第1話 小鳥海山の大杉(改2)
(はじめに)
山形盆地の西端、出羽国東村山郡高楯村に生を受けた安達峰治郎、後の外交官・安達峰一郎の幼少期から話は始まります。今、彼は父親に連れられて、ある山の山頂にある神社の前に来ています。そこには大きな杉の木がありました。
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空がとても高い日でした。雲ひとつなく、真っ青な青空がどこまでも広がっていました。そして、その青空を背景に見事に大きく太い杉の木が高く聳えています。
周りに群生する杉の木を高みから睥睨するかのごとく、その大きい杉の木は突き抜けて高さを誇っていました。
まさしく、大きく、高く、そして、太い大杉でした。その杉の大木は、下から見上げると、まるで山頂から突き出た槍のように、天空を真一文字に突き刺すがごとく屹立していました。
「おどぉ、でっけぇなぁ」
(お父さん、大きいなあ)
杉の大木の根本から、十字絣の粗末な綿の小袖着物に股引き姿の少年が、空を見上げて感嘆しています。
すると、隣にいる父親らしい茶色い小袖の野良着姿の人物も、少年と同じように上空を見上げながら答えます。
「村のわらすだば、みんな、この杉の木ば見でおがる。んださげ、おがたらこさ来んだ」
(村の子供たちは、みんな、この杉の木を見ながら成長する。だから、ある程度の歳になったら、ここに来るんだ)
少年の住む高楯(たかだて)村にある天満神社は、近所の子供たちのよい遊び場でもありました。そして、その神社は高台にあり、そこから遥かに望む小鳥海(こちょうかい)山の山頂に、ひときわ高く聳えるこの大杉がよく見えるのでした。
子供たちは、その大杉のある小鳥海山に、いつ父親から連れて行ってもらったか、それが子供たちの間では一人前に認めてもらう道程の一里塚でもありました。
そのため、高楯村の子供たちは小鳥海山の大杉を神社の高台から眺めながら、そこに登る日を期待を込めて待ちわびていました。
「おれが、じさまから、こさ、ちぇできてもらたのは、にさより、もちぇっと、おっきっけがら、まだちぇっと早えがど思たんだげんど、にさ、わらすのうぢがら詩文も読むべし、こんどは学校さもあがっべし、んだがら、じさまも、『しぇえべ』て、言ってけだんだ」
(俺がじいさんから初めてここに連れて来られたのは、今のお前よりも、もう少し大きくなってからだった。ちょっと早いかとも思ったが、お前は子供のくせに漢詩も詠むし、今度は学校に入学するから、じいさんも『そろそろ良かろう』と言ってくれたんだ)
最初、上を見上げて口をあんぐりと開いていた少年は、父の言葉から祖父の意向も踏まえてのことを聞かされ、改めて口を引き結び、緊張感をもって大きく頷きました。
そこは、現在の山形県にあたる羽前国、村山盆地の西側に重畳と連なる出羽山地の一角、朝日連峰の東端にある小鳥海山という山の頂上でした。
山形県の県都・山形市は、山形県の中心にある村山盆地の中心地にあります。その村山盆地は日本有数の一級河川である最上川に沿って南北に細長く広がり、東に蔵王を擁する奥羽山脈、西に出羽三山を擁する出羽山地に挟まっていました。
その親子がいま立っている小鳥海山には、出羽国随一の霊峰、鳥海山から分祠された鳥海神社が祀られ、あたかもその大杉が神社の御神木のようになっていました。
その父親は、大杉の偉容を子供に見せると、神社の石段に腰をかけ、竹筒の水を美味そうにゴクリと飲みました。
「峰、こっちゃ来で飲め」
父親に言われた少年は、名残惜しそうにまだ上を見上げつつ、ゆっくりと父親のもとにやって来て、その隣の石段に腰掛けました。
「ほれ、こごだば村山の盆地がぜんぶめっべ。山形のお城もめるべ」
(ほら、ここなら、村山盆地が全部見渡せる。山形のお城も見えるだろ)
父親は、少年に竹筒を手渡しながら話しました。村山盆地の西端に位置するその山からは、東側に面して広々とした盆地が見渡せました。そして、その盆地の真ん中に、かつて戦国期に栄えた清和源氏の名家・最上氏が居城として築いた山形城の威容が見渡せました。
そのお城は、現代においても日本百名城のひとつに数えられる美しい威容を誇り、季節によっては霞たなびく美しさを幽玄に醸し出し、別名「霞城(かすみがじょう)」とも称されており、現在は「霞城公園(かじょうこうえん)」として山形市民の憩いの場となっています。
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既に時代は明治の御一新を迎え、そのお城には、もう藩主という殿様はおりません。最後の山形藩主・水野忠広(みずの・ただひろ)は、明治3年7月に近江国へ転封となり、そこで山形藩は消滅しました。
