第二話 衛生課に教官役が就任しました!

 その日、衛生課に待望の出来事が起きた。


 訓練場へ集う大勢の人影。

 先頭に居たのは、褐色の肌に眼鏡の男。

 大隠者アズラッド・トリニタス。

 彼はにこやかに微笑むと、こう告げる。


「お約束の通り、仲間たちをかき集めてきましたよ」


 彼の背後に並ぶ者たち。

 老人から若者まで、一癖も二癖もありそうな雑種多様な人間たち数十名。

 そこには奇妙な共通点があった。

 全員が瞳に、強い叡智の輝きを宿していたのだ。


「我ら〝秘された医術〟を修めし者、全員が衛生課へと協力することを、ここに誓います。そうですね、皆さん?」


 胸に手を当て、アズラッドが最敬礼を取る。

 すると、背後に集っていた碩学せきがくたちがこれに倣う。


 そう、彼らはただ一念、多くの命を助くるためだけに。

 その志だけを同じくして、この地へと集ったのだ。


 即ち――衛生課の講師として。


「大変頼もしく思います。どうか、これからのご尽力をお願いします」


 ゆっくりとエイダが頭を垂れる。

 隠者たちは、これに是と答える。

 そのタイミングで。

 ずっと我慢を続けていた影が、たまりかねたように飛び出した。


「お師さま!」

「おっと」


 ひしりとアズラッドに飛びついたのは、薄荷色の髪に、長い耳を持つ少女。

 パルメ・ラドクリフ。


 涙ぐみながら自分を見上げてくる愛弟子を見て、隠者は、おや? と片眉を上げる。


「パルメ、少し見ない間に君、たくましくなりましたか?」

「……体重は、増えました」

「そんな顔をする必要はありませんよ。頑張ったのですね?」


 顔をしかめた弟子を見て、しかしアズラッドは微笑みを深くした。

 今日までに彼の一番弟子が超えてきた苦難の数々は、ただ一目でわかったからだ。


 総身の筋肉は鍛え上げられ、無駄はなく。

 身長も幾ばくか伸び、体付きは洗練され。

 なによりもその顔つきから、どうしようもない甘さが消え失せていた。


 相当の修羅場を潜ったのだろう。

 試練を、乗り越えてきたのだろう。

 だから、


「愛しい君。私は君を、誇りに思います」


 隠者は少女を抱きしめた。

 それだけで、パルメの涙腺が決壊する。


 彼女は泣きじゃくりながら、これまでのことを語る。


「お師さま、聞いてください」


 決然と。

 真っ直ぐに。

 少女は、告白するのだった。


「アタシの、衛生課での日々を」



§§



 パルメは、大きく息を吸った。

 指先は震え、これまでにない緊張感が自らを襲う。

 目前には、最愛の師であるアズラッドの姿。

 彼は庵を出たときと変わらぬ優しげな顔で、


「どうしましたか?」


 と促してくる。


 深呼吸。

 震える声を、吐き出す。


「アタシ、幸せでした。お師さまと二人、庵で過ごした日々が」


 嘘偽りはない。

 本当に、ひたすら幸せだったのだから。


 パルメは師よりも早く起床していた、彼の寝顔を見たかったから。

 朝食は作り置きしなかった、いつだって出来たてを食べて欲しかったから。

 忘れ去られた医術を学んだ、彼の技を自分も身につけたかったから。

 夜更けまで研究に没頭する彼へと寄り添った。

 ただ、「おやすみ」と言って欲しかったから。


「たまらなく愛しい、一日だって欠けてはいけない日々でした」


 永遠に終わらなければよいと望んでいた。

 小さな庵の中で完結していた世界が、彼女にとっては全てだったのだから。

 けれど、あの日、扉は開いたのだ。


「はじめ、アタシはエイダ・エーデルワイスのことが嫌いだったんです」


 少女の言葉を受けて、アズラッドは微かに口元を綻ばせる。

 パルメは気が付かない。

 もっと重要なことを、自分が体験してきたことを、必死に。切実に。

 訴えるように、続ける。


「でも、自分のほうが、もっと嫌いになりました」


 彼女が思い起こしたのは、本当の困難へと直面したとき。

 失われゆく命を目前にしたときのこと。


「アタシは頭でっかちで、口ばっかりで、無力で」


 自分一人では救えない命を前にして、手を伸ばすことさえ怖れてしまった。

 出来たはずのことが出来なくなって。

 うずくまり、ともすれば逃げ出しそうになって。

 そんなとき、彼女へと射す影があった。


 自分の前を歩み続ける何者かの背中。

 真っ直ぐに進むそのひとは、常にパルメの前にいて。


「でも……アイツ・・・のいる場所は、いつだって矢面だったんです」


 現実と誰よりも向き合い、にも拘わらず〝天使〟などと呼ばれる娘。

 何時なんどきも誰かのために笑っている乙女。

 周囲の大人たちの誰もが、彼女を独り、地獄へと送り出そうとしている。


