患者修行

伊東へいざん

患者修行

 猿渡吾郎は入院患者になった。


 カーテンに囲まれた病室まで案内した看護師が「またあとで来ます」とカーテンを閉めて去って行った。ポツンと置かれた狭い病室の静寂に包まれ、孤独が襲う。カーテンの向こうに相部屋の患者が入院しているはずだが実に静かだ。術後の苦しみに耐えているのか、新米患者の様子を窺って息を潜めているのか分からないが、物音一つしない。所定の位置に荷物を納めようと立ち上がると、また看護師がやって来て流暢な入院説明が始まった。何枚もの説明書と手術の承諾書やら誓約書の類を渡された。このタイミングしかないのだろうが、今それらを一気に渡されても、数日後の手術のことやら、入院費の事やらで説明など頭に入らない。何しろこっちは入院という事だけで頭がパニくっている。


 後で分かったことだが、入院は回を重ねないと “一人前の患者” には成れないようだ。点滴一つをとっても、血管に冷たい液が入って来るのを緩和させるために手元に近い管を指で挟んだり、フェイスタオルで針の刺さった腕を覆うことで液を温めて血管への刺激を少なくしたりと、そうした何気ないテクニックの積み重ねで、少しづつまともな患者に成長して行けるようだ。入退院を繰り返している手練れの患者には敵わない。彼らは独自の工夫で入院中の快適さを探求し、他の患者にそのテクニックを明かすことはない。医師や看護師すら気付かない患者だけが知り得るテクニックがあるのだ。

 医師や看護師は日々の専門的な治療と看護で忙しい。一人の患者に時間を費やせない彼らから何かを引き出すには、それ相応のタイミングと知識が必要だ。忙しい医師に有効な質問を手短にするタイミングは朝の回診時がいいことに気が付いた。一方、看護師には検温時にある。無駄話ではなく、的を射た質問をすることで、患者は次第に一人前の患者になっていくのだ。また、治療は医師と看護師にお任せすることが患者の正しいマナーだと思っていたが、大間違いである。医師や看護師に、恰も飲食店の店長にするような治療のお任せは、自分に対しても、医師や看護師に対しても無責任である。彼らは治癒の手助けはするが、治すのは患者自身なのだ。更に、治療を恐れて苦痛を極小に話したり、逆に少しでも同情を買おうとオーバーに話すことは自虐行為に等しい。医師は患者の正確な情報が知りたいのだ。入院生活を後悔したくなければ、そうした先入観に捉われない “患者力” を付けていく努力が必要だ。猿渡吾郎は老いた医師の “癌の原因は老いです” という言葉を忘れられない。妻は腹を立てていたが、猿渡吾郎は至極納得し、これからは老いとの駆け引きになることを予感した。


 猿渡吾郎が入院を余儀なくされたのは浸潤性膀胱癌である。浸潤性とは、癌細胞が絨毯のように膀胱内を増殖していくことである。最初、帯状疱疹で皮膚科の治療を受け、完治したが2年後再発し、治癒の翌年帯状疱疹の症状に似た尿意の異常を覚えてまた受診すると、泌尿器科を紹介されたのがことの始まりだった。そこで浸潤性膀胱癌が見つかり、治療設備の整っている大学病院を紹介されて治療を受けることになった。

 一般には全身麻酔での手術のようだが、猿渡吾郎は局部麻酔が効いて手術の一部始終をモニターで見ることが出来た。2時間以上の手術だったが、自分の膀胱内の施術の一部始終を見れたことに感動した。


 術後の回復と同時に、やっとの退院である。根拠のない解放感とは裏腹に、担当医からこれからの外来治療計画を知らされて目の前を大きな壁が覆った。にっくき絨毯を全部きれいに切除するのは不可能であり、可能な限り掻き取ったが、残る癌細胞を滅ぼすためにBCG治療というものが施されるという。あの小学生の頃から毎年肩口に刺されて化膿と闘ったやつだ。その液体をおちんちんから入れられるのだ。治療薬を膀胱に到達させようとしても腎臓で濾過されるので、直接膀胱内にBCGを入れて皮膚を痛め付け、リンパの働きを促して癌細胞を攻撃させるという事らしい。

