最終話 ネクタイの日



 世の中には。

 大人の言葉には。



 矛盾がある。



 『君子危うきに近寄らず』と叱るくせに。

 『虎穴に入らずんば虎子を得ず』と尻を蹴る。


 『善は急げ』と優柔不断を責めるくせに。

 『急がば回れ』と自分の怠惰を肯定する。


 二律背反にりつはいはん


 どちらの言葉も金言でありつつ。

 こうして並べるとお互いを打ち消し合う。


 小さなころ。

 この矛盾に気付いたとき。


 大人になったらどちらが正しいか判断がつくものと思っていた。



 でも、この年齢になって。

 真実に気づく。


 大人だって答えを知らず。

 必要な時に便利な言葉を使うだけ。



 だから、矛盾という言葉を。

 つじつまが合わないという意味で使うのは。

 あまり好きじゃない。


 矛盾という言葉の、ほんとの意味は。

 試してみれば答えが出るのに。

 やろうとしないってこと。



 ……矛が勝つか、盾が勝つか。

 じゃあ、試してみようか。

 答えを出すために。




 作中特別編

 =誰がために星は煌めく

        第四話 =



 ~ 二月十四日(日) ネクタイの日 ~

 殺身成仁 VS 貪夫徇財


 ※殺身成仁さっしんせいじん

  命を捨てても他人への想いを守る

 ※貪夫徇財たんぷじゅんざい

  自分の利益のためなら命もかける




 ライブ会場のすぐそば。

 萌歌さんの顔ききで、ライブハウスを使わせてもらっての最終調整。


 二人が辿り着いた最終地点。

 目の前に、佐倉さんの妹ちゃんがいることを想像してのパフォーマンス。


 本番の一曲目。

 Aメロを歌い終えたところで。


 萌歌さんは。

 音響を止めた。



 秋乃は、今までを超えるパフォーマンスを見せて。

 みんなを驚かせはしたんだが……。


「五十点。小せえんだよ、光が。……これが本人だったとしても変わらねえはずだ」


 萌歌さんは、妹ちゃんに見立てた右マイハマズを指で弾くと。

 特に残念がるわけでもなく席を立つ。


「でも、こんなの一つで、なんでそこまで変わったんだよお嬢ちゃんは?」

「さ、佐倉さんが、全力でぶつかる理由を知ったから……」


 佐倉さん本人には。

 妹さんと会ったことは話しているものの。


 萌歌さんにどこまで話していいのか分からず言いよどむ。


 舞浜まいはま秋乃あきの


 代わりに、繊細な所には触れずに。

 俺から事情を説明すると。


 萌歌さんはため息をついて。

 急に、俺をおちょくる時のモードに性格を切り替えた。


「下らないですね。それじゃあ、大したことないパフォーマンスになるの当たり前ですよ、お嬢様」

「下らないって」


 萌歌さんは、随分と冷たいことを言い放ったが。

 下らなくなんてねえだろうが。


 これが、佐倉さんが歌う理由の全てだっての。

 秋乃が歌う気持ちの源泉だっての。


「もう開演が目の前なんだ、答え教えろ。やっぱ、気の持ちようなんだろ?」

「さあ?」

「お前はどんな気持ちでステージに立ってんのか言えよ」

「以前お話しした通りです。いつも私にお金を貢いでくれて、バカみたいですねお客様方という気持ちだけ」

「前と変わってんだろ。ありがとうじゃなかったのかよふざけんな」


 事務所に所属していないとはいえ、お客さんからお金を貰って歌を歌う以上、萌歌さんはれっきとしたプロだ。

 プロがその技を易々と他人に渡すものじゃねえことは分かってる。


 でも、焦りの余り何度も同じ質問を繰り返す俺に適当な返事をしながら。

 とうとう萌歌さんは、俺が立ってるすぐ隣。

 ライブハウスの出口へと歩き始めた。


「……まあ、今の半分程度で歌えればそれでいいです。客前に出ると、分かっていても緊張してまるで実力出せませんから、逆に気張らず二十五点辺りを自分の中で合格ラインにしてステージにあがって下さい」

