第38話 心の回廊 (1)
時は流れ・・・。
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かおるの結婚式から九年。既に夫の優は四一歳、かおると玲子と私と同じ三八歳。そして優一は一二歳、花音は九歳になる。
何よりもかおると拓は結婚して直ぐに子供ができた。幸いかおるに似た可愛い女の子。かおるの父親は手放しで喜んだ。母親も同じだった。
かおるが、夫に厳しい目を向けていた事を思い出すと、何となく懐かしく思った。その子“あおい”も既に八歳になる。
いくつかの問題もあった。
私は、夫の優が玲子と関係していることを知って以来、一ヶ月の間、家の敷居を跨ぐことを許さなかった。
優は、私と子供の顔を見ることも出来ないまま、会社とホテルの間を往復する毎日だったが、
優の母親が、
「花梨さん、もう優を許してあげて」
という言葉に私は“しぶしぶ”夫を家に入れた。子供ができなかったことも幸いした。
既に葉月家の女主人は私に代が移っている。
昔のことを思い出すとあの子も既に一五になっているはずだ。既に遠く過ぎ去った過去がよみがえると今更ながら肌に寒気を感じる。
“いずれ、はっきりしなければならない時がくる”
この思いは、既に大人の女として、そして”葉月家の女”として成長した私に取って避けがたい運命のように思われた。
「あなた、行ってらっしゃい」
さわやかなお嬢様から葉月家の女主人として自分の地位を自然のままに確立したカリンは、“夫の女癖の悪さ”を今更ながら厳しい目で見ていた。
優一と花音は、既に近くの小学校に通っている。優の母は七〇を向え、父も第一線を退いていて、既に葉月家は優とカリンの時代に移っていた。
「カリン、しばらく。会わない間にすっかり“葉月家の女”なったのね」
「もう、言わないでかおる。かおるだって三井の総帥として政財界で睨みをきかしているじゃない」
何年だろう。一五年前に彼のこと打ち明けた表参道は大きく様変わりしていた。かおるや私が高校生時代に有った都営住宅はすでに無く、自分たちが遊んだ竹下通りもその装いを変えていた。
ただ変わらないのは、二人の座る表参道の、テラスの回りの人の動きが遅いということだけだった。
「ふふ、かおる艶やかね。かなわいな、かおるには。彼とはうまく行っているの」
若き日に美しいまでに人を魅了した切れ長の大きな目は年を重ねても変わらず、回りの男を引き付けた。
むしろ結婚した事により一段と女の色気を出してきたかおるは、“政財界の花”となっていた。
「拓のこと、変わらないわ。今は家にいない。何でもNPOに一年参加するとか行って出かけたけど、去年プエルトリコからブラジルに行くってはがきが来てから音信不通。でも死んでたら、なんか連絡があるだろうから好きにさせている」
「えーっ、さすがというか。あおいちゃんは」
「うん、あおいは幸い母と父が目の中に入れても痛くないほどに可愛がっている。母など、まるで私の子か自分の子か分らないくらい」
そう言って嬉しそうな顔をする、かおるに
「良かったね。かおる」
と言うと昔ながらの表情で“うん”と頷いた。
「ところでカリンは。ずいぶんあの後にぎやかだったようだけど」
少し下を向いた後、顔を戻すと
「優は、“運命の神様にいたずらされている”のだと割り切った。お母様がお父様の事を色々話してくれたわ。それを聞いたら“仕方ないのかな”と思った。今心配なのは“優一がそんな血を継いでいないといいんだけど”と思っている」
「ふふ、カリンは強いわね。やっぱり。中学校の時、自分の座る席が怖くて動けなかった女の子はどこにいったのかしら」
「かおるも同じでしょ。周りを知らなくて私ばかり見てたくせに」
かおるとカリンは、何年ぶりかの幸せな時間を過ごしていた。昔と違うのは、回りに二人とも“お付の者”がいることだけだった。
「あなた、直ぐに帰って来て。お母様が」
そう言って言葉がつながらないカリンに
「どうしたんだ。緊急ということで電話に出たが、もっとゆっくり話しなさい」
「お母様が倒れました」
「なんだって」
優は、“葉月コンツェルン”のトップとして既に地位を確立していた。
「社長、どうなされました」
“白いもの”が頭に見え始め筆頭秘書の北川は言うと
「母が倒れた。直ぐに向う。今日のスケジュールは全てキャンセルだ」
