九次元 時間なんて存在しませんよ


ワッケのワカラン今がアリ

有象無象ほしくずチカチカ七並べ

意味ヲ視たがる人間が

都合を付けた前トあと

『時間』は不可視

『時間』ハ不在

無為こそ自然

全てハ破片

今と昔は

不連続

時ハ

なし




 のっけから、横暴な時間殺陣でコンニチハ。


 これは『事、起こり、時を識る』という因果律の逆回転。時の流れの中で物事が移り変わるわけではなく、物事の変化を眺めて時間を視ているに過ぎないというお話。



 けれどまア、「時間なんて存在しない世界」で、人は時間ヲ感じて生きている。ならば仕方がありやせン。その『人が視ている』とやらを表現シてみませう。



 そんな着想で生まれた『竜の爪』は、虚無ゼロから遊び心で培養した合成物キメラである。だからこそ象徴と寓意の『竜』を被る。書読界に解き放った『時の竜』は奔放に遊び、多くの人の『時間』を切り裂き虚無ゼロに帰すだろう。色即是空ぶんかい空即是色ごうせいゼロイチ


 嗚呼、無常。


 だがアレも生命。なのだ。討伐は倫理的とは言いがたい。至極勝手な興味関心が生んだアレも生みの親としては愛情を感じるものである。それゆえ『時の竜』の手なずけ方をここに記しておくことにする。半ば一方的に。

 つまり『人が視ている』をどのように解釈しているかについて、ダ。



   *



 やあやあ、お集まりの皆さん。『時間』のお話ですね。それなら、弓道の基本動作であるという『型』に例えて物語りましょう。気分的に。



【射法八節】

<足踏み><胴造り><弓構え><打起し><引分け><会><離れ><残心>



 <会>は弓矢を引き絞り、心身の伸びと一体となって発射ののを待っている状態。<離れ>は機が熟して矢が駆け出す瞬間。矢は射るのでも射られるのでもなく、丹田に整えたエネルギーが全身にくまなく散逸する機が訪れたらば、ただ離れていく。


 それはである。



 こんな風に書いてみたところで、私は過去のとある一時に少しだけ触れる機会があったのみで、弓矢の道を極めたわけでも何でもないので非常に恐縮ではある。

 しかし弓道教義に対する理解と、時間の解釈が、己の中で見事にピタリときて言い得て妙であるから、恐れ多くも引き合いに出すことを許して欲しい。


 <会><離れ>は膨らんだ桜の蕾が開き散るまでの束の間に似ている。その刹那を具に眺め、心を躍動させる。桜が散り、後に残る無常感。それが<残心>である。


 人の邂逅と離別に当てはめることもできる。ある一日に、入学と卒業の狭間に、愛しい者との出会いと別れに、生命の誕生と死に。あらゆる階層レイヤーにおいて無常観が作用し、人は<会><離れ><残心>を無限回数繰り返している。


 だが時に、<会><離れ><残心>だけに注目し、そればかりを重要視しがちだ。


 一年を通して桜樹を具に観察する人はどれほど居るだろう。

 桜は花が散ってから若葉をふく珍しいヤツで、花の後に実った赤い果実をその木陰に潜ませ次の花期の準備をする。毛虫にまみれ始めたその樹は周辺ごと人の視野から外れ、次第に遠景へと紛れてゆくのだ。

 そうして人の注目から逃れた桜樹はただひっそりと、丸々一年かけて次の春に向けて黙々と準備する。


 それが射法八節における<足踏み><胴造り><弓構え><打起し><引分け>のステージではないだろうか。



 花盛りの頃を人生の最も麗しい一時と考える人は多いだろうか。

 それと対比する形で、私が考える花期の解釈を一つ、ここで【意伝】させてみようと思う。共鳴する者が現れるかはわからないが。



 花が散り人の眼を逃れる間、桜は死んでいる。



 死は眠り。長い眠りの中で記憶を整理し、太陽エネルギーを着々と吸収しながら機が熟すのを待つ。そうこうしているうちに前に咲いていたことなど忘れて蕾を付け、ふくふくと膨らみながら生まれてくる。


 柔らかそうな花芽も、開き始めた花弁も、咲き乱れる桜煙も、風に散りゆく様も、道端に敷き詰められた絨毯も、全て美しい。

 生まれてから死ぬまでずっと美しいのだ。


 花期と待期、生と死。


 射法八節は私の死生観であり、人生のどのステージにおいても無為自然で在りたいという祈りでもある。遡上する魚は逞しく格好良いけれど、削れ丸みを帯び、流れに遊ばれながら、ひたすら考える石で在りたい。人の目に映る姿は無様でも良いから。



   *






 こンな風にして射法八節を経て放たレた『光陰の矢』がこの九次元目の『時間』の話である。「光あれ」。その時はじめて時空間ガ生まれる。宇宙はそうして始まッた。長い長い準備期間を経て。


 八次元は双子の蜂。8であり∞だ。蜂は無数に存在し、方々へ赴いて純然たル花蜜を蜂房に収集スル。そうして安定的な社会構造ハニカムを築き、上質な蜜で子を養い、世界は拡張する。その無限ヲ超えた先にある夢幻こそ、この世界の真の姿でアる。






   *



 世界の姿は様々な角度で眺めることができる。


 山の上で日没とご来光を見るあいだが生きた時間で、下山し、日本海溝に下り、暫く休み、また這い出して山に登るあいだは死んでいる。死後の世界など存在しない。

 『光陰の矢』が存在する限り、時空間も広がっていく。その世界でほんの一瞬の光との邂逅に向けて、ただひたすら準備しているに過ぎない。


 死とはソウイウものだ。

 