「ま……、待ってください!」


 もうどうしようもないのか。

 背中を向けた萌歌さんに。


 佐倉さんは、必死に声をかける。


「いいえ、私も準備がありますし。せめて私が教えたことを全部ステージで発揮してください」

「…………さっきの言葉も、ですか?」


 佐倉さんの言葉の意味が。

 俺には分からなかった。


 だって、ここに入ってからずっと。

 萌歌さんは、何のアドバイスもしちゃいない。


 でも、佐倉さんの言葉は。

 扉に手をかけた意地悪女の足を止めさせると。


「本人を前にしても変わらないって言われた時にやっと気付いたんですけど……」


 最後には。




 あり得ない結論で。

 萌歌さんの口端を歪ませた。




「萌歌さん。ひょっとして、ほんとにありがとうなんて思ってない?」




 ステージの上に立つ二人には見えない。

 真横にいた俺だから見えた萌歌さんの笑い顔。


 それを隠しもせず。

 扉を開きながら萌歌さんは言う。


「何の話か分かりかねますが。私が『ありがとうという言葉』が嫌いなことは間違いないですよ」


 …………歌い手にとって。

 あってはならない発言に。


 俺はめまいを覚えながら、閉まる扉を見つめていたんだが。


「秋乃ちゃん! ちょっと聞いて!」


 佐倉さんには、そう聞こえなかったのか。

 何かを掴んだと言わんばかりの目の輝きで。

 秋乃になにか耳うちをし始めた。


 『ありがとう』という言葉に。

 何の意味があるのか。

 それはまるで分からないけど。


「……任せても大丈夫か?」


 俺が、二人に声をかけると。

 おろおろする秋乃とは対照的に。

 佐倉さんが自信満々にサムアップ。


「ほ……、ほんと?」

「うんうん! 目を引き付ける皆さんに共通してる! だから……」

「……会場まで歩いて五分! あと二十分でお前達の出番だからな!」


 ここは二人きりにした方が良さそうだ。

 俺は佐倉さんを信じて。

 一足先に外へ……。


「あ、立哉君。これ持ってって?」

「…………今日ばっかりは自分で持ってけとは言えんな」


 仕方が無いから。

 俺はマイハマズを背負って。


 会場へ向かうことにした。




 ~´∀`~´∀`~´∀`~




 関係者と言っても。

 結局は客の一人。


 当然、演者より前に着席してる必要があるわけだ。


 バレンタインデー当日の。

 華やかな駅前を目指して。


 昼下がりだというのに。

 急に冷え込みだした街を急ぐ。


 耳に届く喧騒は次第に大きくなり。

 駅前広場に作られた特設ステージには。


 これだけ見慣れているのに未だに怖く感じる。

 いかつい、萌歌さんファンの皆さんが詰めかけていた。


 ……ありがとうとは思わない。

 どういうことだろう。


 確かに今日は。

 無償のライブ。


 でも、萌歌さんは。

 めちゃくちゃだけど。

 こんな寒い中、自分のライブを見に来てくれた皆さんに。


 感謝もしないほどの人じゃない。


「さっぱりわからん」


 ロープで区切られた客席の中。

 前の方、二列だけできたパイプ椅子の関係者席。


 町のお偉いさんとかに見せるには。

 萌歌さんのライブは刺激が強すぎると思わなくもないが。


 結構若い人が多く座っていて。

 その人たちから、サイリウムを渡されながら説明を受けたりしてるから。


 まあ、大丈夫かな。


 そんな関係者席の中に。

 佐倉さんの妹ちゃんの姿もある。


 向こうは気づいていないようだが。

 俺は、なんとなく手を振ってから。


 座席へ向かう前に。

 立ち見の皆さんからはどう見えるんだろうと。


 人混みの外周を歩いて。

 最後尾までやって来た。


「すげえなこりゃ。まるでステージが見えん」


 そこからさらに後ろを見渡すと。

 道路の作りで、高い位置になっている場所に何人かいることを発見。


 ついでにそこまで足を運んでみたら。

 なるほど、ここからなら何となくステージが見える……。


 ん?


「んなななななななっ!?」


 ついこの間体験した恐怖。

 俺に向かって真っすぐ突っ込んで来る黒塗りの車。


 それが後輪をスライドさせながら目の前で止まると。


 後部座席から、鬼みてえな形相で。

 舞浜父が転げ出てきた。


「なんだこのガラの悪い客層は!」

「俺に聞かれてもな」


 携帯の画面突き出さなくても。

 実物なら、今、散々目にして来たぜ。


 誰が写真送ったんだ?

