吾輩は犬である
赤
吾輩は犬である
僕は犬。名は翁丸。目下午睡をむさぼらん。
ここは山城国、平安京、大内裏、内裏、清涼殿。の東廂。
眼前に簀子──縁側のことだよ──があるけど、もちろんそっちのほうが日あたりもいいけど、ほとんど外だし、みっともないと思わないかい?
「まぁ、はしたない。中へお入りなさい」
ほらね。
あの女房は馬の命婦。
人間をなんで馬って呼ぶんだろうか。
彼女は命婦のおとどの世話係。
この命婦のおとどっていうのが天皇が飼ってる猫で、簀子でひなたぼっこでもしてたのかな、しかられてる。
「翁丸はどこ?命婦のおとどにかみつきなさい」
え、僕?
あー、まぁこれも僕の仕事なんだよね。おどかせって言うならおおせのままに。
どうだ、言ったとおりにしてやったぞ。猫はおのぞみどおりに御簾の中さ。
と思えば猫は天皇のふところの中で、彼の機嫌は害されたかのようで。
「命婦のおとどになんてことをするのだ。蔵人を呼べ」
しまった、見られた。
「忠隆これに」
「翁丸を打ちこらしめ、ただちに犬島へ追いやるのだ」
犬島?!備前だよ?遠くない?
かくかくしかじかで警備に追放されてしまって。
殿上猫が、叙五位がなんだって言うのさ。
僕だって中宮さまに飼われてて、中宮さまとってもきれいだし。
三月三日には頭の弁さまが柳の髪飾りに、桃のかんざしに、桜の枝の腰ざしに、いろいろつけて歩かせてくれたのに。
ていうか犬島って言ってたのに、大内裏から出されただけだし。
もどれるじゃん。
まよった。
あろうことかたどり着いたのは右京で、そこは湿地の未開発地帯だった。
どろだらけのまま三、四日たった昼。
空腹をかかえて僕は大内裏にころがりこんだ。
そしたら例の忠隆がやってきて、同僚と一緒に僕をたたきはじめた。
そりゃあ鳴きたくもなるよね。
「死んだな」なんて勝手に宣告されて、警備詰所からほうりだされた。
その日の夕方。
ひどくはれあがり、びっくりするほどみすぼらしい犬が登花殿にあらわれた。僕だ。
そこには中宮さまが住んでるはずで、僕は彼女を探した。
「やあやあ、翁丸じゃないか」
頭の弁さま!
彼はにっこり笑って言った、ごはんをさしだしながら。
「中宮さまのところに行くのだろう?足を洗っていきなさい」
さむい。
頭の弁さまは「歩いているうちに乾くだろう。さあ、早く」って送り出してくれたけど、体はひえるばかりで。
「翁丸か」
僕はついに中宮さまをみつけた。
「のらが歩きまわるにはまだ早いわ、ねぇ翁丸?」
僕は断じてのらじゃないぞ。
悔しくって黙ってたら、女房たちは「翁丸だ」とか「いや違う」とか好き勝手言う。
中宮さまは。
「右近がよく知っているわ、呼びなさい」
自分の犬だってくらいわからないの?
その右近がまたひどくって。
「似てはおりますが、これはひどいさまでございますね」
きみら人間がやったんじゃないか。
ここまでは、まだ希望があったけれど。
「『翁丸』と言っても、寄ってこないではありませんか。違う犬ですね。打ち殺して捨てた、と報告がありました。生きてはいないでしょう」
それを聞いて残念がる中宮さまは、僕のほうを見てない。
日が暮れて、ごはんをもらった。
頭の弁さまがくださったので十分だったので、あした食べようと寝てたら。
「食べませんね、やはり翁丸ではないのですか」
愚かな、かみついてやろうか。
次の日。
まだ夜も明けてないのに、頭の弁さまはやってきた。
「おはよう、翁丸」
手まねきするのでついていけば、そこは井戸。
「おいで、洗ってあげよう」
頭の弁さまはほほえんで、おけをかかえた。
僕が登花殿にもどるころには、みんな起床していて。
中宮さまは髪を整えたり、顔を洗ったりしている。
そばには鏡持ちの女房が仕えている。
僕は柱を背に、すわってそれを見ていた。
そして、やっぱりさむい。まだ乾いていないのだ。
「きのうは翁丸をひどく打ったものね。かわいそうに、死んでしまったわ。さぞかしつらかったでしょうね。なにに生れかわったかしら」
鏡の女房がぶつぶつとほざく。
僕は死んでないぞ、勝手に殺すな。
その女房をにらんでたら、こっちを見る目が丸くみひらかれた。
「翁丸、翁丸ね?」
鏡をほうって、満面の笑みで寄ってくる。
なにさ急に。
僕はひどく脱力してその場に伏してしまった。
そのようすを見た中宮さまは大層笑って、右近を呼んだ。
そして右近も、女房たちも大笑いして、それを聞いた天皇も登花殿にやってきた。
「驚いた、犬も涙を流すのだね」
と天皇も笑う。
泣いてないし。
井戸水がしたたってるだけだし。
鏡女房が「はれてるわ、手当をしてやりたい」と言い、聞いた他の女房は「ついにおおやけに同情しましたね、おたずねものなのですよ」と笑う。
さらには忠隆が聞きつけて、蔵人詰所からやってくる。
「縁起でもない。罪を犯したものなど登花殿にはけっしておりません」
って追いはらおうとするけど、彼はなかなかにしつこい。
「嘘をついて殿舎にかくまうおつもりですか。そう長くは隠せないでしょう」
そういうことがあって僕は許されて、きょうも内裏を闊歩している。
犬も人間のように同情されて泣くものなのか、とかなんとか、人間は勝手だよね。
吾輩は犬である 赤 @ziena
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