厳しい目付きで言う社長に
「分りました」
と言うと直ぐに車を玄関に出すように指示をした。
「お母様、お気をしっかり」
「離れてください。これから、執刀します」
カリンは、手術台に乗せられて鉄の扉の向こう入っていく優の母を見ていた。初めて会った時から厳しい目で見ながら、いつも心の支えになってくれた優の母の姿はカリンに耐えられなかった。
「カリン」
連絡を受けて港区にある葉月家の病院に着くと、病院のセキュリティも飛ばしながら来た彼に
「優、お母様が」
とだけ言って、彼の胸に顔を埋めた。彼はなにも言わず、術室の鉄の扉を見ていた。
優の父親は、ただ気落ちするばかりで、腰を手術待合室に落としている。
優は、カリンを腕の中で抱擁しながら
「大丈夫だ。あの母がそう簡単にいくはずがない」
優は信じたかった。自分の言葉を。
三時間後、術室の扉が開かれた。執刀主事が
「葉月様、無事に手術は終わりました。しかし、元のように体が戻るには・・・」
「どういうことだ」
少しだけ沈黙すると
「幸い、思考に影響はありません。しかし、歩く事はもう出来ないと思います」
「何だと」
執刀主事が、息が出来ないほどに首元を絞め上げると
「優」
と言って、彼の腕に自分の手を添えた。
命に換えても守らない家族、カリン、優一と花音そして母だ。
“この男を絞め殺して母の足が戻るなら”そう思いながら、自分の“傲慢さ”に気付くと
「申し訳ない。母を救ってくれてありがとう」
と言って頭を下げた。
彼は一睡もせず、母のそばにいた。“眠ることなど出来ない”そう思って“ずっ”と母の顔を見ていた。
「カリン、もう七〇も過ぎた。カリンが始めて我が家に来た時は、母は五〇半ばだった。ずいぶん時が流れた」
妻のカリンを横に座らせながら彼は独り言のようにつぶやいた。
“母がいなかったら、カリンと連れ添うことも出来なかっただろう。母がいなかったらカリンとの今も無かっただろう”そう思うと止めども無く涙がこぼれた。
“お母さん、目を開いて”我慢出来ないほどに涙がこぼれた。
「優、お母様が」
いつの間にか少しだけ眠っていた自分を、起こすように声を掛けたカリンの横顔を見ると、少しだけ“やつれた”妻の顔が有った。
少しだけ目を開く母に自分自身をしっかりと見れるように目を合わせると
「優、夢を見ていたわ。あなたが、葉月家の総裁として花梨さんと世界の頂点に立つ夢を」
そう言うとまた眠りに着いた。
「花梨さん、本当にありがとう。十分に“葉月家の女”としての資格を兼ね備えて頂きました」
少しだけ無言になった優の母は、葉月家の筆頭弁護士に目を流すとその男は、手に持つ箱を母の前に持って来た。
「花梨さん、これを受け取って頂く日が来ました」
そう言ってその箱に口をそばに近づけると、聞こえない位の声で囁いた。
カリンは、“何をしているのだろう”と思うと、やがてその箱がゆっくりと開いた。
「花梨さん、ここに来て」
優も父親も動かなかった。カリンは何も分らないまま優の母親のそばに行くと
「これをあなたに譲ります。“葉月家の女”としての責任を受け継いでください」
そう言ってカリンにその箱の中を見せた。カリンは、喉がつまるように何も言葉に出来なかった。
「これが“葉月家の女”の責任」
カリンは、今まで家をきちんと継ぐ事で葉月家を守ることが出来ると思っていた。
今、優の母親から見せられたそれは、自分の想像を全く違う世界に持って行かせた。
「花梨さん、あなたなら十分に受け取れる資格と器量があります」
そう言って“ふふっ”と笑うと
「花梨さん、忘れていませんよね“私ではだめなんですか”と言った言葉を。あなたなら大丈夫ですよ」
そう言ってもう一度優の母は微笑んだ。
「カリン、母はお前に何をつぶやいたんだ」
「優、それは言えません。“葉月家の女”だけが継ぐ言葉です」
あの後、優の母親がカリンの耳元で囁いた言葉をその箱に囁くと箱は静かに閉じた。音声反応型金庫だ。声紋や音声の他、目の静脈認証まで備えたものだ。
次に開けることが出来るのは、この世に一人、カリンしかいない。
幸い、優の母親は、車椅子は必要としたが、それ以外は普通に出来た。お手伝いは結構大変なようだったが。
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