それからの旧山形藩領は明治政府直轄領となり、前年7月に既に発足していた酒田県の所管となりました。そして、2ヶ月後の明治3年9月に山形県が発足となり、山形城内の元藩主邸内に政庁が開設されました。
政庁は旧山形藩主水野家の屋敷に置かれていましたが、しばらくは県令不在で、この時はまだ、次席にあたる権令(ごんれい)が県政運営を担当しておりました。
この地では、明治4年7月の廃藩置県よりも2年も早い段階で既に県が設置されていたのです。しかしながら、それはこの地域の先進性を表すものではありませんでした。
事実はその真逆で、新政府に逆らって奥羽越列藩同盟に加わり、朝廷に対して武力をもって刃向かった賊軍として処断され、羽前国にあった各藩が次々に転封・改易されたのです。
その結果、無主の地となった多くの地をまとめて明治政府直轄領とし、廃藩置県に先んじて県を設置したというだけのことでした。
「おどぉ、お城さ、もう殿様いねて、ほんてんだが? 」
(お父さん、お城にはもう殿様がいないというのは本当ですか? )
「んだ、いね。……今度、県令どがゆのが来っど。ほいが、あだらし殿様だべ」
(そうだ、いない。今度、県令という方が来るらしい。それが新しい殿様だろう)
「ふ~ん」
意味が分かったのかどうか、少年は気のない返事で流しました。
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羽前国は既に全国に先駆けて山形県が発足していましたが、現在の県知事にあたる県令は、前述の通り、まだおりません。その時点での山形県のトップは権令という立場の者が務めていました。いわば、トップ不在で次官が代行しているようなものでした。
県令が制度的に設置されるのは、明治4年7月の廃藩置県後、11月に公布された太政官623号・県治条例により、県の長官の名称を知県事から県令に改称されてからです。
版籍奉還の当初は、旧来の藩主がそのまま県のトップに横滑りして知藩事となり、更に廃藩置県を迎えて知県事となり、旧来の藩の統治システムを流用して地方政治が行われてきました。
しかし、明治政府による中央集権化が進むにつれて、かつての藩主は天皇制を支える藩屏として華族制度に組み入れられていきます。そして、県令も中央政府の意向を汲んだ官僚が中央から派遣されるシステムに変わっていきます。
当時の県令は現在の県知事のように民主的な選挙で選ばれた地元の人物ではありません。中央政府から命ぜられて派遣される官僚ですから、もちろん、地元には縁もゆかりもない場合が多々あります。
現在の山形県の地域は、廃藩置県の当初、7県にまで細分化されており、実態は小藩や代官所が乱立していた江戸時代と大差はありませんでした。
それが、何度かの統廃合を経て、明治9年8月、山形・置賜(おきたま)・鶴岡(つるおか)の3県を統合して現在の山形県となりました。これによって新たに広域行政単位が生まれ、初代山形県令が山形に派遣されることになったのでした。
「にさ、みなから神童、神童、言わっでっげんど、とどにゃわがる。にさは神童でも何でもね。普通のわらすだ。ほいが詩文ば詠むぐなったな、ずさまが、読み書きば、おしぇでけだがらだ。あがすけつかさねで、感謝すねばなんね、しぇが」
(お前はみなから神童とか言われ始めているようだか、俺には分かる。お前は神童でも何でもない。普通の子供だ。それが漢詩まで詠めるようになったのは、お爺様の教育の賜物だ。慢心せずその感謝を忘れてはいけないぞ。よいな)
少年はしっかりと頷いて父親の言葉に応えました。
「どだな世のながさなっか、分がらねげんど、おさむれえも百姓も、みんなおんなずぐなるってゆうがら、峰、おめは、ずさまから、すっかりおしぇでもらえ。どだなごどさなても、頭さ入いたのは無ぐならね」
(どんな世の中になるかは分からないが、これからは武士も農民も平等になるらしいから、お前はお爺様からしっかり勉強させてもらうように。どんなことになっても頭の中に知識として入ったものは無くならないからな)
少年は、その父の言葉に応えるように、力強く言葉を続けます。
「おどぉ、……おれ、この杉の木みでに、まっすぐで、でっけおどなんなる」
(お父さん、僕はこの杉の木のようなまっすぐで大きな人間になりたい)
「んだ、がんばれ。あだつ家だば甲斐源ず武田家の筆頭家老職の由緒ある家柄だべ。いづまでもガギだいしょなすてねで、御先祖様さ恥ずがすぐない立派なおどなさなれ」
(そうだ、頑張れ。安達家は甲斐源氏武田家の筆頭家老職を勤めた由緒ある家柄だ。いつまでもガキ大将なんかをしていないで、御先祖様に恥ずかしくない立派な人間になれ)
