奇妙な書店デート

兎ワンコ

奇妙な書店デート

 こいつは七年前の高校三年生の九月の話。

 あまり自分の過去を語るのは好きじゃないから端折って話すが、俺は高校二年の時に入っていた部活動を辞めて、悪友に誘われてバイトを始めた。もちろん、学校には内緒でな。

 それから一年経った頃。バイトで稼いだ金はだいたいゲーセンに行って使うか、通学で使ってる原付バイク(ZX50。先輩のおさがり。こいつも学校には内緒で乗ってる)の燃料代。だから金に関しては周囲の同級生と比べればそこまで困ってはいなかった。


 でも悩みはある。これを読んでる高校生以上の諸君ならきっと理解してもらえるかと思うんだが、口うるさい親って高校生の時分には面倒だよな。やれ、「早く帰ったなら家事を手伝え」だとか「バイトばかりしてないでちゃんと勉強しろ」だとか。だから当時の俺は、バイトがない日はすぐに家には帰ろうとはしなかった。

 でも、行く場所にも限りがある。友達の家にだってずっとはいられないし、街をウロウロしようもんなら補導されるし。(ま、それが親をうるさくさせる原因のひとつなんだが)


 そこで俺は本屋に入り浸ることにした。とはいってもこじゃれた古本屋とかじゃなくて学校と家から少し離れたTSUTAYAなんだけど。

 そこのTSUTAYAは隣にタリーズコーヒーが併設されていて、TSUTAYAで本を買った人が、隣のタリーズコーヒーで業務用のコーヒーメーカーで作った出来立てのコーヒーを飲みながら買った本を堪能できる。なんと商売上手なことだろう。

 だから俺もビジネス路線に呑まれ、TSUTAYAで適当にマンガを買って、タリーズコーヒーの二人掛けのテーブルで読み耽る。残念ながらコーヒーは飲めないから、もっぱら冷たいアイスココア。この一杯だけで二時間は粘る。店からしてみれば迷惑な客だったろう。

 最初の頃は気になっていたマンガを二、三冊買って読んでいたのだが、マンガってあっさり読めちゃうんだよな。だからといって続刊を買えば軍資金はあっという間に尽きてしまう。そこであまり読みなれない小説に手を出すことにしたんだ。


 小説コーナーに足を踏み入れた途端、俺は途方に暮れる。

 青い背表紙のものから黒い背表紙、白い背表紙のものに似たような文字スタイルがところ狭しと本棚に並んでいる。漫画ばかり読む俺からして見れば、ゴシック体が一緒っていうのは困りもんだ。『レイクサイド』というタイトルが、どのような内容なのか読むまでわからない。別に読むものが決まっていたわけじゃないが。

 結局、どれを手に取っていいのかわからず、小説コーナーを通り過ぎて隣のラノベコーナーへと足を移した。


 ラノベコーナーはさっきと似たような背表紙ばかり並んでいるが、唯一違うのはタイトルで物語がハッキリしていること。『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』とか、よくわかるよな。この時は『SAO』とか『俺いも』なんてのが流行ってたけど、あいにく俺はラノベにも疎い。またしてもなにを手に取ればいいのかわからず、背表紙に並ぶ巨大掲示板のスレッド名のようなタイトルを見回すばかりだった。


「あの……浅宮くん?」


 しばらく眺めていた時、背中越しに俺の名前を呼ぶ声。春の終わりごろに吹く、穏やかなそよ風のような声音は聞き覚えがあった。

 声の方へと向くと、市内にある進学校の黒に近い紺のブレザーが目に飛び込む。次に膝まで隠した裾の長いスカート。肩まで伸びた黒い髪も、大人しい性格を象徴するような丸いキラキラした水晶のような瞳も見覚えがあった。またそよ風が吹いた。


「豊秋中学校の……浅宮雄介あさみやゆうすけくん……ですよね?」

「うん。……久しぶりじゃん」

「そう……だね。卒業……以来……だね」


 店内の有線にかき消されそうなか弱い声が続く。

 彼女の名前は大沢澄香おおさわすみか。中学時代の同級生。いつも本ばかり読んでいた女の子だ。確か、中二と中三の時に同じクラスだった。少し不健康に思える白い肌とほっそりとした頬は相変わらずだ。

