく、たまたま時流に乗っただけの公卿の一人でした。


 その後は中央の要職に就くでもなく、侍従から東京府四等出仕となった頃に三島の知遇を得て、三島の県令就任に伴うツテで山形県入りしました。山形では、大区小区制時代の山形県第一大区区長、郡区町村制時代となってからは山形県の県北にある最上郡郡長を経て、東村山郡の郡長となったものでした。


 早い話が、どちらも単なるお飾りです。留守筆頭郡書記にとっては、何も考えず、ただそこに座ってくれてさえいれば良い存在に過ぎませんでした。


「ところで、天童方面には誰を行かせたかね? 」


 再び、留守が和田に尋ねます。


「天童とその周辺には、今回の建議書に加担した者がいるようですので、津田くんと原田くんの二人を送ってあります。」


 津田は租税担当郡書記の筆頭で、和田に次ぐ郡役所ナンバー3の津田端(つだ・はじめ)です。また、原田というのも租税担当郡書記の原田種禮(はらだ・たねのり)のことです。


「ふむ、良かろう。……では、民権結社の不逞の輩が、郡内に入り込んだ形跡はないか」


「今のところ、確認されてはおりません。津田くんにもその旨、目を光らせるよう、言い含めておきました」


 そう言った和田は、更に別の書類に目を通しながら答えます。


「なお、山形の警察署とも連絡を取り合っていますが、不逞分子が県庁周辺に潜り込んでいる様子もありません。山形では中央のような演説会も、今のところ、まだ開かれてはいないとのことです」


 既に確認が取れている情報なのでしょう。和田は留守の問いかけに、よどみなく答えます。


「うむ。しかし、常に監視は怠るな。三島閣下のお陰で栗子(くりこ)が間もなく開通するのはめでたいが、そこから入ってくるのは好ましいものばかりとは限るまい。福島に門戸が開いて東京と繋がるとなると、不逞の民権論者どもがいつ潜り込むかも分からん。開通前の今からその備えをしておかねばならない」


 福島と米沢を結ぶ栗子は、関山(せきやま)新道に先駆けて着工し、日本で初めての最新式の岩盤掘削ドリルを使用したものでした。翌明治14年には開通する予定で、その際には天皇の行幸を仰いで大々的に祝われることになります。


「わが郡内で暴民の一揆は絶対に許さん。悪い雑草は芽の内に摘み取れ。平民はお上の決めたことだけに従っておれば良いのだ」


「はっ」


 言わずもがなの決意を改めて語る留守でした。そして、もうひとつの懸念のある地区について再び和田に尋ねます。


「山野辺(やまのべ)村の方はどうだ」


「山野辺村周辺の者たちは、恐らく、天童の者からそそのかされただけと思われます。取り敢えず地縁のある渡辺くんを遣わしましたので、ますば慰撫に努めさせようかと思います。」


「うむ、渡辺か……、まあ、良かろう」


 渡辺は、出納担当郡書記の渡辺吉雄(わたなべ・よしかつ)で、郡役所の中では郡書記でも下っ端の序列、8人いる官位17等の最下位郡書記の1人でした。しかし、和田書記の言葉にもありましたように、渡辺は高楯(たかだて)村在住の地元出身官吏で、山野辺村と高楯村の戸長を兼務する渡辺庄右衛門(わたなべ・しょうえもん)の縁者でもありました。


 当時の郡役所書記がほとんどが士族出身者で占められている中で、地主の縁者が書記を務めているというのは、彼が高楯村を領した旗本の高力(こうりき)家の被官に養嗣子に入ったがため、一応は士分階級にあるからでした。


 高力家は徳川家康の祖父に当たる松平清康の時代から徳川家に仕え、高力清長(こうりき・きよなが)の時代には姉川の戦い、三方ヶ原の戦いに参陣し、明智光秀謀反時の伊賀越えにも従い、小牧長久手の戦いにも参陣しました。その後、江戸時代、高力忠房(こうりき・ただふさ)の代に遠江浜松藩主として三万石を領し、島原の乱後の島原藩四万石の藩主として入部しましたが、その嫡子・高力隆長(こうりき・たかなが)の代に失政を咎められて改易となります。


 出羽国村山郡に知行したのは、島原藩主隆長の弟・高力政房(こうりき・まさふさ)の系譜で、兄の改易とはまったく関係なく、村山郡に3000石の知行を得て、そのまま幕末まで系譜が続くことになります。高楯村に代官所を置いた高力家はこの分家の系統で幕末まで存続しました。


