高度1万メートル、燃料0

只野夢窮

そして監獄は飛び続ける

 高度1万メートル、燃料0。要するにクソッタレだ。

 だが何よりクソッタレなのはその状態でジェット機が1時間も飛び続けていることだ。意味が分からない? 俺だってわからない。


 普通の旅行だったはずなのに、と数時間前を思い返してみる。

 特段おかしなことはない普通の飛行機だ。旅行に行くことにした俺は飛行機のチケットとホテルの予約をすませ、空港にフライト1時間前に到着した。手荷物検査に金属探知機を済ませて搭乗。特筆するようなこともなく飛行機が離陸する。

 想定通りの不快感、具体的には上昇する時の傾きと轟音と耳痛を耐えるとそこはもう雲の上だ。目の前のモニターが高度と外気温を表示する。そんなものを知らされたところで特段意味はないのだが。

 格安便ではないので娯楽はそこそこ程度にある。前の席の背面ネットに設置されている何冊かの雑誌。イヤホンを手すりの端子に差せばラジオ。専用のアプリをスマホにいれれば、機内Wi-Fiすら使える。ただまあ、機内Wi-Fiは速度が絶望的に遅いから、俺は使わない。

 ラジオのチャンネルを適当に回す。いい感じのジャズをかけている音楽チャンネルがあったのでそこに固定。ちょうど飲み物のカートを押した客室乗務員が通りがかったのでコンソメスープをもらう。空の上で飲む暖かいスープは、なんだか特別な味がする気がする。ま、こんな国内線のエコノミークラスでそこまでこだわってもいないだろうが。こういうのは映画館のポップコーンのようなもので、非日常と紐づけられた味を食べることが肝要なんだ…………


 体が温まり、イヤホンからはリラックスできる音楽が流れ、少しうとうとしていた時にそれが始まった。

 バンともドンとも形容しがたい轟音が立て続けに二度起き、ジェットコースターの山場のような落下と無重力感が一瞬生じた後、機内は騒然とした。右手の窓から、エンジンがあるはずの場所からポッキリ折れた無惨な翼が見えた。おそらくは左側も同じ状況だろう。機内は騒然としているがパニックには陥っていない。今は、まだ。

 翼が見える窓に近い、つまりは右列と左列の中央当たりの人間は事態をある程度理解している。俺もそうだ。そいつらが見た内容が口伝に前、後ろ、中央の乗客たちに伝わっていく。まるで波のように。

 客室乗務員たちはプロだった。正直俺もパニック状態だったからあまり覚えてはいないが、少なくとも出来うる限りの手段を尽くして乗客を落ち着かせ、次に起こることについて備えさせた。赤子を抱えた親を特に気にかけ、外国人がいれば英語で説明をしてやった。

 次に何が起きる? 急降下が一番ありそうなことだ。酸素マスクが天井から落ちてくるのかも。着水するなら救命胴衣を着なければならない。それとも、そんなことをする暇なく墜落する?

 緊張と囁き声に包まれた機内を赤ん坊の泣き声がつんざいた。


 そして、何も起きずに1時間が経過したというわけだ。

 窓の外を見る。やはりエンジンから先がない翼が、何事もないように空を飛んでいる。客室のモニターは電力節約のためだろうか、オフになってはいるが窓の外は未だに雲の上。急降下をしていないことは明白だ。それどころかほとんど高度が下がっていないように思える。

 普通はあり得ない。エンジンがなければ飛行機が飛ぶことなどできない。あるいは姿勢制御だけで滑空しているのかもしれない。しかしそれで高度を完全に保つことなどできはしない。それはエネルギー保存則に対する反逆だ。エンジンがエネルギーを生み出すことができない以上、不可逆的かつ不可避的にこの飛行機は地球の引力に引き付けられ、最終的には叩きつけられるはずだ。滑空は起きうる破滅を先延ばしにし、あるいは不時着への希望をつなぐかもしれないが、しかし浮き続けることなんてできるわけがない。

 それに姿勢制御だけで滑空すると言っても、エンジンが爆発すればガソリンが漏れ出るはずだ。そうなれば油圧制御の機器は正常に動作しないのではないか。飛行機の設計は専門ではないがそれぐらいのことは予想がつく。むろん非常時に備えて冗長性は確保されているはずだがこんなに滑らかに、大きな揺れもなく飛び続けられるものなのか? そうとはとても思えない。

 何か、とてもおかしなことが起こっているはずだ。

 

 2時間が経過した。節約のためといって客室内の明かりが消灯された。逆に言えば電気系統やバッテリーは無事だということだ。ということは電子機器類はある程度まともに動作していることになる。したところで、この不可解な状況を説明できるかどうかはパイロットたちにしかわからないだろうが。それに地上の人たちも今の状況について把握しているはずだ、管制とのやりとりはできるはずだから。今頃大騒ぎだろうな。俺の側ではお見合いで結婚させられた妻に愛情など感じてはいないが、妻のほうでは俺のことを好いているようだったから。しかしこうなってみると、俺の中にも「妻がこのことで悲しまなければいいのに」と思う程度の思い入れはあるようだ。愛情と認めるのはちょっと癪だが。

 どうか俺のことを嫌いでいてくれ。

 6時間が経過した。未だに飛行機は空の上を飛んでいる。何人かの幼児や小学生たちは、不安に耐えきれず泣きわめいている。子供に対して怒鳴るわけにはいかないが、いい加減親が黙らせろよと言う雰囲気を経験したことがある人は多いだろう、それを百倍した重苦しさが場を支配している。大人でも気の弱い人間は狂ったように何度も何度も避難経路のマニュアルを読み返している。極限の緊張状態が人をおかしくするには半日もいらないというのは新しい知見だが、生還してもそれを使えるような危ない仕事にはついていない。というか、地上の人間たちは何をしているんだ?

