ウミドリの灯りゆく町 第10話 1章完結

 もう十分だった。僕はもう十分に幸せを堪能できていた。

 

 瞼を閉じただけで、カイと過ごした日々が色鮮やかに呼び起こされた。

 きっと五年後でも同様に鮮明な思い出として僕の中で蘇ってくれるだろう。


「カイ君、今までのこと説明するよ」


 食事後、怖気づきそうになる気持ちを踏み付けて切り出した。

 僕の緊張をどう受け取ったのか彼は目を丸くしつつも「いいよ」と短く返事した。


 ダイニングテーブルに向かい合った。


「僕が電忘症でないことは言ったよね」


 声が少し震えた。


「うん。そして、君に僕を傷つける意志がないことも気付いてるよ」


 彼は柔らかに僕の告白を受け止めた。

 彼のまなざしが今は辛くて俯いた。


「僕はこれ以上カイ君の傍にいられない。ほんとは今すぐ消えるべきなんだ」


 とうとう言ってしまった。

 空気が張り詰めていくように錯覚した。

 これから数分で彼と築けていたかもしれない思い出が崩れ落ち、自分の手の届かないところまで行ってしまう。


「僕はつい最近までクジラの人間だったんだ。

 僕の与えられた仕事は外の人間をクジラの仲間に引き入れることだった。

 この手で沢山の人を傷つけたよ。家族を引き離したり、酷いことも平気でした。

 そしてそれを五年間、疑問に思わなかった。

 

 これから仲間がここに来ることになってるんだ、僕を探しにね。

 僕は彼らがこの町に到着する前に合流しようと思ってる。

 そうすれば、彼らは僕の回収という目的を果たして、この町を襲うことはなくなると思う」


 僕の掠れ声が、しんとした部屋に響いた。


 僕はカイの沈黙に恐怖している自分を自覚した。

 心臓を塞ぐ氷が容量を増した錯覚があった。

 それに耐えきれず顔を上げた。


 カイは、しょうがないなあ、とでも言うように微苦笑した。


 僕は混乱した。混乱して初めて、彼が激昂してくれるか狼狽えてくれることを期待していたと気付いた。


「何で笑ってるの?

 今の話、嘘だと思ってる?」


 彼は「ごめん」と謝りながらも、やっぱり笑いを堪えていた。

 その笑顔に虚しげな気配が混じった。


「何かあるってことは知ってたんだ。

 察しが付いてたって言ったほうが正しいのかも。

 君があの雨の日どうして倒れていたのか、とかさ」


 それは僕も分かっていた。だから、初めましての儀式が僕らに必要だった。


 ――僕らは五年前、日本に電忘症が広まる前から面識があった。

 いや、「面識があった」では言葉が足りない。


 僕はカイに恋をしていたし、彼も僕を好きになってくれた。

 淡く甘酸っぱいふわふわした気持ちだったとしても、両想いだったんだ。


 そんな相手に「初めまして」を言ったのは、その後に「これまでどうしてたの?」という詮索や、「あの頃は楽しかったね」という懐古の会話を紡ぐわけにはいかなかったからだ。


 カイはそんな遠回りを二人ともがしていたことを自嘲したのかもしれない。

 彼は俯き加減で続けた。自分自身に問うているようだった。


「だけど、それに気付いていても、僕は君が酷い人間だなんて思わなかった。

 それは君が人を傷つける時、平気ではないと知ってたから」


 彼の言葉に心がほどけていくのを感じた。


 彼が照れたように頬を掻いた。

 それから気を取り直すように小さく咳払いをした。


「実は僕からも話があるんだけど」


 真剣な顔をしながら、カイの声は明るかった。


「前に僕が仕事仲間だと紹介した人を覚えている?

 アイスクリームの材料を用意してくれたのもそうなんだけど、実はその人に頼んで仕事を紹介してもらったんだ。


 それでその、渡り鳥の仕事はしばらく休もうと思う。

 レイナちゃんに心配かけちゃってるのが申し訳なかったし、いい機会だと思うんだ。


 ここからは少し遠いけど、逃げ延びてきた人たちで作った町があるらしくて、そこで仕事をしようかなって」


 僕は面食らって、身を乗り出した。


「今、カイ君、渡り鳥って言った?」


「え、うん。言ったよ。

 渡り鳥……情報屋って言ったほうが通じる?」


 情報屋――通称「渡り鳥」。

 僕がクジラに所属していた頃から聞いたことはあった。


 彼らはいくつかの街を移動しながら生活していて、大体一年で十数の町を回るそうだ。

 ある街で今どこが安全だとか、どこが危険だとかいう情報を仕入れて次の町でその情報を必要な人に売る。


 ただそれで稼いだ情報料だけでは生活がままならないので、ひと月ほどは町に留まる。

 そこでは渡り鳥を頼って個人的に依頼してくる人も少なくない。

 そうやって地道に貯めたお金と情報を持ってまた次の町へ行く。


 ――盗みをやめたタイヘイらのグループに、カイが食料を融通できたのも渡り鳥としての人脈があったからなのだろう。


 僕は思わず、玩具を買ってもらえないと分かった子供が拗ねるように、責めてしまう。


「カイ君、そんなの一言も教えてくれなかった」


「……そうだっけ?」


 とぼけているのではなく、本気で伝え忘れていたらしい。


「あ、あのぉ、レイナちゃん?