 しかし、この分家高力家は三代・長氏(ながうじ)が真田家からの養子を迎えたことを始め、幕末の八代・直行(なおゆき)まで6人の当主が続けて養子でした。当時、どこの大名家も旗本家も経済的には手元不如意が続いていましたが、その対策のひとつとして、当主の縁者や重臣の家に地元の有力地主や有力商人の子弟を養子に迎え、経済的な支援を仰ぐ手法もよく見受けられました。


 同じ東村山郡内の天童藩織田家においても、有力藩士に地元有力地主の子弟が養子に入ったり、その娘が藩主の側室に上がるケースもしばしば見られます。郡書記末席にある渡辺吉雄もまた同じような出自で士族となったものです。


 つまり、いかに群役所の下役とはいえ、今回の連合会採択決議の先触れを行うにあたって多少の混乱や反発が予想される以上、地元ではそれなりの名士となっていた山野辺村戸長・渡辺庄右衛門の縁者としての調整力を期待しての人選でもありました。


 当時の社会情勢として、手元不如意の傾向にある大名や旗本・御家人が、その所領に住む地主や商家からの経済的支援を期待して、地元有力者子弟を通じて関係を取り持つ手法が見受けられ、こののち東村山郡での関山新道開削反対運動で重要な役割を演じる天童地区の二つの地主にも同じようなケースが見られます。


 まず、天童村の地主佐藤家からは、織田家御典医・武田元佑(たけだ・げんゆう)の養子にその子弟を縁組し、実家の経済支援で大阪の尾方洪庵の塾に医学修行に行かせました。彼が後に県立済生館病院医師となる武田玄々(たけだ・げんげん)こと佐藤直道(さとう・なおみち)で、後に登場する天童村戸長・佐藤直正(さとう・なおまさ)の直弟、佐藤伊之吉(さとう・いのきち)の叔父にあたります。また、荒谷(あらや)村の地主村形家からは娘が織田家最後の当主・織田信学(おだ・のぶみち)の側室にあがり、お八重の方と呼ばれています。


「よいか、皆も心して聞け! 」


 留守はひときわ大きな声で、部屋中に聞こえるように言います。部屋にいる郡書記は全員が手を休め、姿勢をただし謹聴しました。


「愚民どもに決して甘い顔をしてはいかん。あ奴らは目先の損得しか分からん。百年先を見据えた県令閣下のありがたい思し召しなぞ分かろうともせん」


 そして、一拍置いて、ひときわ大きな声で言葉を続けました。


「故に、無知蒙昧な者どもが何と言おうと、お上の御威光をもって、われわれは粛々と仕事を進めていかねばならん。それがとりもなおさず住民自身のため、国家のためなのである。故に、われらの行為のひとつひとつが国家そのものなのである。皆も、さよう心得よ」


「ははっ! 」


 部屋中に十数人いる書記たちの声が響き渡ります。


 公共事業の概念や方法が未確立であり、大手ゼネコンもないこの時代、工事費用の捻出や労働力の確保は困難をきわめ、住民の負担は不可欠と考えられていました。


 いまだに財政基盤が脆弱でありながらも殖産興業政策を展開する明治政府には、地方のインフラ整備にまで手が回りません。


 三島県令は、当時としては全国的にも珍しい広域インフラ整備を地方から推進し、山形県から南東北・北関東、そして東京へと交通網を広げ、地方から中央への逆コースで殖産興業事業の波を押し寄せさせようとしたのでした。


 この三島構想は、留守郡書記の言う通り、百年後であれば、名県令の強力なリーダーシップによる大英断と高く評価されるでしょう。


 しかし、同時代人として無慈悲な権力発動による強制を強いられた人々にとっては、生命にも関わる非常な苦痛を伴うものであり、それに抵抗する無力な農民たちを、一体誰が非難できると言うのでしょう。


**********


 留守郡書記の前には、黙々と関山新道計画推進に邁進する書記たちがいます。


 彼らは皆、県令の意を体した留守郡書記の信念をわがものとして、国家百年の計に参画しているのです。


 明治国家の統治末端、若さと自信に溢れた青年国家の毛細血管まで、活力と精気をみなぎらせながら雄々しく活動しているのでした。


 **********


(おわりに)


 東村山郡役所では、実質的な郡役所のトップたる郡書記留守永秀以下の郡職員が、国家のためとの信念に基づき粛々と関山新道計画の実現に邁進していました。東村山郡住民の願いであった別段建議書も、楯岡村で開催されていた村山四郡連合会に参加していた実務担当者である柴恒玄郡書記の手によって密かに闇に葬られてしまいました。そして、山野辺地区に派遣されていたのは、地元士族でもある地縁のある渡辺吉雄郡書記でした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る