 一般に、退院で病から完全に解放されることはめったになく、治療は外来通院で継続され、日常生活次第で患者の未来は大きな差が出ることを知った。退院する患者がご機嫌宜しく「先生、食べちゃいけないものとかありますか?」と聞くが、そういう次元の問題ではなく、二度と入院したくなければ、今までのライフスタイルを根本的に見直さなければならないのだ。その中で、特に食生活の改善は真剣に考えなければならない。元の生活に戻すというのは、また入院する確率が高いという事だ。「先生、食べちゃいけないものとかありますか?」という質問に対し、医師は「特にありませんよ」と答えるが、本当は「これまでのライフスタイルを根本から考え直してください」と言いたいに違いないのである。


 さて、取り敢えず退院の意味を知った猿渡吾郎は、現実を受け入れて外来の治療に専念するしかなかった。外来の処置室は病室より更に狭い閉鎖空間である。その狭さが人体実験ばりの一層の不安を掻きたてる。処置用の細いベッドに横にされ、「先生が来るまで少しお待ちください」と言って外来看護師が去って行った。あれこれ良からぬ不安との闘いが始まる。その時間は実に長く、そして、もっと長くて中止になればいいとさえ現実逃避に走る。しかし、「お待たせしました」と外来を一区切りさせた担当医が現れ、未知の処置が始まった。

 おちんちんに麻酔ゼリーが塗られた。「では、入れますね」の言葉に緊張が走る。激痛を想定していたが、これといった痛みも無く、「これから膀胱に入るのでちょっと嫌な感じがしますよ」と、その管が膀胱を通過したと思われた際に何とも言えぬ不快な違和感を耐え、「では注入しますね」とBCGが注入された…らしい。そして管が抜かれ、緊張の初体験が済んで安堵した。しかし、これから毎週、この治療に通わなければならないと思うと実に気が重くなる。

 液を入れた後は2時間放尿を堪えなければならない。1時間ほど経過すると次第に襲ってくる尿意との闘いである。生コントばりに2時間我慢してやっとの放尿。放尿後の便器や周囲の消毒をBCGだから注意してくださいと念押しされた。それが毎週一回のペースで行われて行く。一週間経つのが早い。途中、担当医が「大丈夫ですか? 頑張れますか?」と聞いて来た。心中は “もう無理です” と叫んでいるが、口から出た言葉は「大丈夫です!」だった。後半は半ば心が折れていたが、なんとか6週続けた。


 BCG治療をしたものの癌細胞の数値が下がらず、膀胱も然ることながら、腎臓から膀胱に繋がる尿管に問題があるのではと言う診断が下った。

 猿渡吾郎は若かりし頃、尿管結石なる症状を経験している。その激痛たるや厳しいものがあって救急車で病院に担ぎ込まれた。その尿管に膀胱から注入したBCGを逆流させるべく、管を入れることになった。過日あれだけスムーズに行った局所麻酔注射に時間が掛かったが、予定どおりステント手術が始まった。案の定、後半は痛みによる過呼吸で手の小指から段々に痺れが始まり、我慢の限界となった頃、やっと手術が終了した。つらい手術となった。術後の回復を待って10日ほどで退院となった。

 ステントの違和感が続いた。動くたびに膀胱の底の部分に何かがあたる。ステントの有効期間が半年という事で、長く思える期間を経てやっと外来でステントを抜いた。どうやら、管の先を巻いた部分が膀胱の底部にあたって若干赤くなっていたようだ。しかし、治療結果は喜ばしいものではなかった。クラス「4」。その上はステージ1に入る。最早、早期治療ぎりぎりの膀胱切除のレベルらしい。