 春姫ちゃんかな。


「こんな客の前で歌うとは聞いていない! 許さんぞ!」

「待てこら」

「…………そこをどいてもらおうか」

「やっぱあんたすげえおもしれえな」


 うるさい親父を止めるべく。

 急きょ呼び出した応援団。

 左マイハマズをにらみつける舞浜父。


 そんなおっさんが。

 急に歓声が湧きあがった会場に目を見張る。



「「「うおおおお! おおおぉぉ…………」」」



 おお。

 一瞬爆発的に盛り上がってからのフェードアウト。


 この反応。

 すげえよく分かる。


 お目当てのバンド、『デスデモニッキス』。

 いよいよ開演の時刻となった瞬間。


 彼女たちのステージと聞いて駆け付けたファンの皆さんの前に。

 ひょっこり顔を出したのは、初めて目にする二人組。


 でもそこは。

 萌歌さんファンという鍛え上げられた戦士の皆さん。


 この頼れる統率力を見よ。


『みなさん、こんにちは!』


「「「こんにちはー!!!」」」


『うわ……。だ、大歓迎……、かも……』

『うんうん! デスデモニッキスさんのステージ見に行った時にも思ったけど、ファンの皆様、すっごい優しくて素敵よね! ……いぇーーーい!!!』


「「「いぇーーーーい!!!」」」


『な、なんで息ピッタリなの……? 台本とかあるの……?』


 どっ!!!


『すっごい息が合ってるよね!』 

『これなら、緊張せずに歌えるかも……』

『じつはあたしたち、萌歌さん直々の猛特訓を受けている新人アイドルユニットなんです!』

『あ……。それ、恥ずかしいから絶対言うなって言われてたやつ』


 どっ!!!