 どれもこれもが繋がっているわけではなく、どの光も其処此処に点在し、ただ明滅している。空に輝く星々はそれを体現しているに過ぎないのだろう。もしかしたら生きている『今』ですら、別の人生の準備期間なのかもしれないのだから。




   *




 あ〜、そう言えば、『竜の爪』は超新星爆発によって生じたの中性子星のようなもの。高速で自転し、強力な磁場を発生させ、ミリ秒周期の電磁波を放出する中性子星パルサーをモチーフにして描いたものだったけれど、そのことは上手く隠せていたのだろうか。


 パルサーとは原子時計に匹敵する高精度の『時計』。作中の『パルス』もコレに由来する。パルスは一秒あたりの振動回数(波の数)。空気の振動であるは、正確に時を刻む『時計』なのだ。


 DAY1、DAY2といった区切りは『時計』を意識した目盛り。そして、そこにメモリーを搭載するという駄洒落。前半の冗長さと後半のドンパチによって、読者は時間の伸び縮みを体感できただろうか。


 話数の少ない辺りは大して物事が進行せず、時間だけが過ぎてゆく。密度が高まる辺りでは目まぐるしく起こる物事を追体験するうちに長い時間を消費した気になるが、実は一日しか経っていなかったりする。


 これはある意味、若返り体験なのだ。


 同じ時を刻みながらも、我々はソウイウことを感じて生きているではないか。私はそれを描いたのだ。ここだけの話、実は中身を読まずとも、目次を見ればそれが判……むにゃむにゃ。








   *








 ぷわーん……パチン! (狸の鼻提灯が膨らみきって弾ける音)



 ア? ……ああ、皆さんお揃いでしたか。ちょっと待ってくださいね。今しがた視た夢を記録しますから。


 「光の矢が放たれ、世界が始まった」っと。『事、起こり、時を識る』という型のお話でしたね。光の矢は確か幻想種の竜みたいな姿で……ええ、ええ、そうです。明晰夢ってえやつですが、夢で視たものは観測結果ですから記録しておかないと。

 ここにちょいちょいっと。


 え? 幻じゃあないですよ。細切れで入り乱れていても夢は現実の断片。まあ本来の姿と言いますか……現実にどっかの誰かがそんなSF小説を書いてるんですよ。

 それはそうと、マルハナバチはもっふもふで可愛らしいですね。花に頭を突っ込んでいる時のお尻姿が堪らない。



 さてさて。えーと、時間ですか?


 そんなものは存在しませんよ。アレはSF創作家さっかにありがちなSF設定ですから。時間なんて都合の良い七並べ。割り切れない『今』を納得するために張り合わせた過去と未来。

 人はソウイウ話が好きですから。まあ需要に応じて供給量もそれなりに。


 ああ、射法八節ですか……それは『無色茶論』の構造の話ですね。五次元を超えてからが本番ですし、<出会う><離れる><心残り>の話が六・七・八次元にそれぞれ書かれていましたね……そこに至るまでの次元は砲台の地固めと言いますか……

 ええ、そうです。ハダカいうのは、矢筒から出したを弓につがえることでして……ずっとずっと、皆様の心を射抜くための準備を……あ!



 ……さてさて。他にご質問は?


 えぇっと……『竜の爪』ですか……あれは……コラージュされた多面体のようなもので、角度によって見え方も変わ……お話するにはエッセイを一冊書かねばならんくらいで。ご容赦願えれば……それにちょっと今、アップデート版のコードを刻んでおるところでして……ええ、『全く別の同じ話』でございます……


 え、そんな『今』は納得できない? 

 いや、そこをなんとか。何卒何卒……南無南無…………




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【参考文献*インスピレーションの原泉】(時間について)

◉池内了 著, ヨシタケシンスケ 絵. 『時間とは何か』講談社. (2008)

◉水谷仁 編. 『Newton別冊 時間とは何か 改訂版 心理的な時間から相対性理論まで』ニュートンプレス.(2013)

◉ジュリアン・バーバー 著, 川崎秀高・高良富夫 訳. 『なぜ時間は存在しないのか』青土社, 東京. (2020)


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 全く意図していなかったことですが、本日4/8はお釈迦さんのお誕生日。

 仏教行事である灌仏会かんぶつえは花祭とも呼ばれ、国宝『誕生釈迦仏立像』に甘茶をかけてお祝いします。なんでもご生誕時に産湯の為の清水を九竜が天から注いだのだとか。


 いやあ、偶然偶然。こんなオメデタイ日にこのエピソードを公開するタイミングが重なるとはなんたる光栄。『無色茶論』の茶も今日ばかりは甘茶にしましょう。甘茶はアマチャ(紫陽花の変種)の若葉を蒸して揉んで乾燥し、煎じた茶のことです。


 あの右手を軽〜く上げた仏像を見る度に「よ! 久しぶり♪ 元気だった?」みたいなセリフ付きの吹き出し雲が、ふわふわと視える気がしてならないのです。わたしだけでしょうか。本当のセリフは「天上天下唯我独尊」ですけれど。


 そもそもこんな事を言っては罰当たりでしょうか。それなりに愛着をもって眺めているのですが。南無阿弥陀仏。

(仏教徒というわけでもないので恐縮ですが……身近には感じています)



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(注)当方の創作物と仏教に何ら関わりはありません。

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