 そもそも担当医からは浸潤癌発見の段階から膀胱切除を勧められていたが、猿渡吾郎は延命より転移後の緩和措置の考えを提示していた。体は癌になりたがっている。膀胱を切除して数年延命となったところで、その先に転移がないとは言えない。転移は覚悟しなければならないことであり、切除による延命にしがみ付く気はなかった。それに、切除術は100%優れているが切除後のケアは患者の負担が大きい。切除後の排尿トラブルで何人も再入院していることは入院中のカーテン越しに聞こえて来た。その度に更に入院治療が必要になるのは御免だ。

 猿渡吾郎は、自分一人でケアが出来なくなった時、周囲へ負担を掛けることは死よりも耐え難いことだと考えていた。それよりは緩和治療で癌を受け入れた人生を送りたい。痛みを抑えられるものなら緩和ケアで癌と共に人生を終わりたい…そして最期は薬の効かなくなった体で激痛に耐えて死に至る…そう心に決めていた。


 何度目かの検査で、ついに癌がリンパに転移したことが分かった。脊髄の腰の部分に転移した癌はひっそりと現れていた。担当医には、このままだと余命一年位だろうと言われた。転移が起こった以上、膀胱切除が無意味になった瞬間だった。切除後に転移があれば、取り返しの付かない大後悔したろうなと自分の選択に納得していた。そして、一年経てば人生を卒業できることに安堵を覚えた。やり残したことを思えば、妻を幸せにできなかったことだ。

 猿渡吾郎は妻を幸せにすることだけに残りの人生を掛けようと思った。しかし、その矢先に小脳梗塞で倒れ、救急車で搬送された。その時、初めて生に執着した。妻への罪滅ぼしがまだである。このまま死にたくはないと強く思った。幸運にも倒れた翌日には裂けた血管が修復され、そこから急速な回復を遂げることが出来た。それだけに頂いた命は天命であり、その使い方は妻の幸せのためだけに使おうとする猿渡吾郎の決意が一層固まった。


 小脳梗塞から退院し、妻のための余命一年が始まった。担当医は抗癌治療や免疫治療をすすめてきた。しかし、猿渡吾郎は最悪の事態になった場合の緩和ケアしか受け入れなかった。妻の繭子まゆこも、元看護師だった娘のあいも仕方なく尊重する姿勢を取るしかなかった。

 一ヶ月程すると、猿渡吾郎は腰の凝りが次第にひどくなり、時として尿管結石のような激痛が走るようになっていた。ある夜、激痛が止まらなくなり、ついに担当医のもとに駆け込んだ。診断結果は、膀胱内の尿管の出口を増殖した癌が覆って尿管が詰ったことで、尿管結石のような症状の激痛が走っていたのだ。転移したリンパの癌も若干大きくなっていた。取り敢えず、増殖した癌を取り除く緊急手術で入院することになった。


 娘の藍が動いた。夫を頑なに尊重していた母に、担当医に本音を訴えるよう檄を飛ばしたのである。看護師をしていた藍は当初から抗癌治療を薦めていたが、緩和ケアで人生を全うしたいという父の希望を仕方なく理解してくれていた。妻も理解してくれていたと猿渡吾郎は思ってたが、痛みに七転八倒する夫の姿を見て、担当医には本音を語るしかなかった。

 猿渡吾郎は術後の麻酔の覚めたベッドでひとり考えていた。妻のために余命を全うしようにも、この様ではどうにもならない。娘からのメールで分かった。術後に妻と娘は担当医と話し、抗癌治療の希望を訴えたようだ。妻のために生きようと決心したのなら、妻の希望に応えるべきなのだ。この際、悲しむ妻を前に自分の生きる美学など何の意味も持たないことに気付いた。妻が望むことをするべきなのだ。