 12時間が経過した。シートベルト・ランプは消えないが、客室乗務員によって飲み物の余りと機内販売の軽食が配られた。とはいえ、これは2時間弱予定の国内線。大した量ではなく、食事は子供が丸ごと、大人は隣の人間と半分ずつ受け取ることになった。ごくわずかな量ではあるが物を腹に詰めたことで、少しひりついた空気が緩んだ。こうしてみると、人間はしょせん動物で、お腹が空いても子供が泣いてもイライラするもので、理性と感情の境目というのは真皮よりも薄く脆いものだと実感させられる。

 2日目。もっとも時間間隔などとうにない。暗闇で光る腕時計がこの飛行機内で日をまたいだことを俺に教えているだけだ。真っ暗な機内で寝ている人もいれば、かわいそうなぐらい震えている人もいる。暗い中必死で遺書を書いていた人たちはかなりいたが、そういった人たちもひとまずは書き終えて手を止めた頃合いである。いびきをかいている人間までいる。大人物なのか、それとも大馬鹿者なのか。俺はと言えば、驚くほどお腹が減らない。緊張状態だからだろうか。しかし寝る気にもなれない。

 そういえば日をまたぐ直前ぐらいにちょっとした事件があった。前方の席で、お腹を空かせた子供がついに止まることなく泣き始めた。後ろの大男がしびれを切らせ、「いい加減にしろ! お前らは倍食べ物をもらっておいて、まだわがままを言うのか! おい、てめえ、親なら黙らせろや!」と立ち上がり親に詰め寄ったところを客室乗務員と付近の乗客に取り押さえられ、今は席にテープで縛りつけられて結束バンドで手首足首を拘束されている。機内で暴れた人間に対してこのように取り押さえるのか、そりゃ対処がないわけないよな、と少し感心した。それにしても、この大男とて平時には子供を怒鳴りつけるような人物には見えない。人間は簡単に壊れるし、壊れるまでそれを察知することはできないということなのだろうか。空の監獄はまた一風変わった異常性で囚人を苛む。

 3日目。食料が尽きた。今のところ暴れる人はいない。子供の大半は泣く体力もなくなり、機内は異様な静けさに支配されている。そもそも、仮にガソリンが満タンだとしても3日間も飛び続けられる量はないはずだ。何が起こっている? 窓の外はこんなにも正常に青い空だというのに。

 4日目。隣の老人が死んだ。たぶん水分不足でエコノミークラス症候群になったんだろうと思う。でも医者もいないしわからない。死体と一緒に座る気もしないので、上の荷物入れに押し込んだ。少し快適になった。

 6日目。暴動が起きた。きっかけは些細なことだった。手荷物にお菓子を隠し持っていた人間がいたのだった。こっそりと、サクサクのチョコ菓子をばれないように食べるというのは無理があろうかと思われるが、そのような正常な思考回路は誰にも残ってはいない。元より全員に分けるだけの量もないのだ。

「お前だけ食ってるんじゃねえ!」

「その菓子寄越せやコラ!」

「誰が渡すかクソ野郎!」

 二人の殴り合いが三人、四人となり、そして全員となった。ありあわせの武器や握りこぶしで、お互いが死ぬまで殺し合った。客室乗務員たちは最期までプロだった。出来る限り事態を収拾しようとした。子供の上に覆いかぶさって守りまでした。今では脳漿をぶちまけて俺の足元に転がっている。

 騒ぎが終わった時、俺は漁夫の利を得たと思った。生存者はわずかで、無傷なのは俺だけだ。いや、そういえば拘束された大男がいるんだった。しかし拘束されているのだから何をか恐れん。それに食料も水分も今補給されて、状況は改善した。それにしたって、今機長は何をしているんだ。副機長だっているはずだろう。いくらなんだって墜落するか、不時着するか、どっちかはいい加減起きたっていいじゃないか。

 まあいいさ。とりあえずは腹いっぱいになるまで飲み食いして、それから寝よう。久しぶりだが、それは言うまでもなく俺の最低限の権利だ。難しいことを考えるのはそれからだ。


 8日目。俺は刺すような光で目を覚ました。昨日は久しぶりに腹いっぱい食べて、それから満腹の時にズボンのベルトを緩めるがごとく、シートベルトを外して寝たのだった。消灯されて久しいのだし、そもそも客席の明かりはこのようなサーチライトめいた直接照射ではない。

「生存者いました!」

「口から肉が…………」

 なんらかの特殊部隊のような服装の男たちが、俺にサーチライトのような光を照射して近づいてくる。銃も構えている。物騒だからやめて欲しい。命は大事なんだぞ。

「俺以外の人は?」

「今のところ、いない」

 あれ、と思った。拘束されていた大男は、少なくとも昨日の暴動時点では生きていたはずだ。もしかするとあの後、ついに体力尽き果てて衰弱死したのかもしれない。しめた、と思った。あいつさえいなければ、俺が人を食ったことを知っている人はいない。まあ仮にバレたって緊急避難は十二分に成立するだろうが。俺は生き延びたんだ。原因はわからないし、わかりたくもないが、生き延びたんだ、とにかく。明日からというわけにもいかないだろうが、日常に戻れる。ホテルの返金は無理だろうし仕事はしばらく有休か休職になるだろうが、とにかく戻れる。生き延びたんだ。なんてすばらしい。俺は運が良かったんだ。

 俺は朝日を一身に浴びて、生きている実感を取り戻した。

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高度1万メートル、燃料0 只野夢窮 @tadano_mukyu

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