 俺は三年ぶりに会う同級生に笑顔を見せない澄香に、お手本のように微笑んでやる。


「なんだ、急に声掛けてきたからびっくりしたじゃん。なに、澄香さんも本買いに来たの?」

「うん……。でも……ちょっと……違うかも……」


 曖昧な返事。正直に言えば、当時の俺は澄香が苦手だった。コミュニケーションが苦手で、感情をあまり多く出さないタイプの子。クラスに一人や二人は居ただろ? 澄香は意思疎通が苦手というわけじゃないが、あまり多くは語らないし、ハキハキと喋らない。特に苦手だったのは、その大きな瞳と目を合わし続けていると、自分の心が見透かされているような気分になるからだ。意外と小心者な俺。


「そうなのか。でもさ、こうしてTSUTAYAにいるってことは、澄香さんも本を見に来たってことだろ?」


 この問いには小首をコクンと下げて頷いてくれた。

 ここで俺は現在の悩みを澄香に打ち明けた。久しぶりに会う同級生との話題ではないと思う。だが、文学の知識のひとかけらもない、進化直前のサルのような俺の話を澄香は親身に聞いてくれた。


「最初に……こだわらずに……読んでみると……いいかも」


 ひとしきり聞いた後に、穏やかな口調の割にははっきりという澄香。


「そんなもんなのか」

「うん……。私も最初は、どんな作品がいいのか……全然わからなかった……。でも、適当にとって……読んでいくうちに……引き込まれるから……なんでもいいかも……しれない」


 また小説コーナーに目をやる。何百、何千冊とある書籍。この中で俺のお気に入りになる本があるというが、それはどれだろうか? 俺には困りもんだ。


「なぁ、俺はさ、そういうのわからないから、澄香さんのイチオシを教えてくれよ。そいつから読んでみるからさ」

「わたしの……?」


 戸惑った表情を見せる。でも、どこか嬉しそうな気配があったのを俺は見逃さなかった。畳み掛けてやる。


「あぁ。澄香さんの方が詳しいだろ? 俺には、こういうのわからないからさ」


 澄香は少し逡巡した後、小説コーナーを迷いなく歩き、ひとつの棚の前でピタリと立ち止まる。ものの数秒で一冊の本を抜き取る。まるでベテラン店員のよう。さっきの俺とは大違い。

 戻ってきた澄香が俺に寄こしたのは伊坂幸太郎の『フィッシュ・ストーリー』。名前は知ってる。確か、映画にもなったやつ。


「この作品は……短編集だけど……面白いと思う」


 穏やかな声がどこか弱弱しかった。きっとこういうのに慣れてないのだろう。俺は「あぁ、ありがとう。澄香さんのオススメならぜったい面白いだろうな」と言ってやった。(こいつは俺の殺し文句。ま、そうそう被害者は出ないんだけど) なんの根拠もない台詞だが、安心したように微笑んでくれた。


「俺さ、バイトない時はこのTSUTAYAの隣のタリーズで本読んでるからさ。読み終わったら感想言うよ」


 この台詞に別に下心はない。ただ言ってみただけ。

 けど澄香は目を大きく見張ったあと、口元を緩ませた。笑ったわけは呆れたのか、楽しみにしてくれたのかわからない。でも次の台詞で答えは出た。


「そう……。それじゃあ……その感想……楽しみにしてるね」


 こうして俺と中学の時の同級生との奇妙なデートが始まった。

 澄香がTSUTAYAにいるのは決まって塾がない木曜日の放課後。俺もなるべく木曜日は空くようにシフトを組んだ。(ま、それでもシフト入れられちゃうんだけどな)

 そして俺たちは木曜日の放課後にタリーズコーヒーの空いた席で落ち合い、買った本を読み、感想を伝えた。澄香からのオススメ本の借りて読んだし、俺も持っていたマンガを貸したりもした。

