ウミドリの灯りゆく町 第9話

 僕は魚の叩き売りをしている市場で仕事を手伝わせてもらえることになった。

 その日は、釣りについて行った。報酬に魚を譲ってもらえるという。


 崖の上から海を見下ろすと、波打ち際に人影があった。


 ――トーノだ!


 僕がクジラにいた頃の仲間だった。

 クジラから逃亡したあの日、彼女は撃たれたが無事だったのか。


 漁師のおじさん、おばさんは気付いていない。

 トーノが姿を現したのはほんの十数秒だった。


 その意味を、彼女が見えなくなってから理解した。

 彼女は意図的に姿を見せて警告したのだ。組織が僕を探している、と。


 浜辺に降りて、さっきまでトーノが立っていた場所を調べれば、貝殻を見つけた。

 白い綺麗な二枚貝。

 それを開くと、メッセージの書かれた和紙が入っていた。


『あなたがこの町で生きていると信博ノブヒロから報告があった 

 三日後、クジラが迎えにいく

 このままだと町の人間からあなたがクジラの手先だったと誤解されてしまう

 その前に戻ってきて

 また逃げるチャンスはきっとあるから』


 詰め込まれた氷が肥大していくように心臓が痛くなった。


 逃亡劇もこれまで。

 自由が叶ったのはたったひと月半。


 漁師のおじさんが心配そうに僕の肩を叩いた。


「レイナちゃん? 何で笑ってるんだい……?」


 無様だなあ、と思ううちに笑えてきたらしい。


「ううん、何でもないんです。

 さあ! 歩きましょう!」


 時間がなかった。

 明後日には迎えがやってきて、カイと居られなくなる。

 だから、思い付いたことは最後を楽しい思い出にするためのサプライズだった。


 僕は漁業の仕事から帰宅すると、早急に準備に取り掛かった。

 カイが帰ってくる前に隠さなければならないからだ。


 腰までの髪の毛をまとめ上げてお団子ヘアにし、食パン、蜂蜜、牛乳、卵などの材料を台所に並べた。

 これらは漁師のおばさんが気前よく譲ってくれたものだ。


 一斤の食パンを3~4㎝の厚さに切る。同じ厚さになるように慎重にブレッドナイフを入れていく。

 それからボウルに、卵、牛乳、蜂蜜を溶かした液を作る。

 切った食パンを液に浸し、オーブンレンジのプレートに敷く。

 後は食パンに液を染みこませるために、ラップをかけて冷蔵庫に一晩寝かせるのだ。


 冷蔵庫にコンセントを差して、タッパーを忍ばせた。

 このアパートに太陽光発電装置があるのは確認済みだ。


 後は明日、カイが帰ってきてからのお楽しみ。


 冷蔵庫を閉じて振り返れば、カイが立っていた。

 聞かされていた時間より早い帰宅。


「それ何……?」


 冷蔵庫が冷却を始め、ゴーっと音を立てた。

 びくっとカイが怯えた。


「それ電気で動いてるよね……?

 何でレイナちゃん、電気が使えるの?」


「あ、えっと、僕は電忘症にならなかったんだよね……」


 愛想笑いをしても誤魔化せはしない。

 彼は単刀直入に切り込んだ。


「電忘症でないのはクジラの創始者たちだけだってノブヒロさんから聞いたんだけど」


「…………」


 僕は肯定も否定もできない。

 真冬というのに冷や汗が背中を伝った。


「君は、僕らの敵なの?」


「違うよ、違うんだ、カイ君、」


 カイは電気への恐怖に耐え、冷蔵庫の扉を開け放った。

 彼が剣呑な顔のままタッパーを取り出して傾けたので、つい手を掴んで阻止した。

 カイが戸惑って、僕を見返した。

 

