第41話 心の回廊 (4)


かおるは、目の前に座るカリンの夫にいつもながらの美しい切れ長の目を厳しくしながら見つめていた。


「葉月さん、どのようなご用件でしょう」


二人以外には誰もいない。セキュリティがレストランの四方の角に立ち窓の外を見ている。ウエイターとウエイトレスは呼ばれるまで入口の側に立っていた。“じっ”とかおるの顔を見る彼はゆっくりと口を開いた。


「三井さん、何か飲みませんか。喉が渇きました」

あきらかに何か、腹の中にあることが分ると“ふっ”と笑って

「では、アペリティーフを」

そう言って、目元を少しだけ緩めた。


“その目でいてくれたらもっと話もしやすいのに”そう思いながら顔はかおるに向けたまま、右手を少しだけ上げた。


シェリー酒を口にしながら優は

「今度のドバイのJV、もう少し歩み寄れませんか」


かおるは心の中で失望した。“相手に時間を合わせるとまで言ったのにこんな話か”


「それは、そちらも同様です。今度のJVはそちらの要件と十分にすり合わせた結果です」

「そうですか」


そう言うと彼は少しだけ寂しそうな目をした。“どういうつもりだ。この男”そう思うと

彼の口元が開いた。


「三井さん、場所を変えませんか」

心の中で“えっ”と思うと心の中のそこにあるそれが少しだけ揺らいだ。


「僕は、このジャックダニエルのかおりが好きでバーボンと言えばこれです」


かおるは何を言っているのか理解できなかった。四階にあるレストランで“アペリティーフ”しか飲まないうちに最上階のバーに連れてこられた。そして仕事の話など無かった事のように酒の話を始めた。


“人の空腹につけこんで酒を飲ませるとは”そう思いながら彼の顔を見た。


「葉月さん、酒の話ならカリン、いえあなたの妻とすればよいでしょう。話が無いのなら私は帰ります」


そう言って、席を立とうとしたかおるの右腕をいきなり掴んだ。

「待って下さい。三井さん、いえ、かおるさん」


そう言って、かおるの顔を優しい顔で見た。かおるは、一瞬心の底にあるものが大きく揺らいだ。


かおるの目の視線を外さないように見ながら彼は

「教えてください」


その後の言葉は、かおるにとって絶対に緩めてはいけない“心の底にあるそれ”の自戒の糸の束がほぐれてしまうものだった。


“どこからだろう。この男に心が揺れ始めたのは”そう思いながら“絶対に許されない”と自分自身が戒律のように考えたことが、いとも簡単に崩れていくのが分った。


既に、夫の拓との間に生まれた“あおい”は一二歳。自分自身は既に四二歳。今更であった。


心の限界の中で

「葉月さん、今日は帰らせて頂きます」

どうしようもない“心の揺れ”を相手に見透かされていると分かりながら、その一線を越えてはいけない気持ち。


“小さい頃から自分の心の本当に大切な友達”を裏切る事は、かおるには出来なかった

美しい切れ長の目にほんの少し潤いを浮かべながら席を立つと走り去るようにかおるは入口に歩いた。


悔しかった。決して人には見せない心の底を踏み込まれたような気がした。それも絶対見せたくない相手に。かおるは、帰りの車の中でただ下を向いていた。

手から涙が零れ落ちていた。“なぜ、自分だけが”そう思うと止まらなかった。初めて、生まれて初めて心の揺らぎに流されていた。


彼は、窓の外を見ながらずっと座っていた。かおるが帰ってからどの位経ったのか分らなかった。ただ自分の心の中で“してはいけない裏切りの芽”を始めて感じた時だった。


元花、玲子たち、それは時間の流れの中で必然的なことだったのかもしれない。

しかし、今はあきらかに自分の”大切にする。恋人にする“と言った人への裏切りを心に感じたことだった。深く心に突き刺さるように。


優はどうしようもない心の揺らぎのままに家に帰った。車を降り、玄関着くと靴を脱いで上がった。振返ると母親が居た。自分を“ずっ”と見ていた。もう七〇を過ぎ車椅子の母親は、“おい”を十分に感じさせていた。ただ目だけは若き日に自分を厳しく見た“その時”と同じだった。そして


「優、あなたが守れないのなら私は先に逝きます。もう私はあなたを守れない」


そう言って寂しそうな目をすると、手伝いに車椅子を押させながら夫と共にする部屋に去っていった。


言葉が出なかった。“自分の性”が鎖のように体に絡みついた。玄関の音に気がついたカリンは、廊下を歩いてくると夫の崩れた姿を見た。

「どうしたの、あなた。会社で何かあったの」

そう言って心配そうに見る自分の妻の姿に、優はただ膝が落ちるだけだった。


カリンは、子供たち、優一と花音が小学校、中学校、高校、大学と過していく中で色々な流れを経験した。

優の父親が他界し、それを追うように母親が他界した。そして中学時代から“本当にこころの中の大切な友達”だったかおるが他界した。

かおるは亡くなる一ヶ月前、カリンだけを呼んでベッドの上で語った。

「カリン、ごめんなさい。言わなくても分るわよね。あなたなら。でもカリン、決してなにも無かったから」


ベッドの上で涙を溢しながら、かおるはカリンに

「カリン、自分の都合ばかりでごめん。あおいは、もう三二才、私と同じで男にめぐれないみたい。カリン、後見人になってほしい。あなたなら安心して任せる事が出来る。カリン最後のお願い」