 術後の回復に続いて、入院を継続し、抗癌治療を開始することになった。抗癌治療の結果に於いて、入退院の繰り返しを意味するメンテナンス治療は、猿渡吾郎に新たな心配を提起した。今後暫く、少なくとも月の三分の一が病院の可能性が高い。老いた夫婦にとって、会話が途絶えることはかなりのリスクになる。それは妻の姉が示していた。義姉は度重なる骨折で二回の長期入院を余儀なくされた。完治して普通に退院し、元の生活に戻ることを誰もが疑わなかった。しかし、義姉は入院中に最も多いとされるアルツハイマー型認知症を発症していた。退院後、あっと言う間に症状が進み、日常を取り戻せなくなった。安全のために施設に入れるしかなくなった。しかし、症状は止まらず、数年のうちに完全に認知機能を失い、“みとり” 段階に入った。そして間もなく他界。しっかりした義姉だった。老後の備えも二重三重に準備していた。しかし、冷酷にも認知症はそうした備えを悉く無駄にした。全ては入院中の油断にあったのだ。一人にすべきではなかった。常に面会に訪れ、少しでも会話の時間を持って脳を休ませるべきではなかったのだ。

 猿渡吾郎は自分が入院して初めて知った。カーテンに囲まれたベッドは静寂で脳を思考停止させる。余程外交的な性格でない限り、打ち明け難い負の悩みを抱えた患者同士の交流はない。毎朝の医師の回診と看護時の看護師との会話だけである。ナースコールは非常時のためにしか押せない。尤も、寂しくて押す患者もいるようだが、律儀な義姉はつらくても我慢する性格だ。知らない第三者と率先して会話するような人でもない。そうした高齢者を会話や自己管理の継続し難い空間に置くのは極めて危険である。時の経過とともに認知症の囁きが近付いて来る恐ろしい空間なのだ。こうした予知できない危機感は治療の範囲を越えた医師にも看護師にも分からない。患者のみが自力で何とか乗り越えなければならない試練なのである。猿渡吾郎は読書と執筆で凌ぎ、妻にはメールで頻繁に接触を図り、コロナ禍で面会叶わぬものの、時には届け物で病院に足を運ばせた。


 初めての入院から何回入退院を繰り返したろう。日勤夜勤の交替で看護師たちの名前をほぼ記憶する頃、患者力はどれだけ身に付いたのだろう。

 “患者さま” と表現する病院もあるが、患者はお客様ではない。病気の原因は患者であり、現実的には “さま” を付けられる立場にない。治療に関して掛かる費用を負担していることで何とか対等の立場となるが、そのラインを越えた病院側の好意的な対応はどうすれば得られるのだろう。

 治療の負担を除けば、患者に寄り添うのは医師と看護師だけではない。臨床検査技師、薬剤師、栄養士などを始めとする病院スタッフ全ての存在を忘れてはならない。疑問や不安は医師や看護師だけではなく、適材適所に相談することが賢明であり、そこには的を射た適切なアドバイスがある。病院スタッフの黙認、不親切、不案内を恨む必要はない。能力のないスタッフは心の中で切り捨てることがその後の入院生活の快適さに繋がる。自分のためになるスタッフを早く把握することだ。殆どのスタッフは患者の不安には真摯に対応する。それが仕事だからだ。スタッフとの接点は “患者の弱さ” に対して最も機能するようになっている。しかし、甘えてはならない。個人的な愚痴や不満は自虐行為そのものであり、彼らに必要なのは “現在の体感的病状の情報” なのだ。そこに機能しないスタッフは患者にとっては居ないも同然と割り切るのが一番自分を守る。


 白いカーテンに囲まれた入院生活で避けられないのは相部屋での患者のいびきである。日中眠っている患者のいびきも然ることながら、特に夜のいびきに悩まされることは避けられない。

