第13話 県令三島通庸(改)

(これまでのあらすじ……)


 関山新道問題に峰一郎を始めとする少年たちは純粋無垢な正義感で村のために役人を追い払う決意します。一方の郡役所では、影の実力者たる郡書記・留守永秀以下の郡職員が、国家のためとの信念に基づき、粛々と関山新道計画の実現に邁進していました。そして、東村山郡住民の頼みの綱としていた別段建議書も、実際には住民の知らない所で、担当実務者として会議に参加していた柴恒玄郡書記の手によって密かに闇に葬られていたのでした。


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 明治7年、東京府下、内務省……。


 重厚な漆喰壁の洋間、天井は木を格子に組んだ格天井(ごうてんじょう)、靴が沈みこみそうにフカフカの輸入物の高級絨毯、……まだ、内閣制度のないこの時、この部屋に実質上の日本最高権力が集中し、日本の意思決定がなされていました。


 その内務卿執務室の重厚なテーブルを挟み、二人の薩摩人が話し込んでいました。


「三島どん、今回、おはんに頼みあげもすは、戊辰の戦さで賊軍じゃった庄内藩の地でありもんで、難儀な地じゃっどん、よろしく頼みもんそ」


 先に発言したのはカイゼル髭が特徴の痩身の男性、内務卿大久保利通でした。大久保は、最後まで抵抗を続けた庄内藩の版図であった地域へ、新たに設置した酒田(さかた)県の県令として、同じ薩摩の三島通庸(みしま・みちつね)を任じたのでした。


「ついては、難治の県ではありもんど、赴任にあたり、三島どんの県治の目途はどげんか、おいに聞かせてたもんせ」


 三島は、小荷駄隊を率いて転戦した戊辰の戦いの後に郷里に戻り、日向国、現在の宮崎県都城で地頭に就いていました。そんな中、大久保利通に見出だされて中央に招かれました。その後、大久保一翁府知事のもと東京府参事となり、銀座煉瓦街の建設で実績を積んで政府部内での評価を高め、教部大丞から酒田県令に進みます。


 三島通庸の中央招聘については、西郷隆盛の推挙という説もあります。しかし、酒田県令に任ぜられる事情を見れば西郷推挙説には少々無理があることが分かります。


 というのも、当時は鹿児島県の情勢が不穏であり、親西郷派の多い元庄内藩士が治める酒田県(後の鶴岡県)が西郷に呼応して蜂起するのではないかという懸念が大きかったためです。だからこそ、大久保が三島を酒田に派遣した目的として、表向きの産業育成・地域振興という看板だけではなく、実は庄内の親西郷派士族の懐柔および取締がありました。


 とはいえ、田舎地頭がいきなり帝都東京の高官を拝命し、更には地方長官たる県令に任命されるなど、いかな薩閥とは言えかなりの横紙破りですが、しっかりと実績を残す有能さを示した三島はもちろん、それを見出だした大久保の眼識も素晴らしいものでした。ちなみに教部大丞とは、宗教政策を担う教部省の役職名で、大丞は、卿・大輔・少輔に次ぐ省内ナンバー4の地位に当たります。


 教部大丞を務めていた三島が県令拝命の内示を受けて以来、彼は地方の問題を彼なりに学び、赴任先の現状も調査して、自分に期待されている役割と使命を考えていました。


 大久保から「県治の目途は如何」と水を向けられた三島は、この時とばかりに、郷里の先輩である大久保にその所信を披瀝しました。


「まずは道でごわんそう。政府の殖産興業政策を進めるためにも、ほんなこつ道路改修と新道整備がないでん必要でごわす。河川舟運・港湾整備も大事じゃっで。次に、学校・病院・警察の整備、ほいで、製糸養蚕などの勧業を盛んにする。そいがおいの勤めと心得てごわんど」


 その答えに、大久保内務卿は満足そうに頷きつつも、優秀明晰なる大久保は必要な助言も忘れませんでした。


「おはんの考えはそいでん良か。おいもそのひとつひとつに全面的に同意でごわんど。……じゃっどん、やるにあたっては急いてはいけん。強引すぎれば民に害をばなし、いたずらに紛争ば起こすこつになりもす。湊の整備なんど、事業によっては民力じゃ耐えられんで。まず専門家をば遣わして測量し、時期を見て実施するのが良かと思いもんそう」