そう言って、カリンの手を強く握りながら言葉を区切った。


「かおる」

カリンは、かおるが亡くなると心の中で支えになっていた何かが“崩れ落ちる”のを感じた。立ち上がれないほどに。そして一ヶ月間の喪に服した。


「自分の座る席が怖くて動けなかった女の子はどこにいったのかしら」

「かおるも同じでしょ。周りを知らなくて私ばかり見てたくせに」

そう言って楽しく話をした表参道は過去に過ぎ去って行った。


自分の夫に体許したとはいえ、大切な友達を失うことは出来ずその後も楽しく会話をした玲子も逝った。

カリンは、心の中にいつの間にか大きくなった“風の回廊”が強く吹きすさぶのを感じた。


「だめーっ、だめーっ、あなた、優、逝かないで、だめーっ」

カリンは、彼の体に覆いかぶさりながら“黄泉の国”へ逝こうとしている彼に訴えた。


彼を始めて知ったダイナース・オリンピアの廊下、彼に始めて体を許したグリーンヒル、そして気がついた時からそばにいた、かおる。全てが走馬灯のように流れていった。

やがて、カリンは、全く動かない彼の体から少しだけ離れると今度は優しく彼の体を覆うように自分の体を重ねた。


三年前にかおるが亡くなった。心臓発作だった。若き日に“美しさをほしいままに自分のもの”とし、絶大な家の権力と幼い頃から教えられた“帝王学”を身に着けた、かおるが死んだ。カリンは一ヶ月の喪に服し、一切の華麗を自分自身が律した。


そして今、“自分自身は彼のもの”と思い、“自分を大切にしてくれる。恋人にしてくれるって”そう言った彼がこの世を去った。


既に大きくなり父親の事業を受け継いだ優一は、祖父と父に似ず女の事は、しっかりとしていた。初めて紹介された女性は、美しく身元もしっかりしていたが、所作がどうしようも無かった。

次に連れてきた女性は、顔はごく普通だった。ただ、親のしつけが厳しかったのだろう。見るところがあったが、やはりカリンの目には留まらなかった。そしてやっと三人目の女性がカリンの目に留まった。

“さわやかな雰囲気”を持ちながらしっかりと芯のある目に“やっと連れてきた”という思いが有った。

その女性は、いま優一の妻としてカリンと共に葉月家を守っている。


花音は、“目が高い”らしく、三〇を過ぎても一人すら連れてこなかったが、かおるの目に留まった男を合わせると“するする”とお互いが接した。

後は時間の問題のごとく解決した。いまカリンは優一と花音の子供と一緒にかつて自分が彼と一緒に過ごした葉月家の二階の西側の部屋に居た。ここがカリンに取って何よりも心地よかった。彼と一緒に白ワインを飲みながらバルコニーで見た、箱根、丹沢、高尾山系の山々が綺麗に見えていた。


「もう、誰もいない、玲子は、かおるが亡くなった翌年に亡くなった。そして今、優が逝った」

白いものがずいぶん目立つ髪の毛を優しく触りながら自分の時を過ごしていた。


カリンは夢を見た。かおるや玲子そして優が優しく微笑みながら自分の側に来た。そして彼が

「カリン、行こう」

そう言って自分の手を引いた。

「優」


「おばあちゃま」

声を掛けても目を覚まさない祖母に不思議そうな顔をして花音の下の息子が自分の母親を呼びに行くと花音は

「また、昼寝をしているのでしょう」

そう言って二階に上がり部屋に入ると母の寝顔を見てひざを落とした。


動かなくなったカリンの様子に家族が、気がついたのはほんの少し経ってからだった。人間が見てはいけない、見ることの出来ない何かが目の前で“ふっ”と揺らいだ。


「優、どうしたの」

なにも言葉を話さない夫を見ながらカリンは、目の前にいる優に手を伸ばした。

手を伸ばしても手を伸ばしても、いくら手を伸ばしても届かない。

「優」

声を出そうとして、いきなり体が遠くに引き戻された。

カリンは“夢か”と思いながら、まだ少し違和感を感じていた。どこかで耳の中に入って来る“音”がある。


“おばあちゃま”


「“だれ”、私の頭に入ってくる“音”は」


自分の頭の中に入って来る“なにか”を感じながら“ゆっくり”と目を開けると

「お母様、お疲れなのですね。でも、もう少し私たちの側にいて下さい。お父様にもお願いしておきます」

目の前に映る娘の花音の少し“やつれた顔”にほんの少し目元を緩ますとまた、眠りについた。


“あなた、優”


“カリン、花音がもう少しいてくれと言っている。カリンがそばにいてほしい。でも仕方ないのかな”


“優”

心の中に言葉を感じながらまた、ゆっくりと目を開けた。

「花音」

「目を開けたのですね」

「お母さん、僕もいます」

いつもの息子の言葉に段々頭がはっきりしてくると

「優一も」

目元を緩ませながら目を回りに動かすと優一の妻と子供、花音の夫と子供が心配そうな目で見ていた。


体を起こそうとすると左側頭葉に激痛が走った。つい左手で押さえると

「お母様、無理をしないで。ゆっくりと」

そう言ってカリンの背中を支えながら花音は、

「私たちの側にもう少しいて下さい」

そう言って、自分の頬をカリンの頬に寄せた。


窓の外に見える景色を見ながら、この駒沢公園の側にある病院のこの部屋に“これで何回目だろう”と思いながら


“優がこの窓を開けようとして、私がそれを飛び降りようとしたと間違えたあの時”を思い出すと少し笑いがこぼれた。


「お母様。いかがなされたのですか」

「花音」

言いながら、

「ここの窓に見える景色がなかったら、優一も花音もいなかったのよ」

そう言うとまた窓の外に見える景色を見た。


“優、ごめんね。もう少しこちらにいる”心の中でそう思いながら目元が緩んだ。


カリン、もう少し僕と一緒に。

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彼と彼女 @kanako_01

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