 澄香が勧めてくれたのはもっぱら大衆文学や純文学(これは頭の悪い俺には難しかった)で、同級生が教室で語らうような流行のラノベはまったくといってなかった。

 不思議なことに、俺たちは連絡先を交換せずにこの交流会を続けた。互いにいない時はそのままタリーズでまったり読書。俺的にはやっぱり寂しかったが、その時は次に澄香に会った時にどういう感想を伝えようか考えたもんだ。


 ◇


 そんな不思議なデートが続いた十一月の半ばの木曜日。

 その日も俺はタリーズの一角のテーブルで澄香から勧められた『家族八景』(筒井康隆!)を読み、反対側に座る澄香は『守護天使』を読み耽っていた。

 俺は時々、本に夢中の澄香を盗み見した。ビー玉よりもキラキラに光る目は文字の列を追い、小さな手のひらに収まった物語を読み解いていく。

 改めて見ても、本を読んでいる時の澄香はとても楽しそうだ。とくにここ最近は毎日そんな感じ。もっとも、そいつが俺との時間の為ならばどんなに最高なことだろうか。男なら共感してくれるやつはいるだろ? でも、残念ながらそいつは前書きにもあとがきにも載ってない。

 俺は以前から疑問に思っていたことを問うべく――集中している澄香に悪いが、声を掛ける。


「なぁ、澄香」


 この頃には澄香のことを下の名前で呼び捨てにしていた。澄香は視線を本から視線を上げて不思議そうに見つめる。


「ずっと前のことだけど、ここで久しぶりに会った時、ラノベコーナーに居たじゃん? どうしてあそこにいたんだ?」


 俺の問いかけに澄香はきょとんした表情で見つめる。俺は言葉足らずなのかと思い、言葉を紡ぐ。


「いやさ、澄香が勧めてくれるのは、こう……固い本っていえばいいのか? そういうのばかりだから、ラノベは読まないのかなぁって思って」


 別に大した疑問じゃない。世の中には未だにラノベを敬遠する連中は一定数いる。インターネットで少し検索をかければ某投稿サイトを批判する掲示板の書き込みスレッドも出てくる。SNSでも、ラノベ叩きをしてる奴は見たことある。正直、目の前にいる、本の虫に寄生されてそうな少女がその類には見えないが。

 澄香からの返答は意外なものだった。


「それは……内緒に……しておこうかな」


 途端に、可憐で華奢な少女が照れくささを交えながら、不敵な笑みを浮かべ出す。これは俺への挑戦なのだろう。


「つまり、当てろってこと」


 澄香は迷いながらもコクンと頷く。

 澄香が出した謎に、持っていた本にしおりを挟んで閉じ、これまでの事を思い出しながら推理をしてみる。


「うーん。……ハマってるラノベの推しキャラを見ていた、とか?」


 なんとも情けない答え。散々考えて出した回答に、すぐに長い髪と共にかぶりを振る。最近になって東野圭吾(加賀恭一郎シリーズ!)、赤川次郎なんかを読んだけど、人の秘密なんてもんはそうそう暴けるもんじゃない。名探偵・浅宮雄介の失敗。


「違う……かな……」


 曖昧な言葉で返すが、水晶のようなキラキラした瞳がどこか楽しげに輝いている。こんな表情は滅多に見かけない。最後に見たのは俺が『リアル鬼ごっこ』を読んで、独自の二次創作論を語った時だろう。


「違うかぁ……答えは教えてくれないの?」


 俺の問いに澄香はもう一度首を横に振る。その後は何も語るわけではなかったが、真っすぐにこちらを見る輝く目は「ノー」と語っている。相手を嵌めることに快感を覚えた女って魔性だ。こちらも燃える。


「つまり、この読書会には澄香のオススメする本の感想だけじゃなく、澄香がラノベコーナーにいた、っていう秘密も考えなくちゃいけないのかな?」


 困ったような顔をわざと作って見せると、楽しそうに頷いてくる。

 