 同郷の先輩である大久保は、新任務へ意気軒昂に燃える五歳年下の後輩に、温かい激励とアドバイスを与えて赴任へのはなむけとしました。しかし、それは単なる激励だけではありません。急進的な施策で紛争を惹起しないようにという大久保の助言は、親西郷派士族への懸念を含むものだったと考えられます。つまり、三島の酒田派遣の裏面の事情は、輸出産業振興のための経済的課題だけでなく、旧庄内藩勢力への警戒と鎮撫という政治的課題がありました。


 そして、もうひとつ、大久保の念頭には対ロシア脅威に対する北辺防備のための北海道開発および東北開発という対外的課題がありました。大久保の構想する交通網整備とは、その裏面の事情として迅速な軍事行動を可能にするためのものでした。つまり、三島の県治の目的と大久保の助言には、経済的・政治的・対外的なみっつの課題を内包しているものでした。


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 明治7年、三島通庸が酒田県令として赴任する前、内務省に大久保を表敬した時に交わしたこのやり取りを、三島は片時も忘れたことはありませんでした。


 三島が酒田県令として現地で行ったことは、まず人事の刷新でした。大多数を占めていた旧庄内藩士族を一掃し、三島自身が連れてきた薩摩人や実務官僚たちを県のトップに据えたのです。しかし、間もなく三島は、あの大久保の言葉を痛切に思い知ることとなります。とかく、せっかちな薩摩人が「僻遠之雪国、且つ、苦情のみの難県」「諸事旧慣に因襲」の壁に、どれだけ苦しめられたか……。


 しかし、三島を励まして送り出してくれた大久保も、明治11年5月14日、紀尾井坂で遭難し帰らぬ人となりました。いみじくも、その日の朝、大久保は訪ねて来た福島県令にこう語りました。


「明治10年までは戦乱創業の時代、次の10年は内治を整え民産を興す建設の時代、その次の10年は後進に譲る発展の時代である……」と。


 その大久保卿の逸話は、同郷の薩摩人を通じて三島の耳にも入ってきました。


(大久保さぁ、おはんに約束した『県治の目途』、もう少しでごわんど。大久保さぁが言われた『建設の時代』、どうか、おいの仕事っぷりを見てくいやったもんせ)


 まだ真新しい県庁の重厚な洋間の執務室、三島通庸はエネルギッシュな執務の合間、時折、かつて教えを請うた大久保との会話を思い出すことがあります。


「辞職之決心にて十分奮発着手」と、大久保に向けて覚悟を手紙にしたためた酒田県令時代の苦労を再確認し、自らに課せられた国家からの使命を奮い立たせるのでした。


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 まだ、山形市というものがなかった明治13年の当時、山形城の城下町にある町並みは複数の町の集合体でありました。


 旅籠(はたご)町、鉄炮(てっぽう)町、城西(しろにし)町、城南(じょうなん)町、銅(どう)町、宮(みや)町、五日(いつか)町、七日(なのか)町……なにやら由来の分かりそうな町名が並びますが、城下町を中核としたそれらを総称して「山形」と呼びならわしていました。


 山形市が正式に発足するのは、明治21年4月25日の『明治21年4月25日法律第1号』として市制が公布されたことにもとづき、明治22年4月1日に山形市制が施行されてからで、そこで初めて行政単位としての「山形市」が誕生しました。


 それに先立って旅籠町に竣工した山形県庁は、山形の旧城下町に住む住民たちの血肉と涙汗で造られた悲しい建築物でした。


 しかし、その建造物は、その悲しい由来を感じさせないほどに、重厚で美しい明治洋風建築で、人々に新しい時代の到来を感じさせるのに十分な佇まいを見せています。


 英国人旅行家イザベラ・バードの旅行記には、当時の山形県庁の姿が報告されています。「大通りの奥の正面に堂々と県庁があるので、日本の都会には珍しく重量感がある……」と感嘆されるほど、重厚な造りであったことがうかがえます。


 その建物正面は高さ67尺、約20メートル強の3層楼を持つ、威風堂々の洋風建築でした。1階部分はレンガ石造りで、雪国には珍しい瓦葺きを採用し、わざわざ寒冷地用の割れにくい瓦の開発まで行ったと言います。