 相部屋患者のいびきへの正しい対処法に対する病院の薦めの多くは、ナースコールを押して看護師を呼んでくださいだが、看護師が来てもいびきが止まるのはその時だけで、再開したいびきの度にナースコールを押して対処してもらうことは、患者の立場からすれば非現実的である。ナースコールのたびに呼ばれる看護師には、いびき患者ではなくいびきの被害患者の印象が悪くなろう。

 現実に聞いた話だが、深夜、忍耐も限度に達した患者のいびきに対し、読書をすることで対応した患者が、手元の灯りを点けたことで、看護師に他の患者の迷惑になると咎がめられ、睡眠薬の経口を薦められたという。日頃から看護で世話になり信頼を寄せている看護師が睡眠薬の経口を進めて来たのである。患者はその “提案” に従うしかないないのか…それは実は恐ろしいことなのである。いびき被害患者に睡眠障害はなく、担当医からも処方を受けていない。睡眠導入剤の類は一度使用すると常習化の恐れもある。加害者のいびきは黙認され、被害患者が必要もない睡眠薬を飲まされて強引に眠らされるというのは冷静に考えればホラーである。いびき患者は言わば加害者である。結局、いびき被害者である賢明且つ奥ゆかしき患者は、看護師の指示に従い、薬は経口しないまでも、ナースコールを押すことを遠慮し、読書をやめて灯りを消し、苛立ちで眠れぬ忍耐の一夜を明かすことになろう。


 猿渡吾郎ならどうしたろう。灯りを咎められた時点で “迷惑を掛けた患者さんに直接謝りたいので” という理由で、実際に他患者からクレームが出ているか看護師に確かめるだろう。恐らく、他患者がいびきではなく、灯りにクレームを付けたというのは考え難い。恐らく、いびきで他患者も眠れない夜を過ごしている可能性が高く、看護師が他患者への謝罪を断った時点でその矛盾はすぐに分かるだろう。更に、翌日になったら看護師長に昨夜の顛末を話し、正しい対処法を “相談” するだろう。

 後日談で聞いたことだが、看護師長は部下が睡眠薬を提案したいびきの被害患者に謝罪している。同時に、看護師の睡眠薬に対する認識を危険と見做し、全看護師に睡眠薬に対する正しい再認識を促している。もしそうでなかったら、その病院は危険と判断し、即刻退院すべきであろう。


 しかしながら、いびきは相部屋に於ける解決し難い問題であることを認識しておかなければならない。相部屋の宿命とも言える。残念ながら、殆どの場合、いびきは起床時まで続く。その上、いびき患者は入院期間中、毎晩かく。それはいびき患者が退院するまで覚悟するしかない。

 猿渡吾郎のいびき対処法は、眠ることを諦め、読書かイヤホンでの音楽鑑賞でいびきが治まるのを待つ。朝まで治まらなければ、翌日出来るだけ昼間に睡眠を取る努力をする。夜は読書タイムであり、音楽鑑賞の時間だと割り切る。灯りで看護師に咎められたら、いびきを静かにしてくれたらすぐに寝ますと答えればいい。閉鎖空間に於いて、適切に対処している自分に自信を持つことは大切だ。間違ったことをしていないのだから毅然としていればいい。このケースでは、看護師同士での傷の舐め合いはしない筈だ。そういう意味で猿渡吾郎は、病院看護師の裏事情を知る娘のお陰で快適な入院生活を送れていた。


 患者は “病院の常識” に感化されないよう気を付けなければならない。“病院の常識” は時に世の非常識である場合もある。病院側の対応は、疑問を呈した患者に対して以後慎重になる。それは寧ろメリットとなる。仮にクレームとなれば社会を超特急で駆け巡る。病院の信用に関わることに関しては殊の外注意せざるを得ない。睡眠薬の一件は弁解の余地の無い一部看護師の悪意無き悪習であろう。患者の指摘は寧ろ有難い行為と捉えねばならないはずだ。