「そうだね……。それは……これからの楽しみに……しよう……かな?」


 澄香は壁に取り付けられた時計に目をやった。釣られて見れば短針と長針は六時を差していた。もうお開きの時間。

 つまり、次に会うまでのお楽しみであり、俺はロジック(って言うんだっけ? 最近学んだ)を紐解かなきゃいけない。まぁ、考える時間はかなりある。それと同時に読書する時間もだ。

「それじゃあ……またね」とうやうやしく頭を下げて去っていく澄香の背を見届ける。その背中は先ほどと同様に楽しそうだ。

 澄香で出て行った自動ドア見つめたまま、俺は考え続けた。それは、先の話を含めて、さらに深そうな謎をはらんだ少女の秘密だ。


 ◇


 その日以降も変わらずこの奇妙な書店デートは続いた。

 冬休みの前も、大雪の日も、大学受験が終わり、塾がなくなっても。澄香は日課のように書店に来た。そうして、いつものようにタリーズで本を読むのだ。俺が読んだ本の感想と次のオススメ、それからあの日の謎の答えを待つように。

 一方の俺も就職先が決まり、自由登校より前からバイトのシフトをかなり入れるようにした。それでも、澄香に会える木曜日にはシフトをいれないようにしてTSUTAYAに通っていた。

 相変わらず澄香が啓示した謎は解けない。ラノベに興味があった? 実はアニメが大好きだ。全て「違う」だった。

 文学少女の謎は鉄壁な上に、『解答は毎週一回のみ』という制約を設けられた。クイズ番組だって、もう少しゲストには優しいはずだ。


 そして三月の半ば。お互いの高校の卒業式が終わった数日後の木曜日。

 学校生活も終わり、澄香は進学のために都内へ上京することが決まった。引っ越しのことも考えると、恐らく今日が最後だろう。

 その頃になって、俺はやっと謎を解くヒントを手に入れ、証拠固めも終えていた。

 俺は彼女の秘密を紐解くキーアイテム(というんだっけ? ミステリーはまだ苦手なんだ)をショルダーバッグにしまい、澄香がいるであろうTSUTAYAにバイクを走らせる。その日は最後ということもあって、妙に意気込んだ。


 TSUTAYAには俺と澄香と同じように、春休みを満喫する同年代くらいの奴らが集まっていた。別にレンタルビデオ兼書店兼ゲームショップで何するわけじゃない。好きな作品を大声で語って褒め合ったり、自分のオススメを友人に語り、借りたり買わせるのだ。俺の場合はすっかり勧められて、澄香の色に染まった人間なのだが。俺は店内に入り、入り口すぐの今月の新作・オススメコーナーの横を通り過ぎ、タリーズへと向かう。


 タリーズの一角のテーブルに澄香はいた。冬ものの暖かそうなスカーフとコートを椅子に掛け、白のワンピースに上手く合わせたダウンジャケット姿。ブレザーを脱いでも清楚なお嬢様は相変わらずだ。個人的には、もっとブレザー姿を目に焼き付けておけばと思ったが。

 ずっと本に視線を落としている澄香に「やあ」と声を掛けると同時に、自分の荷物をテーブルに置いた。澄香がちらりと視線を上げて「こんにちは」と小さな声で挨拶する。

 俺は椅子に座ることなく注文カウンターへ向かう。いつものココアの注文だ。その間、俺の頭の中は謎解きを始める前の台本の確認。情報の出し方は大事って、本から学んだから。

 チェーン店のマニュアル化されたシステムのおかげで、注文から受け取りまであっと言う間。でも、脳内での台本合わせする時間には充分で、俺は出来たての暖かいココアのカップを片手に、澄香の元まで早く戻れた。椅子を引っ張りながらまだ本に夢中な澄香に言う。


