第二話 どうか〝閣下〟と呼ばないで!
「リトル・エイダの戦場伝説が、また1ページ……訪ねてきた甲斐があったわ。最高。うん、最高。マリアが居合わせたら、どんな顔をしたかしら!」
言いながら、涙すら浮かべ笑い転げているのは美しい聖女だった。
ベルナデッタ・アンティオキア。
エイダとは、因縁浅からぬ女性。
いずれは教会へと凱旋し、すべての聖女を統括する地位に就くことを
交易の要所たる大都市ルメール。
この街に新設された衛生兵の拠点、軍学校。
その長官に与えられた執務室こそ、エイダの仕事場であり、二人が今いる場所だった。
「笑い事ではないのですよ、アンティオキア様?」
最前線から帰還したエイダは、山のような書類に埋もれながら不服を訴える。
その間も、休むことなく右手は始末書を書き続けていた。
勝手に前線へ出向いたことへの申し開きである。
「ベルナでいいってば。それともこう呼ばれたいって催促かしら――〝閣下〟?」
「……とっても意地悪です」
悄気返るエイダを見て、いよいよベルナは抱腹絶倒した。
否――ここまでやって、すべてを笑い話にしてしまわなければならないと、聡明な聖女は理解していたのだ。
現在のエイダは、親任高等官という立場にある。
それは、汎人類軍参謀本部から独立権限を押し頂いているベルナからしても無視できない位階――陸軍中将の位に匹敵するのだ。
一つの兵科のトップ。
これが最前線へ、護衛もつけずに出陣するなど、いかような時代であっても考えられない。
誰かの進退がかかった責任問題にしたくないのなら、冗談であったとするしかないのだ。
だからベルナは滑稽であると笑い飛ばした。
誰よりも、エイダ自身を守るために。
「それにしても。この部屋、随分と様変わりしたわね」
そんな思惑などおくびにも出さず、ベルナは思い出を語る。
「あてがわれたとき、あんたは手荷物一つ、部屋の中には机と本棚しかなかったのに」
「はい、仕事道具がとても充実しました。快適です」
「……お花とか、絵画とか、飾らない?」
「来客のためにですか? 心理的安静効果は期待できそうですが」
微妙に的を射ていないエイダの問い掛けにため息をひとつ。
気分を変えようと、聖女は出されたままになっていたお茶へと手を伸ばし。
指先が、取っ手に触れたところで止まる。
「あら? 新しいカップなのね」
「お二人に頂いたものは、なんだかもったいなくて、あちらの棚に飾ってあります」
「使わなきゃ意味がない……と、マリアなら言うのでしょうけど、悪い気はしないわ」
「よい茶葉じゃない。ジャムもいただけて?」
「どうぞ。商業ギルドの新製品で栄養満点、とても美味しいですよ」
「意外。効能さえあれば、味なんてどうでもいいのかと思った」
使い古され、白く濁ったリンゴジャムの瓶を手に取り、その中身を一掬い口に運び、ベルナデッタは考える。
自分が目前の娘に対して甘いのは、今に始まったことではない。
それこそこのジャムのように甘く、尊い感情を抱いている。
しかし、だからこそ己を律することが、いつであっても必要なのだと。
「あえて厳しいことを言います。それって――
ゆっくりと首を振るエイダの顔には、想定内だと書かれていた。
「古い知り合いから戴いたものです。が――付け届けでも、同じようにしたでしょう」
「使えるものは、何でも使う?」
「使います。それが、一つでも多くの命を明日へと繋げるならば」
「でも、カップは大事にしてくれるのね?」
「……私だって、思い出を懐かしむことぐらいありますから」
困ったように眉根を寄せ、衛生課の長は胸元に手を当てた。
母親の形見である指輪がそこにあることを、聖女は知っている。
自然と口元がほころぶ。
無茶と愚直が服を着て道理を蹴飛ばすようだった少女の、ほんのひとときのぞかせる人間らしさが、聖女にはただ愛おしかった。
「なら、自分のことも大事にして頂戴。あんたがカップを想ってくれるように、あたしたちだってあなたを想っているのだから」
「…………」
「それに、後方での事務仕事だって立派な務めでしょ?」
「アンティオキア様には、正直に言います」
ぴたりと筆を止め、エイダはため息を吐き出した。
「こんなに身動きが取れなくなるのなら、親任官の立場を王様から頂くべきではありませんでした。
異論しか無いと、聖女は思う。
これまでエイダ・エーデルワイスが大人しくしていたことなどなかったし。
戦場の天使、
しかし、身動きが取れないという実感は本物なのだろうとも思う。
回復術士、そして聖女は、本質的に教会へ所属し、汎人類連合軍において出向という扱いを受けている。
所属と命令系統が、そもそもにおいて別なのだ。
だからこそこれまで、エイダやベルナは独自裁量で多くの問題と向き合うことが出来た。
けれど現状、エイダはよりややこしい状況に身を置いている。
回復術士――すなわち軍属でありながら、軍の新兵科〝衛生兵〟の最高権力者。
なおかつ、人類王自らが認めた親任高等官。
つまり、直轄の特権階級。
ことほどさように、エイダは外部の人間でありながら、軍における命令系統の一部を掌握してしまった。
齢二十に至らない小娘が、
これがどれほど異常な事態かは、あらゆる関係者が理解していた。
異常。
でなければ、御伽噺の英雄か、貴種流離譚の主人公かと笑い飛ばされても仕方がないほど、現実味の失せた立身出世。
「お飾り。しかして、新兵科の要石……ね」
胸の内にだけ言葉を落とし、聖女は問題を分析する。
最大の懸念材料は、現状衛生課が編成の真っ最中であり、中間管理職がほぼ不在ということにある。
つまり、エイダに万が一のことがあれば、命令系統は瓦解するのだ。
結果、エイダ・エーデルワイスは現場から追放され、この街で幽閉、軟禁同然の事務処理を押しつけられているのであった。
「つまり、あんたは最前線への転属なんて許されないし、そんなこと誰にも許容できないってわけ。王子様が明日から冒険者になるって言い出したら、関係者は認めてくれるかしら?」
「それは、許されないでしょう。ですが、書類を作らなければ
「あら、さっきと言ってることが真逆」
救えるならばなんでもいい。
どんな清濁でも併せ呑む。
労力は惜しまない。
それが聖女のイメージする高潔な娘であったし、事実として本人も語っていた。
しかし、白き衛生兵はゆるゆると首を振る。
「私はただの人間です。感情的で、この手が届かないことに恐怖すら感じているのですから」
なるほど、そこが根底なのだろうと、ベルナは考える。
命という前提において、この娘には他者の区別がない。
偉いとか、偉くないとか、本質的にどうでもいいのだ。
ゆえに、後方で実感を伴わない書類手続きを行うことが、現場で命を繋ぎ続けてきたこの少女にとっては耐えがたくもどかしいのだ。
「ですが……それでも感謝をしているのです。陛下に、衛生学校の設立に尽力してくださったヨシュア上級大佐に。なぜならば!」
そう、なぜならば。
「衛生課には、これほど多くの癒やし手たちが集まってくれているのですから」
彼女が示したのは、書類の山。
反省文と同時に処理されていた、無数の
それこそが、彼女の行動が示した歴然たる奇跡だと、聖女は強く頷く。
ベルナの脳髄は、しばらく前に世間を席巻した新聞について思い出す。
エイダ・エーデルワイス。
ひいては衛生兵という兵科を、民草へと周知した記事について――
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