第39話 心の回廊 (2)
「はい、葉月でございます」
電話をかけてきた相手は、少し無言だった。カリンは、誰だろうと思うともう一度
「もしもし、どなたでございますか」
「秋山元花です」
一瞬電話の子機を落としそうになった。少し考えた後、
「秋山さん、どの様なご用件でしょう」
身構えながら言うと
「母が亡くなりました。葉月家からお預かりしていた、母のカードをお返し致します」
カリンは、頭を巡らせながら
「解りました」
そう言うと受け取りの手順を指示した。
優が戻っても元花の事は、話さなかった。今更“どうの”とは思わないが、自分の夫の女癖の悪を思うと変にきっかけを作りたくなかった。
例え兄と妹だとしても・・・。
“それに彼にはもう関係ない事だ。私が会えば良い”そう思うときっかけを作った自分の夫の後ろ姿を見つめた。
「カリン、明日からUSへ一〇日間の出張だ。今回はシカゴのダイナースに三日間滞在した後、ジョージアのバックヘッドに三日間、そのあとシスコによって新しいビルのプロジェクトの報告を聞いて帰ってくる。少しハードだが、仕方ない」
「がんばって下さい。あなたは、葉月コンツェルンの総裁として、多くの企業を導いていく人です。その企業には多くの方達が働いています。その人達の為にもあなたは頂点に立つ人間として自覚を持ち、前に進んで頂かなければなりません」
厳しくそして優しい目で言うと
「優、無理しないで」
そう言って、彼の前に立つと背中に手を回した。“彼が居ない事は都合がいい”と思いながら何も知らない大切な夫の顔を下から見上げた。
その女性は、自分の子供とその人の子供、そして少しの親族に見守られて静かに息を引き取った。
自分の一生を“決して結ばれる事の無い、そしてずっと思い続けてきた男と可愛い娘”の為にがまんし続けた人生の最期だった。
「お母様」
涙が止まらずに、しかし決して泣き崩れずに自分の母の最期を見届けた。
自分が物心ついた時から、父親は居なく、父の財産と保険金で生きていると言っていた母。それが少し違うと知ったのは、大学に入った時だった。
自分で戸籍を取りに行った時、そこに父の名前は無かった。母の名前だけが有った。元花は何時も一生懸命自分を支え、どんなに大変な時も笑顔を絶やさず、自分のそばに居てくれた母に何も言う事が出来なかった。ただ自分の父への思いは、大きく募った。
やがて、ダイナース・オリンピアという会社に就職した。元々松戸に家の有った元花は、松戸の研究所で働く予定だったが、その美しさをかわれ本社の受付となった。
社員の憧れの的になった元花は、いつも自分目当ての男たちに愛想を尽かしながら毎日を平凡に送っていた。彼が現れるまでは。
そして彼が現れると自分の心にも理解できない感情が走った。毎日、朝挨拶しながら自分の前を通る彼に段々惹かれていった。
いつかは声を掛けようとした時、彼は最近入ったばかりの“さわやかな笑顔”の女性に心が惹かれているのが理解できた。しかし、自分の感情は抑えきれず、彼に声を掛けた。全身のエネルギーを振り絞って。
「葉月さん、今日お時間有りませんか」
そう言って結局翌日、食事に行くと、その日のうちに彼に体を許してしまった。いや、自分からそうした。それが自分の運命のように思えた。
しかし、それによって自分の人生は大きく変わった。彼の赤ちゃんが出来、母親に相手の男の名前を言うと母親は、驚きのあまり倒れそうになった。そして決してその男とは二度と会わないことを言い聞かされたが、結局その後も会えた。
彼と会えた時は、いつも体をあわせることができた。私がいつも要求した。唯一の心のよりどころだった。その後、彼の母親から“ほどこし”を受け取るように言われたが、私は拒否した。“お腹なの子は、じぶんが育てる”と言う強い思いで。
次に会ったのは初詣の時だった。切れ長の美しい目をした女性と和服姿が例えようもなく可愛い天宮花梨と一緒の彼と会った。
私は声を掛けれなかったが、彼の顔を見てしっかりと微笑んだ。気がついてくれたのがはっきり分った。
やがて子供が生まれると会社に出る前の体調管理のため、世田谷の総合運動場に行くと彼が居た。信じられなかった。
声を掛けると彼も喜んでいた。そして自分の子“裕一”を見てもらうと嬉しそうな顔につい心が弾んだ。そしてもう一度抱いてもらった。
家に帰ると母親が今まで見せた事の無い目で自分を見た。そして会社から松戸工場の転勤命令が出たことを告げた。
少し落ち着くと母は、自分のベッドルームに行き古いアルバムを持って来た。その中から一枚の写真を取り出して自分に見せた。
「お前の父親とのたった一枚の写真」