 一方で、患者は細かな不満には目を瞑ることも肝要である。多少の不便は患者自身が対処していくことで患者力が上がり、創意工夫の分、入院生活が快適に成り得る。病院はホテルではなく、病気を治す所だ。自分の病気に対する知識は自分自身を知ることでもある。健康に暮らしていた社会生活では顧みることのなかった己というものがあからさまになる。入院は、生き方の軌道修正をする絶好の場所であることもメリットなのだ。


 閉所恐怖症の人には耐えられない白いカーテンに隔絶された病室。新型コロナウイルスの蔓延によって、面会が禁止となったことで一層の孤立感が患者を襲う事態になっている。患者が病室で静かにしている風景は医師や看護師には極平和な風景だが、コロナ騒動後、面会禁止となった昨今の入院は患者にとってストレスだけではなく、特に高齢者にとっては認知症発症のリスクすらある。その危機意識を医師や看護師に訴えたところで、退院するしか解決の手立てはない。従って「早く病気を治しましょうね」と励ますのが関の山であろう。その解決に繋がりそうもない漠然とした対応に不満を持つ患者も的外れである。そもそも、入院が必要となるような病気に罹らなければよかったのだ。誰にも責任転嫁の出来ない自己責任なのである。先天性や遺伝が元で入院を余儀なくされた人は気の毒であるが、それも医師や看護師には何の責任もない。体が思うままにならないことを八つ当たりする対象ではない。況してや、自堕落で病に至った患者は白いカーテンの中で今までの生き方をとっくりと反省すべき時間である。病の苦痛は、そうした過去への天罰なのだ。天罰を受け入れるためには病院スタッフの協力が絶対に必要だ。結局、一刻も早く己を守る患者力を身に付けて、病気に対して正面から対峙するしか退院最短の手立てはないのである。自己管理のおぼつかない高齢者にとっては厳しい試練の入院となる。


 患者が夢を抱き続けることは必要だ。回復したらあれをしたい、これをしたいと思い描く。しかし、現実問題として病気は完治しない。治ったかに見えても、元のライフスタイルに戻せば、また同じ病気が復活し易い体なのだ。悪化させれば更に別の症状も併発する可能性が高くなる。退院は、症状が辛うじて日常生活に耐え得る状態になったということで、完治ではない。従って、退院後の過ごし方は入院中にしっかり自覚しておかなければならない。基本的に食生活の改善と睡眠サイクルのキープが必須となるが、実際にはかなり高いハードルとなろう。


 患者として “慣れて” 来ると、病院食の存在をピックアップできるようになる。前期高齢者となった猿渡吾郎を救ったのは、料理が得意という事だ。老いてから慣れない料理や家事をすることは並大抵の努力でも難しい。猿渡吾郎は、幼い頃から病気がちな母を看る機会が多く、お陰で家事一切をすることが普通になっていた。

 一日三度の病院食は退院後の食生活の知恵が満載で、猿渡吾郎の脳はフル回転だった。病院食はまずいというが、よく見ると実に学ぶべきことがある。最初の頃は刻み方が細か過ぎると思っていた。少し回復して来ると、味の薄さにも閉口する。しかし、そうしたメニューにはわけがあることに気付く。素材が細かいのは消化のためである。よく噛めない人でも問題はない。噛む習慣のある人は、早く甘みや食材の味に到達し、唾液の効果にも気付く。味わいたければ噛むしかない。退院後の健康をキープしたければ病院食に倣うしかない。食生活が治療並みに重要であることは納得し難いが、事実である。ライフスタイル、特に食生活を元へ戻せば、近い将来、再入院も有り得る。

 猿渡吾郎は、入院のたびに毎食のメニューを得意のデッサンで記録して気付いた。幼い頃、母を看ていた頃のメニューに似ていた。あの頃は、母に言われるままに御三どんをしていたが、回復のためのメニューだった。猿渡吾郎が料理を始めたのは、所謂、介護食だったわけだ。