「なぁ、感想を始める前にずっと謎のままの秘密。解き明かしたいんだけど、いいか?」


 澄香は本から視線を上げ、俺に目をやる。少しの間をおいて頷いた。推理ショーが始まる。半年近い推理時間。名探偵・浅宮雄介の謎解きの始まり始まり。


「澄香の秘密、やっとわかったよ」


 そう告げてショルダーバッグを開けて、一冊の本をテーブルの上にそっと出してみせる。表紙には真っ暗な夜に浮かぶ金色の月を見上げる少年が可愛らしいタッチで描かれている。タイトルは『月と影の間に』。著者名は大寺曹おおでらそう。出版社は数々のラノベを排出している会社。


「これ書いたの、澄香なんだろ?」


 澄香は机の上に置かれた文庫本をまるで子犬を撫でるかのように、細い指先で撫でる。ホントに我が子を愛撫するかのような優しい手つき。物的証拠に心理的反応が、真実に辿り着いたと確信した。一度目を伏せた後、観念したような笑みを俺に向ける。


「知っていたのかな……? それとも……」


 澄香の言葉が言い終わる前にかぶりを振る。


「いや、俺も知ったのは最近なんだ。それも、二日前」


 こいつは数少ない女友達から聞いた情報。ルール違反かもしれないけど、聞き込みだってミステリーの常套じょうとう手段だ。おかげでやっと澄香がライトノベルコーナーをうろついていた理由がわかった。澄香は、去年の今頃、ネットの投稿型の小説サイトで入賞し、一冊の本を出していた。それも大寺曹というペンネームで。

 俺の目の前にいる可憐な少女はまさかの商業作家様だったというわけ。そうなると、ラノベコーナーにいる理由もだいたい解ける。


「澄香はさ、この本が本棚から消えていくのが楽しみだったんだろ?」


 これが犯人を追い詰める動機の証明。言ってみると悪くない。澄香の返事を待たず、俺は続ける。


「あの日、澄香の本があった場所に俺がいた。だから声を掛けた。ただ、それだけのことだった」


 真実って暴いてみると実に大したことないもの。でも、真実を探している間、俺は躍起になっていたし、とても楽しかった。探偵が推理に狂うってのも、なんだかわかる気がする。


「余談だけど、もうこの本はあの棚にはない。なぜなら、最後の一冊は俺がレジで金を払って、ここにあるからな」


 小さな沈黙が生まれ、互いに見つめ合いが続く。ドラマで見る、犯人を追い詰め終わった瞬間。

 妙な緊張が広がり始めた時、澄香の唇が動いた。


「そう……なんだ。やっぱり……秘密って……バレちゃうんだね」


 諦めたような、どこか吹っ切れたように囁く。あっさりとした幕引き。俺は唇の端を吊り上げてみせるが、心の中では全力のガッツポーズ。


「でも…………解いてくれると、どこか……嬉しいね」


 糸が切れたように、その笑顔が現れた。水晶のような瞳が細くなり、口元が緩んで肩を小刻みに震わせる。愁い混じった喜びの笑顔はとても素敵で、しおりを挟みたくなるような瞬間だった。俺は完全に澄香に落とされていた。心奪われるってこういうことを言うんだな。だが、そんな一瞬もあっという間に終わった。


「もう今日で……ここに来るのも……終わりだね」


 澄香の声に、我を忘れるほど見惚れていた俺はハッとし、気後れしながらも頷く。


「あ、あぁ。そうだな。でも、別にもう二度と会えなくなるわけじゃない。また会ったら、オススメ教えてくれよ」


 とってつけたような言葉をいくつか並べる。もちろんどぎまぎしている自分を勘付かれないための誤魔かし。勝ち誇る笑みすら作れなかった。アドリブには弱いんだ。

 気を取り直し、いつもの感想会に入る。今日は『階段途中のビッグノイズ』という作品の感想を伝えにきた。きっと、最後の作品。

 俺の感想はいつだって率直で簡潔明瞭。『羨ましい。こんな青春なら、ぜひ俺も送りたい』って。


 それから俺たちは久しぶりに雑談を楽しんだ。

 澄香が書籍化デビューしたことや、その後の生活のこと。特にこれといって変わりはなく、次作も書いたのだが、書籍化には至らなかったそうだ。

 驚いたのは、澄香は自分の本の売り上げを全て大学の入学費用に充てたそうだ。親からは「自分で稼いだお金だから、少しは自分に使いなさい」と少しばかり小遣いをもらったそうだ。バイトの給料を家に入れず、全て遊びと趣味に使っている俺とは大違い。


