帰ってくるよ。
姫川翡翠
帰ってくるよ。
今日で今年も終わる。そんな大晦日の朝にカーテンを開けて朝日を浴びているときにふと気が向いたので、実家に帰ってみようと思った。就職するために上京してから10年経ったが、1度も帰っていなかった。別に両親と折り合いが悪いだとか、2人の妹が嫌いだとか、そういうことはなかった。何となく帰っていなかったから、なんとなく帰るのだ。幸い、僕は役所勤めのため、年始にもきちんと休暇がある。
思い立ったが吉日。僕はすぐにネットで新幹線のチケットを取って、お昼を食べてから自宅のマンションを出た。勝手知ったる我が家の玄関の前に立つ頃にはとっくに日が暮れていて、夕飯時であった。
ここまで来て、今更になんだか緊張してきた。チャイムを鳴らすべきだろうか。インターホン越しに、なんていえばいいのだろうか。いっそ新幹線で引き返そうか。そんなことを10秒ほど考えてから、何を身構えているんだと馬鹿らしくなって小さく笑った。思い切って玄関を開くと鍵はかかっていなかった。リビングに人の気配がするので迷わずそちらに足を向ける。僕が部屋に入ると、父が帰って来たと思ったのだろう、「おかえり」と母がキッチンから顔も出さないで言った。妹2人はソファでくつろぎながらスマホをいじっていて何も言わなかった。
「ただいま」
僕が言うと母はキッチンから飛び出して来て、妹たちは瞬時に顔を上げた。
「
「うん。久しぶり、母さん。
母は感極まったのか口元を抑えて立ち尽くし、歩と光はもういい大人のくせして子どものように飛びついてきた。
そんな風に感動的な再会の演出がなされたのはつかの間。いままで全く帰ってこなかったどころか連絡すら寄越さなかった罰として、急遽、母主催による僕への嫌味大会が開催されたのだった。母に続いて妹二人も口々に僕に嫌味をいい始めた。そうしているうちに父が帰って来た——買い物に出ていたらしい——ので、助けを求めると、
「俺も混ぜろ」
といって参加者が増えただけだった。
こうしてあたたかな家族のもとに、僕は帰って来たのだ。
なぜか懐かしいという感慨はなかった。スピーカーでお気に入りの音楽を流しながらキッチンで楽しそうに晩ご飯を作る母の姿も、昔からの定位置に座して煙草を吸いながらつまらなそうにバラエティー番組を眺める父の姿も、ソファに沈みながらダラダラとスマホをいじる歩の姿も、PCゲーム、スマホのゲーム、携帯機のゲームを世話しなく同時にプレイする光の姿も、何も変わっていない——もちろん正確いえば変わっている。特に光のゲーム好きが加速しすぎて正直かなり心配だ——。僕はその空間でゆっくりと読書をするのが好きだった。自然と馴染んでいって、すぐに僕は父と母の息子に、そして二人の妹の兄に戻った。
家族でのんびりと大晦日を過ごし、年越しそばを啜りながら新年を迎えたのであった。
年を越してすぐに妹2人は初詣に出かけていった。父は酒が好きだが、弱い。年越しのタイミングではまだ起きていたのだが、気づけば酔い潰れて眠っていた。新年が始まってもう2時間になろうとしている。年末恒例のバラエティー番組も終わり、僕はそろそろ寝ようと思って洗面所に歯を磨きにいこうとすると、
「どこにいくのよ」
母が言った。
「そろそろ寝ようと思って」
「もうちょっと私に付き合いなさいよ」
母はグラスに入った焼酎を揺らしながら言った。その顔色は素面とまるで変わらない。
「もう十分付き合っただろ」
「まだまだ!」
そういう母に僕はあからさまに大きなため息をついてから惨状を指摘した。机の上にはビールや酎ハイの空き缶が大量に潰されていて、日本酒が入っていた一升瓶も2本転がっており、たった今焼酎のはいった1リットルの紙パックも空けられた。
父とは対照的に母は酒が強い——もしかすると父は別に酒に弱いわけではないのかもしれないと今になって思う。その酒豪ぶりを僕は完全に受け継いだようだった。確かにまだまだ飲める。しかし残念ながら、僕にはお酒の味を楽しめる大人の舌が未だ完璧には備わっていないのだ。
「母さんもそろそろいい歳なんだから、まだ飲めるからって若い頃と同じ飲み方してるとカラダにくるよ」
途端に悲しそうな顔になって、
「私がババアだって言うの?」
すっかり落ち込んでしまったようだった。
「私ずっと、翔とお酒飲むのずっと楽しみにしてたのよ。10年も連絡しないで、それなのに、もう駄目っていうの?」
口ではまだいけるというが、やっぱり酔っているらしかった。
いつも凛としていて、仕事と家事を完璧にこなしていた母がこぼした、初めての弱音だ。
「しょうがないな。あと少しだけだよ」
そう言って結局朝まで付き合わされたことは、言うまでもない。けれど少しでも、母に恩を返せたのなら、それでいいかなって僕は思ったのだった。
前言撤回。寝かせてくれなかった母を僕はいま、猛烈に恨んでいる。
酒豪ぶりを受け継いだといっても母には勝てなかった。眠気と酔いにフラフラになっている僕を見てやっと母が満足してくれたようで——といっても彼女はまるで酔っているようには見えなかった——、父を連れて寝室に引き上げていった。
今年は寝正月だ。そう決め込んで僕も自室に戻り、押し入れにしまわれていた自分の布団を引っ張り出してきて潜り込む。すぐに眠りに落ちた。しかし直後にたたき起こされた。直後とは誇張ではない。最後に時計を見た時から30分も経っていなかった。歩と光だ。