そう言ってその写真を見た時、私は体が震えた。
彼にそっくりな男の人の隣に立つ母の若い日の姿と母の腕に抱かれる自分。そして静かに言った。
「葉月優はお前のお兄さんです」
彼が自分の兄で有ると知った時、自分の心は大きく揺れた。松戸の工場に飛ばされた私は回りの目のつらさに耐えられず、ダイナース・オリンピアを退職し、子供を母に預け夜の店に出るようになった。まさかそこに兄が来るとは知らず。あの時は“自分の運命”を悟った。
彼に自分の運命を告げると、一週間位経って“葉月花梨”となった彼女が来た。
そして一言
「お姉さまとお呼びしたほうがよろしいかしら」
と言われた時、自分が彼の前から消えなければいけないことを悟った。自分の手に握られた一枚のカードと共に。
やがてその彼女はこの場に現れる。そう思うとどんな心の準備をすればよいか分らずにいた。あの時電話で指定されたホテルに行き、フロントに名前を告げるとなにも言わずに最上階あるレストランに連れてこられた。
食事時間は終わったとは言え、誰も居なかった。ただ、ウエイターとウエイトレスが、入口で立っているだけだ。
少し経つとサングラスを掛け、細いブルーのネクタイをした男が耳にイヤホーンをしながら入ってきて、レストランの中を一通り確認すると、口元にあるマイクに何か言った
。
やがて、ウエイターやウエイトレスが、深々と頭を下げるとその女性が入ってきた。
その女性を見た時、息を飲んだ。二〇年近く前に見たあの“さわやかな愛くるしい顔の女性”が、大人としての美しさを見につけ、上流階級の女性として人目で分る身のこなしをしながら入ってきた。
“自分とは全く違う世界に住む人”そんな思いが心に芽生えた。
そして本当ならば、義理の妹になるはずの女性。
レストランの入口に“お付の者”が二人立っていることを確認するとレストランの中にゆっくり入った。
三井の系列が経営するホテルを、かおるに理由を言ってレストランを押さえてもらった。
中に入ると人目で分った。年はもう四〇に近いはず。少しやつれて見えるのは自分の母が他界した事によるものだろう。
それを引いても有り余るほどに“美しいという言葉を自分のもの”とするに値する容姿で有った。
着ている服からしても普通の生活+@程度の生活をしていてくれていることだけはわかり“ホッ”とした。
その女性は元花の前に立つと椅子には座らずに少し微笑んで
「お久しぶりです。秋山元花さん、いえ、お姉様」
そう言って軽くお辞儀をした。元花は言葉に押された。あきらかに自分を飲み込んでいる。あの“かよわそうな女性”は、時の流れと共に大きく変化したことが理解できた。
自分も椅子から立つと
「お久しぶりです。葉月花梨さん」
そう言って少し微笑んだ。
「秋山さん、お座り下さい」
一度立った元花にもう一度座るように言うと自分も座った。
元花は、早く終わらせて子供の側に帰りたかった。ハンドバックから“始めて預かった時”のカードを元の箱に入れて丁重に出すと頭を下げながら
「本当にありがとうございました。母は逝く前に、私にこのカードと箱を寄越して“葉月家の女”となった人に必ず手渡しするようにと言われました。確かにお返ししました」
そう言って、深く頭を下げた。
カリンは、自分のグループ傘下の銀行を通して銀行から引き落としをする額をお母様から“葉月家の女”を受け継いだ時から知らされていた。
決して多くなく、そして決して少なくない額が毎月同じ日に引き出されていた。“自分の分”をしっかりと理解した女性だと感じていた。
「秋山さん、頭をお上げ下さい。確かに返して頂きました」
少しだけ時間を取って、元花が顔を上げると
「秋山さん、裕一君は、お元気ですか」
頭を上げた元花に自分が気にしていた事を聞いた。
“優の父親と秋山の母の間に生まれた元花は女性だ。特に問題はない。しかし優と元花の間に生まれた子は男の子だ。今後どの様なことが起こるとも限らない。将来に不安な芽は摘んでおく必要が有る。何も殺すという訳ではない。将来優一の邪魔にならなければ良い”そう思うと元花に聞く必要は有った。
「元気です」
少しカリンの顔を見た後、
「もうよろしいでしょうか」
そう言って立ち上がろうとした時、
「お待ち下さい」
そう言って、立ち上がろうとする元花をカリンは制止した。
カリンの顔を見ながら“なにを”という顔をして目を見つめる元花に
「お座り下さい。まだ話は終わっていません」
そう言って、自分でも少し作った笑顔をした。目の厳しさは緩めずに。
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