エピローグ

気分が良い。


何故あたしは今日、会社を欠勤したのか自分にもわからないくらいに、心も体も驚く程に健康的だ。


天気も良く、散歩したい気分になる。


あたしは病院から歩いて自宅へ向かうことにした。


スクランブル交差点で苛立ちを隠しきれない様子で信号待ちをするスーツ姿の歩行者、重低音をカーステレオから爆音で流す黒光の車、喫煙禁止エリアでタバコを嗜む若者達、空になったペットボトルを道端に投げ捨てる学生。


今のあたしには、この世界の全てが愛おしく思える。


「あの…すみません」


そんな慈愛に満ち溢れた気分に浸っているところに、1人のサラリーマン風の若い男性に声を掛けられた。


「この辺りにある、すずき脳神経外科という病院の場所、知っていますか?」


さっきまであたしがいた病院だ。


あたしはその男性に病院までの道を口頭で説明しようとしたが、正直かなり自分好みの顔立ちをしていたから、病院の前まで付いて案内することにした。


「ホントすみません、助かります」


「いえいえ、あたし暇していたので」


「僕、医療機器の営業をしている者で、すずき病院さんに呼ばれたところなんですよ」


「へー、営業って大変ですね。…あの失礼ですが」


「あぁ、申し遅れました。僕、高橋と言います」


「高橋、さん」


「はい、高橋…拓也と申します」


「拓也……さん」


高橋拓也と名乗る初対面の男性は、あたしに白い歯を見せた。



「先生」


看護師に呼ばれ、患者の医療情報を電子カルテに打ち込む医師の手が止まる。


「さっきの忘却治療をした女性患者なんですけど…」


「あぁ、あゆみさんね」


彼女がどうした?と医師は再びパソコンのモニターに目を向け、キーボードを叩く。


「あゆみさん、何度も同じ理由で忘却治療されてますよね…」


束となって重なる、数十枚とある承諾書で膨んだクリアファイルを手に取る看護師は、今日新たに追加された1枚をファイルの中に入れる。


「あぁそうだな」


心配を露わにする看護師とは真逆の態度を見せるその医師は、興味関心を感じさせない声色で返事をする。


「カルテの記録では、前回も、前々回も、その前の前も、同一人物の高橋拓也という男の記憶を消してますよ?」


続け様に問い掛けるその看護師に、厄介そうな一瞥をくれて


「あぁ。高橋くんがいる限り、彼女はまた出逢っては同じことを繰り返し、傷付いては記憶を消しにくる。そしてまた彼と出逢って…と、記憶を消去することを良いことに、関係を続けさせられるのだろうな。…高橋拓也の手によって」


「その事実を伝えなくていいんですか!?」


医師は半笑いで「何故?」と問う。


答えに詰まる看護師を諭すように、そして持論に確固たる自信と、余裕のある口調で続ける。


「そもそも彼は、高橋くんはうちの営業マンだ。医療機器の…ではなく、うちに患者を連れてくる大事な呼び込み営業マン。今頃彼女とコンタクトを取っているはずだ」


「え…」


「いいか?忘却治療を望んでいるのは患者本人だ。我々は強制などしてはおらん。

しかも私達は善意だけで医療行為をしているわけじゃあないんだぞ」


医師は忘却治療を施す機械を指す。


「いくらしたと思う?1人でも利用者を増やして元を取らないと、君の初任給も払えなくなるよ?」


「……」


医師は椅子から立ち上がり、沈黙してしまった看護師の肩をポンと叩く。


「医療が発達して、人間は更に弱くなってしまったのだよ。

時間が経てば忘れてしまうようなことでさえも、この治療なしでは生きていけなくなっている。

辛い記憶を抱えながら明るい未来を信じて…傍らにある楽しかった記憶を時々思い出しながら生きていくことで、人は成長していくのだけどな。本来なら。


時が全て解決してくれる……なんて若い君達には既に、忘却された言葉なのだろうね」


医師は嘆かわしくそう言うと、次の患者の名前を呼んだ。




おわり

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忘却治療 @nora-noco

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