「そのことに気付いたとき、ほんの少しだけ気持ちが変わったんです」


 嫌悪は苛立ちに。

 倦厭うとましさは正しき怒りに。


「アイツ自身じゃなくて、アイツの在り方が許せないんだって」


 だから。


「だから、変わろうと思いました。変わらなきゃって、自分の意志で変わるんだって!」


 きっと、光が射し込んだのはその時だ。

 背中しか見えていなかった彼女の、その横顔を見られたのは。

 エイダ・エーデルワイスの真実を知ったのは。


「何も変わらなかったんです。どこにでもいる娘のはずだったんです」


 己が背負えるほどに小さな身体。

 傷つき、失われていく真っ赤な血液。

 同じものだ、なにも変わりはしない。


「なのに、彼女は超人のように扱われていました」


 挺身ていしんの化身とされ。

 称賛が、感謝の言葉が、救われた者たちの笑顔が、かせとして彼女の両手を縛り、死地という処刑台へ連行する。

 万夫不当の働きを、事実成し遂げてしまうがゆえに。


「アタシの小さな心と体に、お師さまの全てを――いいえ、それ以上の技を、知識を詰め込んだなら……どれほどの期待が両肩にかかるか解りますか?」


 問いかけへの返答はない。

 そもそも、答えを欲したのではなかった。

 ただ、


「アタシには、ぜっんぜん解らなかった……」


 どうしようもない悔しさを、吐き出したかったのだ。

 ここで、アズラッドは理解する。

 この悔恨こそが、彼の一番弟子を立ち上がらせ、今日まで走らせた原動力だったのだと。


「だから学びました。許される限りの時間、本を読みました。これまでよりもずっと深く。ずっとひたむきに」


 それは誰かの寝顔を見る時間もないほどに。


「医術を学びました。どんなときでも実践するために、何度でも繰り返して、出来るようになるまで」


 それは誰かの真似ではなく、前を走る背中へと追いつくため。

 与えられるだけだったものを、自ら探し求めて。


「一日中頑張ったんです、夜も昼もなくなるぐらい懸命に」


 それは、誰かあなたに「おやすみ」と告げる時間もないほどに。


「でも……足りなかった。そんなんじゃ埋められない差が、アタシとアイツにはあって」


 歴然たる技量の差を認めること。

 しかし、そこに抵抗はなかった。


「だからこそ」


 パルメ・ラドクリフが、エイダ・エーデルワイスの在り方を認めることはない。

 薄荷髪の訓練兵は、戦場の天使を是としない。


「だからこそアタシは……アイツの側にいます!」


 なぜならば。

 パルメにとってエイダは、あまねくを救済する天使などではないからだ。


 贈られたティーカップを慈しみ、その横にマグカップが並ぶことを喜び。

 ただ目の前の命に笑顔でいて欲しいと願う――命の喪失によって起こる悲しみを、一つだけでも減らしたいと望む、それだけの女の子。


 ほんの少しだけ誰かより出来ることが多い彼女は。

 間違っても、命を救う装置などと貶められてよいものではなく。

 そう気づけたからこそ、パルメは。


「お師さまがアタシにしてくれたように、アタシもアイツにしてあげたいんです」


 アズラッドは問うた。

 「何を?」と。


 幼さと決別した少女は告げる。

 庵は自分を守る〝殻〟だったのだと。


 そこは居心地のよい、外敵を寄せ付けない鳥の巣だ。

 少女は揺籃ようらんのなか、夢のような日々にまどろみ、保護されていた。

 過酷な外界から遮断され、擁護されていた。

 しかし、その本質はなんだったのか?

 ただ、愛玩のために隠者は弟子を育てたのか?


 ――違う。


「お師さまが与えてくれたもの、温かなぬくもりを」


 エイダ・エーデルワイスは偉大である。本人の認識がどうであれ、人々はそう願う。

 理想を。

 重荷を。

 責務を押しつける。

 おまえは特別だと、称賛しのろい続ける。


「だから、アタシはあげたいんです。そんなものに負けないぐらいの――人並みの幸せを!」


 理由は単純にして明快。

 パルメ・ラドクリフが。

 この世で誰よりも、師であるアズラッド・トリニタスを――その在り方を、敬愛しているからだ。


「だから、お師さま」


 叶うのならば。

 願うことが許されるなら。


「アタシは……アタシは、あいつの――」


 パルメが先を告げるよりも早く。

 褐色の隠者は言った。


「君は」


 隠者の眼差しが空を見上げ。

 太陽をめがけて懸命に羽ばたく、一羽の小鳥の姿を認める。


「巣立ちの日を、とっくに終えていたのですね」

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