 入退院を繰り返している “ベテラン” 患者は、入院中はまだいいことを知っている。万が一の場合は医師も看護師もいる。通院はそうはいかない。家族が手厚く心配してくれるのは退院後のほんの少しの期間だけであろう。その後はひとりで全てに対応していかなければならない。不自由に慣れ克服するしかないのだ。一分一秒に自己管理能力が問われる。一瞬の隙を突かれた時、誰が助けてくれるのか…家族はいざとなっても素人である。人一倍心配できても、病気の豹変には無力である。そこで患者は自分の命を守る日頃からの備えが必須となる。多くの入院経験者は常に健康保険証や診察券、身分証明書を携帯するようになろう。特に高齢であればいつどこで倒れるかの警戒は消えない。自己管理は倒れてから意識のある数分間の勝負になることもあろう。救急車で運ばれると最初に身分証明がなされる。意識がなく付き添いも無い場合、携帯している物がその後の助けの全てとなる。


 猿渡吾郎は、恐らくこれが最後の入院に成り得る退院の日を迎えた。明日からは日常のサポートが己自身のみになる。入院中に学んだか学ばなかったかが試される。賢い入院経験者なら理解出来ているはずだ。高齢者の散歩が “老後を健康に生きるため” に欠く事の出来ないルーティンなのだ。病院が術後の患者を早期に歩かせるようになって久しい。猿渡吾郎は信じ難い経験をした。それは、高齢になった自分が、術後に “歩き方” を忘れた感覚に陥ったことだ。術後立ち上がったはいいが、一歩踏み出すことを躊躇した。歩き方を思い出せなかったのだ。

 術後、看護師の指示に従って院内の廊下を毎日努力して歩いた患者と助言を聞き流した患者は、入院日数が経過するに連れて回復度に数段の差が出る。看護師の助言は実はとても重要な言葉だったと認識することになる。歩くことで体の様々な機能が正常化を早める。今後の生活に於いて、散歩をした場合としなかった場合の体調の差は、高齢になって体験する未知との遭遇の一つでもあることは容易に想像できた。特に散歩のお陰で誘発されるお通じが健康の要であることを入院中に学んでいる。隣から聞こえて来る何気ない会話の愚かさに気付いた。“お酒はいつごろから飲めるでしょうか?” “退院したらタバコは吸っても大丈夫でしょうか?” という馬鹿な質問に、医師は “なぜ入院しなければならなくなったと思ってるんですか?” と言いたい気持ちをグッと堪えて聞き流しているはずだ。一度病んだ体は元には戻らない。生活を元どおりに戻すのであれば、再入院を覚悟しなければならないのは分かっているはずだが分かりたくないのだろう。退院後は、郵便局の昼休業の如きクソのような怠け者の働き方改革ではなく、命に係わる “生き方改革” が求められるのだ。退院後は新しい生き方の工夫が必須となる。しかし、そのことを敢えて認識する患者は極少だ ろう。


 猿渡吾郎のメンテナンス治療は、入院抗癌治療から定期的な外来免疫治療になった。体が病など知らぬ頃は、夢を追い、実現したり破れたり、悲痛な体の叫びを無視して、ただ只管波乱万丈の人生を送って生きる喜びの感覚を味わったことはなかった。しかし、死と背中合わせの毎日となった今、やらなければ死ねないと決心する目標に気付き、やっと生きた心地がしている。真に生きる意味を掴んでいる。これ程充実した幸せな気持ちになったことはなかった。いつ果てるかは分からないが、少なくとも前を向いた状態で死ねることが無償の喜びであり、老いの試練を受けて、まともな患者になれたことが嬉しかった。

 猿渡吾郎には迷いも恐れもなくなった。自分の人生に於いて最優先するは妻の繭子である。もう一つの計画を除けば・・・


( 完 )

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