 ここまでの伽藍を備えた県庁舎を持っている県は、当時としてはまだ稀でした。明治13年6月30日昼、その山形県庁前に東村山郡役所の一行が到着しました。


「実に素晴らしいですね。わたしはここに来るたび、この威容に感動いたします。まさしく、文明開化、富国強兵の風がこの奥羽の果てまで届き、帝の御稜威があまねく行き渡っていることをこの身に感じ、わたくしも、臣として心からその喜びにたえません」


 郡長の五條為栄(ごじょう・ためしげ)が県庁の威容を前に佇みます。いつものことではありますが、実力も能力もなくて地位を誇る公家が、国家の興隆を自らと同一視し、そのアイデンティティーに満足感を得るのはよくありがちなことです。


 しばらくはその感慨にひたっていた五條郡長ですが、間もなく同行の者からの声がかかります。


「郡長閣下、そろそろよろしいでしょうか。県令閣下もお待ちになっていると思われますので」


 ひとしきりその感慨に付き合った留守永秀(るす・ながひで)は、頃合い良しと、県令の名をもって、郡長の入庁を促しました。


「おぉ、そうでしたね。県令閣下をお待たせしては大変ですね。参りましょう、参りましょう」


 そう言うと、郡長・郡書記以下の一行は、大きな正面玄関口の扉を開けて、庁舎内へと入っていきました。


**********


 山形県庁内の重厚な洋風造りの大会議室、大テーブルを挟んで一方に県高官が並び、対面には東西南北各郡長と、その補佐に当たる各郡筆頭書記の合計8人が並んでいました。


 そして、そのテーブルの真ん中に、4つの金縁漆黒の漆器盆に入れられた各郡の「郡長布告」が置かれています。


 しかし、東村山郡が提出した別段建議書は、テーブルのどこにも存在していません。


 留守郡書記は、窓際にしつらえてある縦長木目調の舶来品、ホールクロックの時間を一瞥しました。時刻は午後1時を少し回ったところです。


(昨日で天童(てんどう)村周辺への内示は終えた筈だが、特に問題があるとの報告はなかった。今日の今頃なら、長崎(ながさき)方面の村々はとうに終わって、そろそろ、高楯(たかだて)、山野辺(やまのべ)あたりか。……まぁ、問題はあるまい。)


 その時、留守の思索を破るかのように、大会議室の入り口の扉が開き、筋骨逞しく、体躯および顔ともにいかつい感じの男性が入室してきました。


 面長ながらも角張った顔面に、太いハッキリとした眉毛と引き結んだ大きな口、いかにも意志の強さを感じる力強い面相です。細く切れ長の眼は二重で、メリハリのある大きな鼻は鼻筋も通り、全体に若々しく整った顔立ちをしています。


 服装は三つ揃いのスーツ姿で、五つボタンの黒いスーツを前開きさせ、中には八つボタンの黒ベストを着込み、懐中時計の金の鎖をお洒落に掛け流しています。ベストの下の白シャツ首元には大きい濃紺のリボンを結んでいました。


 顔立ち・衣装共に、薩摩的表現で言うならば、なかなかの「よかにせっぷり」です。


 彼こそ、三島通庸(みしま・みちつね)、元薩摩藩人馬奉行、天保6年生まれの45歳、初代山形県令その人です。


 テーブルに着席していた者は全員、県令の入室と共に起立して、不動の姿勢にて彼を迎えました。緊張感の高まる中、静まりかえった室内には、三島県令の靴音のみが閑かに響きます。


 三島県令は、県高官の列の真ん中に空いた空席に足を運びます。そして、そこで対面の郡長たちをひとわたり眺め渡し、満足気に頷いて、ゆっくりと着席しました。


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(おわりに)


 県令三島通庸はかつて大久保内務卿に誓った約束のもと、国を豊かにする信念をもって計画を推し進めます。大久保が三島に期待したところは、経済的・内政的・対外的な様々な理由があり、いかに大久保が三島に期待を寄せていたかが分かります。一方、各郡の郡長は住民建議書に基づく郡長布告を持参して県庁に復命報告にやってまいりました。東村山郡の五條為栄郡長・留守永秀郡書記以下の一行も県庁に到着し、村山四郡の行政所管首脳陣が山形県庁に一堂に会することとなりました。

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