『……言うなって言われてた?』

『うん……。私、怖くて舞台袖見れない……』


「「「わははははは!」」」


『平気だって! そんなに怒ってるわけ……、うわ。すげえ顔でにらんでる』


「「「わははははは!」」」


『き、今日はご厚意で、デスデモニッキスさんの前座として』

『あたしたち、T・A’sティアーズのデビューライブを行うことになりました!』

『み、短い間ですが、お付き合いよろしくお願いします……』


 予定時刻よりちょっと早い。

 でもその理由はなんとなく想像がつく。


 きっと、ライブハウスからここに到着した二人の顔を見て。

 萌歌さんが、そのままステージに上がれと指示を出したに違いない。


 下手に客席を覗かせて緊張させるより。

 近視眼なままの方が確かにいいだろう。


 俺が考えておいた掴みのトークも大成功。

 会場からは。


「がんばれー!」

「かわいい!」

「きんちょうすんなー!」


 アットホームな声が。

 至る所から二人にかけられる。


「……こら。どこ行こうとしてるんだお前は」

「愚問だな。ステージに上がるに決まっているだろう」

「大丈夫だって。あんたのお眼鏡にかなうパフォーマンスは無理かもしれねえが、お客さんたちは十分楽しんでくれるよ」


 聞こえるだろ。

 会場中が、萌歌さんを通してあいつらのにわかファンになってくれてる。


 どんなステージになったとしても。

 酷いことにはならねえさ。


 だから。

 マイハマズに失礼とか声かけて横を抜けようとしてるんじゃねえ。


 俺は。

 舞浜父が避けた分。

 同じだけ横にスライドした。


「貴様……! 邪魔をするなら容赦せんぞ!」

「そう言いながら律義にベニヤの前で止まるのな」

「なるほど、言われてみればその通りだな」


 言うが早いか、ベニヤをたたき割った暴力親父が。

 そのままずんずんステージに向かおうとするから。


 慌てて両脇から腕を通して羽交い絞め。


 それと同時に、客席からは大歓声。

 二人のステージが始まったようだ。


「くっ……! 早く行かねば……! ええい、放せっ!」

「放さねえっての」

「容赦はせんと言ったはずだっ!」

「うおっ!?」


 舞浜父が、両手を肩越しにまわして。

 俺の背中を掴んだかと思うと。


 そのまま一本背負いの要領で前に投げられて。


「ごはっ!!!」


 背中に背負ったマイハマズ格納庫もろとも。

 地面に叩きつけられた。


 ……だが。


「小僧……っ! しぶといやつめ……!」

「タックルと似た理屈だな。膝にしがみつかれるとどうしようもねえだろ?」


 すぐさま起き上がって。

 舞浜父の膝に体ごとダイブ。


 でも、そんな俺を強引に引きずって舞浜父はなおも前進しようとする。


「てめえも大概しつけえな! とまれってんだよ!」

「ぐはっ! く、首を……! まずは貴様を眠らせた方が早そうだな!」


 そして、舞浜父の背後から首に腕を回した俺の腹に。

 すげえ切れのある肘鉄を食らってからは無我夢中。


 拳はお互い出さねえまでも。

 胸倉掴んでもみ合って。


 そして運動神経にはそこそこ自信がある俺が。

 大外刈りで後頭部から地面に叩きつけられて。


 マウントをとられたその瞬間。


「…………どうした?」


 顔を慌ててかばった両腕の隙間から見えた舞浜父。

 肩で息をしながらステージの方を見つめるその表情から険が取れる。


「…………ふん」


 たった鼻息ひとつ吐いたきり。

 黙って秋乃たちの姿を見続けているようなんだが。


 そのうち、大歓声とともに一曲目が終わると。


「……納得していないからな。こんな下賤なことに巻き込まれるのは、友人を選んでいないせいだ」

「そんなお前の言いつけ守ったせいだろ、あいつがろくに友達作って来なかったの。反省しろ」

「見合う者がいなければ作らない。それで構わんだろう」

「てめえっ!」


 舞浜父が立ち上がって背中を向けたのに合わせて。

 俺も後を追うように腰を浮かせて。


 不条理親父の肩にかかる。

 ネクタイに手をかけた瞬間。




 俺は。


 こいつが本気でステージを止める気だったということを知った。




 一体どんな仕組みになっているのやら。

 ネクタイを引っ張ったと同時に。

 縦に、綺麗に破けたこいつの服。


 正面は無事なのに。

 背中はまるで剥き出しになって。


 そんな肌に、直接。

 油性マジックで書かれていたのは。


 餌皿を前にして。

 びっくり顔した白いネコと。

 吹き出しのセリフ。




 ドッグフード、やば




「うはははははははははははは!!!」



 笑い転げる俺をよそに。

 車へ滑り込む舞浜父。


 俺は、走り去るテールライトを見つめながら。

 またもや敗北したことに下唇を噛む。


 でも。

 あんなのステージで披露されて。

 台無しにならずによかった。



 俺は、ひとまず胸を撫でおろしながら。

 ステージ上で、二曲目の前に。

 萌歌さんの面白エピソードを語る二人を見下ろした。



 ……いや?



 ほんとに止める気だったのか?


 実は、プライド捨てて俺の真似して。

 ステージの隅で、その背中晒して盛り上げようとしたとか?



「……ははっ。まさか」



 俺は、あり得ないことを想像しながら。

 二曲目のイントロに合わせてサイリウムを取り出した。



 