 僕は観念していそいそタッパーを開けた。


「これは、何……?」


「……フレンチトースト、です」


 カイがゆっくり歩いていき、ダイニングテーブルに腰掛け、僕を手招いた。

 家族会議をしよう、の合図だ。


 僕は首を横に振って、タッパーを両手で胸の前まで掲げた。

 明日フレンチトーストを食べてからにしよう、の合図だ。

 カイは「うむ」と武士のように頷いた。


 翌朝、冷気が蓄積された台所。

 その向こうには彼がいて、僕がフライパンを操る姿を興味深そうに眺めていた。


 カイに拾われ目覚めた朝のことを考えていた。

 僕が僕であるとここ数年で最も強く実感できた、温かい記憶。


 クジラの構成員であり現在も逃亡中であることを、僕は彼に隠し続けて今日まで来てしまった。

 だがそれも、この朝食を終えたら打ち明けなくてはならない。


 台所から正面、ダイニングにいるカイと目が合って、慌てて手元を見た。

 焦がさないように気を付けなければ。


 一寸やそっとではカイの援軍は期待できない。

 僕の悪戦苦闘する様子を楽しんでいるのが見て取れたからだ。


 僕は出来上がった一枚を皿に移し、すぐにまた、フライパンにバターを落とした。

 ジューっと音を立てながら、バターが溶けて馴染んでいく。香ばしい匂い。

 溶き卵に牛乳を加えたソースに浸しておいた厚切りの食パンの二枚目を、フライパンに投下した。


 ただ見学しているカイがちょっと憎らしい。


「ねぇ悩みがあるんだけど」


「ん? どうしたの急に」


「僕がこんなに必死で作っているのに、目の前で暇そうにしている人がいる気がするんだよね。

 僕がこんなに慣れないことを頑張ってるのに!」


「あー、手伝えってこと?」


 カイは朗笑し、意外にも腰を上げた。

 ――彼の微笑みももうすぐ見納めだ。


 焼く工程をカイと交代した。

 彼は余裕綽々で焼き上げていく。

 カラメル色の焦げ目がついたフレンチトーストが次々と焼き上がり、ダイニングテーブルの上に蜂蜜の甘い湯気が立ち昇った。


 僕が席に着いたのを見計らい、カイが箪笥を開けてガサゴソとクーラーボックスを取り出した。

 それは確かカイの仕事仲間のハンダという人から受け取っていた……。


 カイはそこから大きめのタッパーを取り出し、「じゃーん!」と効果音を口で発した。


 僕が唖然としてしまった間が数秒。


 カイは空咳を二、三回して、仕切り直した。

 タッパーの蓋を取り、スプーンで中のものを削り取って、僕のフレンチトーストの横に添えてくれた。


「あ! アイスクリームだ!」


 一足遅れて僕が上げた歓声は、今度はカイの納得のいく反応だったらしい。

 彼は安堵したようにふにゃ、と笑った。


 数日前カイがこそこそ用意していたのは、この材料だったようだ。

 彼はアイスクリームの作り方を得意気に語った。


 卵を白身と黄身に分けた後、白身・黄身・生クリームをそれぞれにかき混ぜ泡立てる。この時にバニラエッセンスも垂らしておく。

 生クリームに角が立ったら砂糖を少しずつよく混ぜて卵の白身、黄身も入れてさらに混ぜる。


 それをタッパーに移し替えて、冷凍庫で一晩放って固まれば出来上がり。


 そんな説明を聞くうちに、アイスクリームがフレンチトーストの熱でほんのり溶け出した。

 バニラの香りが広がった。


「早く食べよう」


 大真面目にカイを急かして、席に着かせた。


「レイナちゃん、僕の説明聞いてた?」

 

 そう不服そうに言うくせに、彼は愛おしげに目を細めていた。


「いただきまあす!」


 フレンチトーストをナイフで切り取り欠片を口に運んだ。

 バターの香りと優しい甘さとが口の中でふっと溶けた。


 カイも心底感動したように瞳を潤ませた。


「レイナちゃん、塩と砂糖を間違えなかったんだね……!」


「……カイ君は間違えたみたいだね」


「え、嘘っ!」


 彼は椅子から飛び跳ねるほど動揺して、アイスクリームを口に入れた。


「うふふ、嘘だよ」


 僕を揶揄うなんて百年早いよ。

 朗らかに笑うと、彼が悔しそうに見上げた。






(*ここでご紹介した料理は実際に作ることができますが、アイスクリームは熱を加えず生卵を使用したレシピですので、体調の悪い方や小さなお子さんには与えないようにご注意ください。

 グラム数など表記しておりませんので万が一にも真似する方はいらっしゃらないと思いますが、念のため………)


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