落ちている日

@takkunchan

落ちている日

朝に時間があった試しがない。

この日も、家を出なければならない時間の15分前に飛び起きた。

急いで支度を始める。

櫛で髪の毛を梳かしながら歯を磨き、脚を使って器用に寝巻きを脱ぐ。

バッグの中身は昨日のまま。だとしたら化粧ポーチはこの中で、電車の中でメイクができる。

クローゼットから適当に服を見繕い、頭から被る、羽織る、マスクをつける、イヤホンをする。準備は完了した。


颯爽と家を出ようとした時、イヤホンが寝室のドアノブに引っかかってしまった。早く、ワイヤレスが欲しい。イヤホンを耳にはめたまま、プラグをスマートフォンから引き抜き、なんとか事無きを得た。

イヤホンをぶらぶらさせながら道を急いでいたら、トレンチコートのベルトにコードが引っかかってしまった。

小走りしながら、イヤホンとベルトの絡まりをほどく。少し反省し、再びイヤホンジャックにプラグを繋ぐ。

定刻の電車には何とか間に合った。息を整え、朝のプレイリストを流す。目を閉じながら、曲を聞き流している。

ハッと目を覚ました時、電車は乗り換えの駅に到着していた。慌ててバッグを持ち、席を立とうとしたら、金属製の手すりにイヤホンが引っかかっていた。イヤホンを耳にはめたまま、プラグをスマートフォンから引き抜き、急いで電車を後にした。

走っていると、耳からぶらさがっているイヤホンが、前後左右に激しく揺れる。かなり急いでいた。その動きが原因なのか、ついに耳からイヤホンが落ちてしまった。すぐにイヤホンを拾い上げ、コートのポケットにぐしゃぐしゃと無造作にしまいこみ、また走り出す。

乗り換えた電車でも、運良く座ることができた。だんだんと落ち着いてきて、また、音楽を流そうとする。この時、イヤホンを適当にしまったことを後悔した。

車内は段々と混雑してきた。いつの間にか、座席から立ち上がることが困難なほどの乗車率になっていた。車内の温度は上がり始め、また、目を閉じてうとうとしてしまう…

ぼんやりと、会社の最寄り駅名をリピートするアナウンスが聞こえてくる。また、はっとした。遅刻する。立ち上がり、急いで電車を降りようとしたが、自分の前に立っていたサラリーマンのバッグに、イヤホンが引っかかってしまった。

「すいません、すいません」と頭を下げながら、なんとかイヤホンをほどき、電車を降りる。イヤホンを外し、両手で握りしめ、改札を抜ける。

 ヒールの音を鳴らしながら急ぎ足で進むと、後ろから声をかけられた。

「先輩! おはようございます!」

 可愛がっている2歳年下の後輩の彼も忙しいのか、最近は遅刻気味だ。

 2人とも肩で息をしながら、オフィスへと急ぐ。

「先輩も最近遅いっすね~、あれ~それ…」

 後輩がニヤニヤしながら、こちらの両手をじーっと見てきた。

「あら~、まだコードのイヤホン使ってるんですか? 遅れてますね~。仕事にも時代にも遅れちゃってますよ、先輩♪」

 私のムッとした表情におかしさを覚えたのか、調子に乗った後輩はさらに続けた。

「そんな煩わしいコードが付いたイヤホンなんか捨てちゃって、もっと自由になりましょうよ、先輩!」

 その言葉を聞き、私は妙な苛立ちと納得感を覚えた。

そして握りしめ続け、少し汗ばんでいるイヤホンを思いっきり宙に投げた。後輩はあっけにとられたような顔をしていた。

道端に落ちているイヤホンが、すべて忘れ物とは限らない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

落ちている日 @takkunchan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