 そして時刻は十八時半を回り、お開きの時間となった。

「それじゃあ……またね」と澄香は席を立った。延長はなし。残念。

 この日ばかりは俺も「そうだな」と一緒に立ち、店の前まで歩いた。外に出た途端に冬の冷たい風が俺たちに吹き付ける。

 長いマフラーをしっかりと首元に巻いた澄香に手を振り、俺たちは同時に「じゃあ、またね」といった。小説や映画のようにキスや抱擁で別れるシーンはない。でも、現実だからこそ、こういうありがちな別れもいいよな。


 バス停に向かう澄香の背中を見送った俺は、買ったばかりの『月と影の間に』という本に目を落とす。これが半年前に出会った、俺たちの出会いの秘密。

 でも、俺が暴きたかった澄香の秘密はこれじゃない。これは俺なりの思いやりのあるウソ。

 澄香の楽しみは本棚から消えていく自分の本で間違いないが、それ以上に毎日ワクワクしていた事があったのだ。毎週のように眺めていた姿を見れば、鈍い俺だってすぐにわかる。


 少しして、バスが来た。

 澄香は人がまばらなバスに乗り込むと、こちらに見える座席に座る。発車した時、小さく手を振ったのが見えた。俺は澄香に見えるように右手を高く上げて、大きく振り返してやった。周りで俺を見ている奴がいたが、構いやしなかった。


 バスを見送ったあとも俺はずっとバス停を見つめて余韻に耽っていた。

 三月の肌寒い風が俺の首元をすり抜ける。きっと四月になってもこの寒さは抜けないだろうな。すっかり冷えて真っ暗になった夜空を見上げ、これまでの事から今日までを思い馳せる。


 大沢澄香。先の笑顔が俺の見立てが正しい証拠になった。伝えても、何も解決しない事件の真相。ここからは、俺の推測だ。俺の勘は間違いなく当たるから、信じてくれ。

 数カ月前に俺が質問をぶつけた時には、自分以上に好きな人が居たんだ。だからこそ、あんな風に笑えたんだ。よくあるよな、『恋に落ちた者こそ、怖いものはない』なんて言葉。あれ、これも澄香に勧められた本の言葉だっけか?

 そして残念なことに澄香の好きな人は俺じゃない。悔しいが、俺はただのキーパーソンだったわけ。

 本を鞄にしまい、バイクのエンジンをかける。胸の中がジンジンする思いを感じながら、すっかり冷え切ったシートに尻を押し付けてアクセルを握る。



 これで俺の奇妙な書店デートの話は終わり。あれから七年経ったが、澄香とはぜんぜん会ってない。

 大寺曹という作家はあれから二つの作品を出している。『残酷な遊戯 ~流された先は異世界の戦場~』と『在りし日のあなたに捧ぐ物語』という作品。後者は存在が曖昧な女子高生が、一人の男子高校生との出会いで運命が変わっていく物語。こいつは中々よかった。前者のはまだ読書中。正直、流行りの異世界モノって好きになれないけど、彼女が書く作品は不思議と読めた。すっごくリアリティがある作風なんだ。もしあんたがよく行く書店でも売ってたらぜひ買ってほしい。絶対ハズレなんかじゃないよ。俺が保証する。


 なぁ、誰かを想ってる人を好きになるって、案外どこにでもありそうな話だよな。あの半年ぐらいの短い時間は、俺の人生という長編では、きっと数ページにも満たない出来事なんだろうけど、こいつは特別な展開なんだ。


 大人になった今でも思い出す。本ばかりを見つめる水晶のようなキラキラした瞳と、あの一瞬だけはにかんだ笑顔。もうあの笑顔を独り占めしているだろう奴に言ってやりたい。


 俺だって、その笑顔は好きだったんだぜって。

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