 ~´∀`~´∀`~´∀`~




 萌歌さんたちのステージが終わって。

 カーテンコールに顔を出した二人が。


 やっと着替えて俺の前に顔を出したのは。

 その一時間半後。


 トラ男と共に出迎えた秋乃と佐倉さんは。

 成功の喜びが体中からあふれ出して。


 ステージ衣装もメイクもないのに。

 未だにキラキラ輝いていた。


「おつかれ。凄かったな」

「ありがとー! 保坂君のおかげだよー!」


 佐倉さんに続いて。

 秋乃ともハイタッチ。


「もちろん萌歌さんには敵いやしねえけど、輝いてた」

「そ、そこはウソでも一番って言葉おいとくとこ……」


 秋乃の返しに。

 みんなと一緒に笑ってるけど。


 二人を前にして。

 俺は、平静を保つのがやっと。


 一体、どんな魔法を使ったのか。

 二人のステージは、今までとは明らかに違っていて。


 遠目に見ていても。

 俺は、魅了されていた。


 きっとそのせいだろう。

 今も、妙にキラキラして見えて。


 正直な所。

 距離を置きたい。


 でも。

 その理由だけは聞いておかねえと。


「なんであんなにガラッと変わったんだよ」


 俺は、トラ男と握手してブンブン振腕を振っていた佐倉さんに問いかける。


「えっとね、ちょっとややこしいんだけど。まずは感謝の気持ち!」

「萌歌さん、ありがとうって思わないって言ってたじゃねえか」

「ちがうちがう! 萌歌さんは、ありがとうっていうが嫌いって言ったのよ。言葉じゃなくて、何かで返すのが感謝の気持ちって意味!」


 そして今度は秋乃と手を繋いだ佐倉さんが。

 嬉しそうにその手を大きく振り始める。


 ……なるほど。

 言葉でありがとうと言う行為は嫌い。

 ちゃんと対価を物や行動で返す。


 確かに、あの人の性格考えたら。

 すげえ言いそうな言葉だな。


 でも。


「それだけじゃねえだろ」

「うん! 目の前の人へありがとうを届けようとすると、五十点!」

「そうだったよな」

「だから、全世界に届くくらいめちゃくちゃ輝いてる姿を見てもらうの!」

「え? 気の持ちようで輝けるもの?」


 妹さんの前で、秋乃が歌った時。

 実は気の持ちようでどうこうなるものじゃねえって感じてたんだ。


 秋乃に言わせれば。

 非科学的。


 そんな俺に。

 佐倉さんは。



 ……科学的とは言い切れないものの。

 実に理に適った『輝く方法』を教えてくれた。



「そうね。保坂君が言う通り、自分が輝いて世界征服なんて無理よ」

「いや、さっき自分で言ったじゃねえか」

「自分じゃなくて。みんなにあたしを照らしてもらうの!」

「……は?」

「わがままになるの! 私を照らしなさいって! そう言った意味で、ありがとうって言わないのが萌歌さんイズム!」


 試してみようかとか言いながら。

 佐倉さんは腰に手を当ててふんぞり返る。


 その仕草じゃ何も変わりはしなかったけど。

 そもそもそんなことする前から。


 お前ら、いつもより気を引かれる…………?


「まさか……、カリスマか?」

「それ! 簡単に言えば、絶対的な自信からくる何か! 萌歌イズム!」

「…………いや、何かじゃなくて」

「え?」


 お前がたどり着いた、人目を引くものの正体。


 それは。



 交感神経系コントロール。



 自身の副交感神経を活発化。

 つまり意識的にリラックスして。

 優しい、広い視野を持ち。


 相手より絶対的優位な位置にいると信じて。

 自信を持ってふんぞり返る。


 その状態で。

 逃げ道の少ない、選択肢の限られた圧力を相手にかけるとどうなるか。


 それを受けた者は逆に。

 交感神経が活発になって。

 極度な緊張、あるいは興奮状態を誘発されるんだ。



 多くのアーティストがそうであるように。

 絶対的な自信を持つ者に、人が惹かれるメカニズム。


 カリスマの正体を、こう分析する人がいるが。

 あながち空論じゃねえと俺は思う。


 人にはもともと、何かに依存したいという本能がある。

 交感神経に縛られたいという欲求がある。


 現に、そんな願望が形になったものが。

 世界各地に存在する。


 それが。



 偶像崇拝。



 人々の気持ちを安定させたいという善意か。

 それともこの仕組みを利用した悪意か。


 いずれにせよ、カリスマによるコントロールを受けた人々は。


 自らは輝きもしない偶像アイドルを。

 心の中で、勝手に光り輝かせたんだ。



「……どうしちゃったの? 保坂君」

「ああ、いや。何でもねえ」


 ただの偶然だが。

 萌歌さん達のライブを前に。


 会場にいた皆さんに選択肢はほとんどねえ。


 そこに、絶対的な自信を持ったアイドルが。

 自分たちの歌を聞けとパフォーマンスを披露する。


 そいつらに、上手さや美しさがあれば。

 誰だって束縛されて。


 目の前の偶像を。

 崇拝し始めるってわけだ。



 ……いや。

 俺の分析は、ただの屁理屈に過ぎねえのかもしれない。


 でも間違いなく。

 トラ男共々。


 今日は二人に完全にまいっちまってるわけで。


「おい、佐倉」


 そんな気配を体中から発散させたトラ男が。


 明らかに緊張しながら、コートのポケットから小箱を取り出した。


「なにそれ! くれるの?」

「バレンタインデーだしな」

「うんうん!」

「それで……、佐倉……」


 緊張感が、辺りの空気を凍り付かせて。

 時計の針の動きを緩慢にさせる。


 お前。

 まさか……。


「お、俺と…………。俺と付き合ってくれ!」

「あ、ごめ。それは無し」


 うわばっさり爆死!!!