「お兄ちゃん! ほら、出かけるよ!」
そう言いながら光が僕から布団をはぎ取って身体を揺する。連携して歩はカーテンを開き、そして窓も開く。
眠い。頭痛い。眩しい。寒い。
一瞬イラっとして本気で怒りそうになったが、たちまち2人の楽しそうな笑顔が目に入り、そんな気は失せた。
「わかった。起きるよ」
そう言って観念してしまったのが、運の尽きだった。
どこに行くのか、何しに行くのか、僕がいくら尋ねても、
「まあまあ」
その一言でいなされてしまう。
「待った、歩。どうせ初売りセールに付き合わされるんだろ。いやだ。僕は行きたくないよ」
「まあまあ。はい、朝ごはん」
「ありがとう……じゃなくて! 昨日は遅かったんだ。眠い。せっかくの正月なんだからお家でのんびりしようじゃないか。ほら、光。久々にお兄ちゃんとゲー……」
「まあまあまあ、はい、着替え」
「食い気味に言うほど?!」
どうやらこの無慈悲な妹たちはこんなにおめでたい日、新年初日に喜んで人込みに飛び込むつもりらしい。まるで理解できない。僕にしては珍しく、言葉を尽くして、最後には柱にしがみついて懸命に抵抗したのだが虚しく、結局外へ引きずり出されたのだった。
当然、僕の役職は「財布兼荷物持ち」だ。かつてこんなに残酷な役職がこの世にあったのだろうか。
通勤ラッシュばりの満員電車に乗って街の方に出てきた。ひとの多さはまるで、全人類をこの街に押し込んだんじゃないかというぐらいだ。1歩踏み出すことすら億劫になっていると、2人が手をつないできた。
「はぐれないように、ね」
すこし照れたように歩は目を逸らす。対照的に光はニコニコしていた。両手に妹。聞こえはいいが、きっと財布を落とさないように慎重になっているだけだろう。ひねくれた心はそう言って拗ねるけれど、それでも手から伝わってくる2人の熱と、楽しそうな笑顔を見ているとやっぱりどうでもよくなった——母を責める気持ちは鋼鉄のごとく堅く、全く変わらないがな。
ショッピング中は、これまた久しぶりの兄妹水入らずの会話だ。親の前ではなかなかできない、兄妹だけの距離感で、お互いに10年分の気持ちを伝えあう。社会人3年目の歩はいっちょ前に仕事の愚痴を、大学3年生になった光はいま興味を持っている研究テーマについて熱く語ってくれた。
歩にも光にも彼氏がいるらしい。ショッピング中、それを知った僕は文句を言った。
「いやいや、じゃあ彼氏とデートに行きなさいよ」
と。歩も光もきょとんとした顔をして、
「だってお兄ちゃん、全然帰って来なかった癖に、そう思ったら急に帰ってくるんだもん。むしろ今日は彼氏の方をドタキャンしたんだよ?」
「そうそう。なんならね、お兄ちゃんはわたしたちの彼氏に謝るべきだと思うの」
そう言って僕の腕をギュッと握ってきた。僕は単純なのだ。そんなことを言われたら、嬉しいじゃないか。例え両手が大量の荷物で塞がっていて、しかもその重みで今にも取れそうだと思うくらい痛かろうと、ここまでですでに自分の銀行口座から数十人の諭吉がいなくなっていようと——。
それから正月3が日はあっという間に過ぎた。母にはマッサージをさせられたり、料理を作らされたり、歩にはスノボに連れ出されたり、光にはひたすらゲームに付き合わされたり、なんとも素晴らしい時間を過ごしたのだった。そして3日の夜、僕は明日から仕事なので、もう実家を出なければならなかった。母と歩、そして光に見送られながらリビングを後にすると、
「駅まで送るよ」
父が玄関で車のキーを持ちながら待っていてくれた。
「ありがとう。じゃあお言葉に甘えようかな」
ガレージに停まっているのは、僕が最後に見た時と同じ黒いミニバンだ。かなりボロい。でも父はきっと気に入っている。車内は煙草の匂いが染み付いていてくさい。僕自身は煙草を吸わないし、煙草が大嫌いだ。けれど、僕は昔からこの匂いが好きだったりする。
父の匂いだと感じるのだ。
僕がシートベルトをするのを見て、父は車を発進させる。車内ではしばらく、お互いに無言だった。車内にはラジオの退屈な話が垂れ流されている。そう言えば僕が帰省してから父と2人きりになるのは今が初めてだ。
なにか話さないと。そう思っても何も浮かばない。外の景色を眺める振りをしてそっと父の方を見るとなんともないようにただ運転していた。それを見てやっと肩の力が抜けた。心なしか、ラジオの話も面白くなった気がする。
結局なにも話さないまま、気が付けば駅に着いていた。
父は適当なところに停車してくれた。
「ありがとう」
僕がドアを開くと、
「翔」
父に名を呼ばれた。
「なに?」
「後ろめたいと思うからつけ込まれるんだ。これに懲りたら、来年も帰ってくるんだ。いいな?」
僕は得心がいった。
「ああ、わかった。また来年も正月に帰ってくるよ」
果たして策略か、因果応報か。わからないけれど、きっと僕は来年も気が向くだろうから、
「行ってきます」
僕はそういって車から出た。また家族のもとに、帰ってくるために。
帰ってくるよ。 姫川翡翠 @wataru-0919
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