第40話 心の回廊 (3)


「お母様、今日、お父様に良く似た人と会いました」

リビングで紅茶を飲みながら体を休めていたカリンは、娘、花音の言葉に驚いた。


「どこで」

「表参道。ミコトと一緒に竹下通りを歩いていると、駅の方からどこかで見た顔だなあと思った人が歩いてきました。お父様とよく似ているの。でもまだお兄様と同じか少し上くらいだった。一六位かな」


カリンは、手に持つティーカップを落としそうになった。頭に浮ぶのは一つだけだ。

“裕一”


カリンは冷静を装って、

「そう、その子は一人だった」

「ううん、とっても綺麗な人と一緒。お母様も素敵だけど負けないくらい。でも私はお母様の方が好き」


そう言って、甘えた声を出しながら“すすっ”と寄ってくる花音に

「花音はそう言って、またお母さんから何かねだる気だろ」

「ふん、お兄様には関係ないことです」

「お母さん、だまされてはいけないよ。また花音のいつもの手だから」

カリンは子供たちの会話に目元がほころぶと

「優一も花音ももう寝る時間です」

「えーっ」

という長男に妹の方は

「はーい」

と言ってさっさと自分の部屋に引き上げて行った。


優の父が引退し、母親は体を悪くすると葉月家の一階の少し大きめの部屋に二人で居る事になった。カリンと優は、

「それでは困るのでは」

と言ったが

「年と共に夫と一緒に居たい」

というお母さんの言葉に父親の方は苦笑すると“しかたない”という顔をした。


優は執務室を父から譲り受けると共に、夫と妻は別々の部屋を取るのが葉月家の決まりだったが、彼とカリンは二人の部屋は、一つということで今まで父と母の部屋の壁を壊して一部屋にした。三〇畳は少し広すぎる気も有ったが、二人とも“まあ”という感じで今になった。


そこで空いた二階の部屋を優一と花音は一つずつもらうことになった。今まで子供部屋だった一五畳の部屋は優一に、カリンと優の部屋だった二〇畳の部屋は花音になった。

兄より妹の方が広い部屋を取るのは至極当然だった。兄がじゃんけんを申し出たが、簡単に一方的に花音が勝った。でも花音は出窓とバルコニーから見える箱根、丹沢、富士山そして高尾の山系が一望に見渡せる西側の部屋がとても気に入っていた。


子供たちの言葉に少し不安を感じながらあの時の事を思い出していた。

「葉月さん、私たちは葉月家のおかげで生きる事が出来ています。そのご恩は忘れません。しかし、もう、もう、ゆ・、兄との事は昔の話です。静かにして頂ければ決して私は葉月家を裏切りません」


そう言って強い目をしながら少しだけ目元に涙が出ていた。カリンは、あの涙が葉月家に対する恨みなのか、優への“残り火”なのか、分らなかった。ただカリンはその目を見ると容赦ない厳しい目で

「秋山さん、その言葉を忘れないで下さい」

そう言って更に元花の目を射抜くように見た。


元花は、その目を見た時、あの“さわやかで春風が吹くようなかよわいに女の子”がここまで変わった理由を読み切れなった。ただ、“自分の知らない世界で生きる女性”そう思うと

「葉月さん、もうお会いする事はないでしょう」

そう言って椅子を引いて立つとレストランの入口へ向った。カリンは、窓の外に見える自分の夫のビルの方に目をやった。


一〇日間のUS出張を終えて帰って来た彼は、

「カリン、何か変わったことあった」

夫の着替えの手伝いをするカリンに

「いいえ、なにも。でも花音がまた洋服をねだるようなそぶりを見せて優一がクレームを付けていました」

「そうか」

いつも子供たちの会話に“何も無かったのだ”と分ると目元を少しほころばせた。

カリンは、いつの間にか夫への秘密を持ってしまった。しかしその秘密は夫には知られてはならない事だった。カリンは“これでいい”そう思いながら夫の着替えを手伝っていた。


「カリン」

「えっ」

10日ぶりに夫に抱かれながら心地よさに浸っていたカリンはいきなりの彼の声に少し気が戻った。もうカリンも女ざかりだった。

「なんですか、あなた」

「うん、いいや後で」

そう言うと彼にしか見せたことの無いところへ彼の唇が近づいた。

夫の腕の中で、始めて彼の腕の中に居たような気分になりながら“たった一〇日でも優が居ないのはきびしいな”そう思いながら彼の胸に顔を付けながら目をつむっていると

「かおるさんと今度ビジネスをすることになりそうだ。三井と葉月家がジョイントする。たぶん受注額でも二千億は下らないプロジェクト。でもまだ営業ベースだ。実現するかもわからない。しかし、この両家が組んで落とせないプロジェクトはない」


自信ありげにそこまで言うと

「カリン、教えてほしい。あの人は何故あそこまで僕に厳しい目を向ける。僕はあの人に何もしていない」

カリンは、“本当に知らないのだろうか”と思った。女の直感というものが有る。“かおるは間違いなく優のことが好き”そう思うと仕事の話に心が揺れた。


“かおるは、私の夫だから何もしない。それだけ”そう思うと、少し悲しくなった。

「優、がんばりなさい。応援している」

そう言って、彼の胸に甘えるように顔を埋めると少しだけ“心の回廊”に風が吹いたような気がした。忘れていた“心の回廊”が出来たような気がした。


「カリン、明日は、三井家とのジョイントプロジェクトがいよいよスタートする。葉月コンツェルンとして、トッププライオリティの仕事の一つだ。ドバイは少し遠いが、あそこはビジネスチャンスの宝庫だ。また、家を開ける事が多くなる」

そう言って妻の顔を見ながら久々に夕食を家族と一緒に取る優の顔は、いつの間にかトップに立つ顔になっていた。


「社長、本日のスケジュールですが、九時にUFA銀行からの上半期の報告があります。一〇時からは、葉月不動産と葉月建設よりドバイプロジェクトの報告があります。その後・・」

そこまで秘書筆頭の北川が言うと言葉を切るように

「三井との話は、どうなっている」

「はっ、その報告でも議題に上がると思いますが、JVでの契約上の課題が何点かあり、社長のご判断を仰ぎたいと報告が入っています」

「そうか」

そう言うとまた、北川は、スケジュールの報告を始めた。その報告が終わると彼は、

「三井の総帥に食事のアポイント入れてくれ。向こうの都合に合わせていい」

「はっ」

そう言うと社長の意図が分らない顔をした。


「総帥、葉月社長からお会いしたいと連絡が入っています」

執務室で書類に目を通していたかおるは、その報告を聞くと“あの男が私に”いつもは、JVの統合会議の時ぐらいしか会わない“カリンの夫”に少なくない心の揺れを感じながら

「いつだ」

「ご都合に合わせると」

“どういうつもりだ、葉月コンツェルンのトップともあろう人間が、人の都合に合わせるなど聞いた事がない”そう思うと

「分った。今日のスケジュールの後に入れてくれ」

「分りました。その様に致します」


執務室から出て行く筆頭秘書の後姿を見ながら“あの男何を考えている”そう思いながら階下に広がる丸の内のビル群を見つめていた。


優は、皇居の前にある自分のグループ傘下にあるホテルをあえて選んだ。“ここであればセキュリティ上問題ない。その上三井側のセキュリティも勝手知っているところだ。一々事前調査はしなくて済むだろう”執務室で書類に目を通しながら前社長である自分の父親の写真を見ていた。


歴代の葉月家の社長の写真が並んでいる執務室で歴代より厳しい目で見られている様な気がした。“何事にも繊細にそして大胆に。失敗は許されない”と言っているような気がした。

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