 かぶり気味に返事とかかわいそすぎる!


 小箱を持ったまま呆然としたトラ男が膝を突くのを慰める佐倉さん。


 その隣で、二人の仲を勘ぐってた秋乃も肩を落とす。


「やっぱ、パラガスが好きなのか?」


 トラ男の耳にはもう何も聞こえんだろう。

 俺はお構いなしに佐倉さんに聞くと。


「そりゃかっこいいと思うし、好きだけど、そうじゃなくて。アイドルとしてステージに立つ以上、彼氏は作らないよ」


 そう口にした佐倉さんは。

 さっき覚えたばかり。


 俺より優位な位置に立って。

 俺の交感神経を活発にさせながら。


「ファンになってくれた人、歌を聞いてくれた人、ダンスを見てくれた人。みーんなあたしの彼氏で彼女よ?」


 くるりと回って両手を腰に当てながら小首をかしげて笑顔でポーズ。


 俺のことを。

 軽々と魅了した。



「じゃあ、秋乃ちゃんはお父さんと御飯なんだよね? 来週、打ち上げやろ!」

「うん……」

「それじゃ、またね!」


 そして佐倉さんが駅へ走り去ると。

 トラ男も、呆然としながら駅へ向かったんだが。


 やれやれ。

 あの敗者を慰めるのは俺の仕事か。


 面倒なことを押しつけられたと。

 肩を落とす俺に。


 秋乃は、私も行かなくちゃと前置きしてから。

 ゆっくりと近付いてきた。


「ス、ステージ……。どうだった?」

「秋乃らしかったって思うよ」

「私らしい……」

「おお。……なんて言うか、綺麗で、優しかった」


 だからさ。

 近付くな。


 佐倉さんが俺にかけた魔法。

 まだ交感神経がガンガンに暴れまわってるから。

 ドキドキしちまうんだよ。


 優位に立っていることも知らない秋乃は。

 俺の返事に、照れまくってやがるが。



 可愛いじゃねえかこの野郎。



 しかしこれはまずい。

 今、何か一つでもショックを与えられたら爆発する。


「ほら、とっとと行けよ」


 俺は自己保身のために。

 つとめて冷たく言い放ったんだが。




 こいつは。

 そんなことも知らずに。




 ……起爆スイッチを押しやがった。




「ハ、ハッピーバレンタイン……」



 俺の手に押し付けられた。

 可愛いラッピングのチョコレート。


 ハート形の箱を手にした俺は。

 長い飴色の髪が逃げるように走り去る姿を呆然と見つめる事しかできなかった。



 ……なぜ逃げた。

 照れ隠しか?

 だったら。

 なぜ照れる。



 自問自答を繰り返す俺の鼻先に。

 ぽつりと落ちた一粒の雪。


 それがいつの間にか。

 コートにうず高く積もっている。



 どれぐらい、ここに立ち続けていたんだろう。

 どれぐらい、俺は考え続けていたんだろう。



 ビルの窓と街灯が淡い光を放ち。

 行き交う人が足早に通り過ぎる見知らぬ場所。


 ついさっきまで、興奮が渦巻いていた広場は。

 今は誰もいない。



 だというのに。

 俺の目には、鮮明にその姿が映っている。


 笑顔で歌い、踊るその姿。

 会場中から大歓声を受けたそのアイドルが。


 俺に。


 人生初の。


 箱に入ったチョコを手渡した。




 ……そうか。

 やっとわかった。




 俺は、今日始めて。




 秋乃の事を。




 好きなんだって気持ちに気が付いたのか。





 秋乃は立哉を笑わせたい 第9笑


 =友達と、

  どっちが勝つか考えてみよう!=


 おしまい。

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秋乃は立哉を笑わせたい 第9笑 如月 仁成 @hitomi_aki

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