 ごめん、言っとくべきだったよね。

 あーでも、ハンダが来た時は無意識に色々聞かせたくないって気持ちが働いてたかもしれない。それで、その」


 カイはぺこっと頭を下げた。彼のこういう誠実なところが僕は好きだ。

 それは置いといて、素直に疑問が湧いた。


「何でハンダさんが来た時は聞かせたくなかったの?

 普通に渡り鳥の仕事の話をするんだって言ってくれれば良かったんじゃない?」


 カイが図星を突かれたように、首を竦めた。


「だってさあ、ハンダは仕事の時、僕をアホウドリとか呼んで揶揄うからさあ。

 ……そんなのレイナちゃんに聞かせたくないし……」


「アホウドリ? 何それ」


「さあ。僕が渡り鳥の仕事の都合上、『ウミドリ』って名乗って依頼を受けるからじゃない?

 それをあいつ、揶揄いのネタにして……」


 やさぐれているところ悪いが、つい口を挟んだ。


「ちょっと待って。ウミドリって、」


「ああ、鳥って付いていたほうが依頼者に情報屋として見つけてもらえ易いんだよね」


 そうじゃない。

 僕はカイの手を両手で掴んだ。


 ――『叶うなら、ウミドリを探して!』


 あの日以来その叫びが鼓膜の辺りに、ずっとこだましていた。


 見つけた。見つけた。ウミドリ!


 希望が胸に満ちた。

 僕がここにいることをクジラも町の人々も世の中のほとんどの人が望まないだろうけれど、トーノとカイが、二人もの人が肯定してくれるなら、僕はここで生きていけるような気がした。


「それで話を戻すけど」


 とカイが僕の手を握り返しながら、遠慮がちに窺った。


「今すぐにここを発つ支度をしなくちゃいけないんだけど、どうかな。

 君も一緒に来てくれる?」


「……本当に、行っていいの?

 多分もう僕、カイ君から離れられなくなるよ」


 僕の脅し文句に、彼は嬉しそうに「望むところだよ……」と囁いた。

 お互い見つめ合い、気恥ずかしくなってクスクス笑った。




 翌朝。寒波はまだ去る気配がなく、一段と寒かった。


「早くしないと置いてくよー」


 荷物を運び終えたカイが僕を呼んだ。


「あ! 待って」


 僕らの去った部屋のダイニングテーブルにメモ用紙が一枚。

 それはかつての仲間に向けたもの。


『ウミドリ、見つけたよ

 いつか君に会わせたいから今は逃げます』


 これを見つけることができるのはトーノだけだ。


 何故なら、昨日のうちにカイと町の皆の手を借りて、クジラが町にやってくるまでの通り道に害獣除け用の電気柵を張り巡らせてきたからだ。


 電気柵は廃墟と化したデパートから総出で搔き集めた。

 設営は案外簡単だったが、数が数だったので半日掛かった。


 これで電忘症の構成員は入れない。

 電忘症の人々にとって電気は近付くことすら怖ろしいものだから。

 三か月ほどは町の人々がクジラに襲われることはないわけだ。


 電気クジラであるトーノだけはきっと柵を回避し、ここまで辿り着く。

 その時にこのメモを見つけてくれるはずだ。




 とめもり喫茶のマスターがタイヘイの隠し持っていたトラックを譲ってくれた。


 それは謝罪もお礼も込みのものだろうと分かったので、僕らは黙って頂戴した。

 五年前以前は引っ越し業者のトラックだったのだろう、丈夫そうだ。


「このトラックが今後は僕らの家代わりになりそうだ」とカイが言うので、僕のアイデアで表札を作った。


小豆沢伶奈あずさわれいな ・ 遠野 魁志とおのかいし


 僕は出来立ての表札に刻まれたカイの苗字を指先でなぞった。遠野。トーノ。


「レイナちゃん?」


 カイが気遣わしげに覗き込んだ。


「ううん、なんでもないの。

 行こう!」


 僕らを乗せたトラックは冷たい風に切り込むように進み、降り始めた雪をまるで一枚の花びらにやるように、はらりと舞い上げた。


「しばらくはアイスクリーム乗せフレンチトーストが流行りそうだね」


 カイが助手席で呑気に笑った。

 僕は運転席でミラーの角度を調節しながら、


「よそのお家もフレンチトーストブームが来てるの?」


「んー、どうなのかなあ。少なくとも我が家にはブーム来てるね」


「あはは、それは間違いない」


 彼と食べたフレンチトーストは夢のように美味しかった。


 もし世界がこんな風にならなければ、当たり前に学校に通って当たり前に生きていたのだろうか。

 そうなってみなければ分からない。


 僕はこれからも彼の隣に居続けるのだと思う。

 僕がありのままでいられる場所だから。


 そして彼の笑顔を見ていたい。

 壊れかけている今の世界がいつかそれぞれの幸せを尊重できる世界へと修復を始めるまで。


 きっとフレンチトーストの幸せが当たり前になるまで。




<第1章 完結>


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