父からそう言われると、少年は振り返って再び杉の木をまぶしそうに見上げました。
その少年の名前を安達峰治郎(あだち・みねじろう)といいます。後にアジア人として初の国際司法裁判所所長となる安達峰一郎(あだち・みねいちろう)、その人です。
安達峰治郎が父に連れられて初めて小鳥海山に登った時期がいつであったか、正確な日付は伝わってはおりません。しかし、この大杉と出会った小鳥海山登山と鳥海神社訪問が少年の心に大きな足跡を残したことは間違いありませんでした。
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安達家の遠祖は、清和源氏の流れをくむ足利一門の出身であると伝わり、鎌倉幕府の有力御家人、斯波家初代当主となる足利(あしかが)尾張守(おわりのかみ)修理大夫(しゅりのだいぶ)家氏(いえうじ)から始まります。斯波宗家(しば・むねいえ)、斯波宗氏(しば・むねうじ)と続き、奥州斯波郡に下向したこの宗氏が最上家と安達家の共通の先祖となります。宗氏の次男・斯波家兼(しば・いえかね)が奥州管領となり、更に家兼の次男・斯波兼頼(しば・かねより)が延文元(1356)年に羽州探題として山形に入部して山形城を築城、後の最上氏の基礎を築きました。
この斯波兼頼の山形入部の際、要所に一族を配置して領地的結合をはかるため、兼頼の祖父・宗氏からの流れを汲む尾張の斯波義高(しば・よしたか)を出羽に招請しました。これに応える形で尾張より出羽国(でわのくに)寒河江庄(さがえのしょう)君田に下向して居を構えた義高が安達家の遠祖と伝わります。
記録に残る安達家については、室町時代の末期、甲斐源氏武田家の一族で出羽高楯(でわ・たかだて)城主となった武田信安(たけだ・のぶやす)公の家老を務めた安達縫之助兼直(あだち・ぬいのすけ・かねなお)が安達家の元祖とされます。
しかし、安達家の遠祖と伝わる斯波義高が寒河江に下向した時期と、武田信安が羽前国へ下向した時期などに整合性が取れない面もあり、また、斯波宗家から安達兼直への繋がりも明確に追跡できる記録がありません。更に、安達兼家が武田信安の家老になった経緯も判然とはしません。斯波宗氏から宗家、そして安達兼家に続く系譜には不明な点が多く、今後の研究成果が待たれます。
一方の武田信安は、戦国時代の名将・武田信玄の祖父の弟でした。政争に破れたかどうか、甲斐国を出奔した原因については定かではありませんが、源氏同族の誼で出羽国の最上家を頼り、宝徳元(1449)年、最上義春(もがみ・よしはる)により須川西岸の高楯村一帯、現在の山形県東村山郡山辺町に封じられました。
当時、最上家は奥州探題として陸奥・出羽2国を束ねる地位にありましたが、村山盆地の北西、現在の山形県の寒河江(さがえ)市一帯に勢力を張る寒河江氏が、最上氏の采配に素直に服せず、激しく抗争していました。
この不穏な状況の中、武田信安は、朝日連峰を挟んだ西側、現在の山形県西村山郡朝日町に勢力を張る岸一族と対峙しており、岸氏は北側に隣接する寒河江氏を後ろ楯として、村山盆地への進出を狙っていました。
武田信安は高楯村の高台に城を構え、岸氏に対して睨みをきかせ、はからずも最上家の西の守りを託された形となったのです。
そのような情勢下、寛正元(1460)年、室町幕府の命により最上家から出羽国内に動員令が出され、武田信安も家臣を従えて出陣しました。いわゆる葦名戦争です。
この時の戦で、多くの家臣を失い世の無常を感じた武田信安は仏門に入って出家し、高楯村に庵を構え、高楯城の麓に浄土真宗・了広寺(りょうこうじ)を開基したのでした。
甲斐から付き従ってきた家臣の多くも、家老職にあった安達兼直も、この時、主君・武田信安に従い、刀を捨てて帰農し、了広寺周辺に居住したのでした。
少年の家も了広寺の南側のすぐそばにあり、少年の家の東側には、かつての武田信安公の居城である高楯城、現在の天満神社の高台がありました。
少年は、高楯村の少年たちと、天満神社の高台を登り、了広寺の境内を走り回り、時に鐘堂の鐘を突いては住職に叱られ、世間の風雲とはまったく関係なく、のびのびとおおらかに成長していったのでした。
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(おわりに)
出羽国出羽山地に連なる朝日連峰の東端にある小鳥海山、その故郷の山に聳える巨大な一本杉、父の安達久に連れられて、それを見た少年・安達峰治郎は、その大杉のように大きく真っ直ぐな大人物になると誓ったのでした。
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