ラストジェネレーション

鷺町一平

ラストジェネレーション

「アタシ、どうやら妊娠したみたいなんだ」

 そう康子から切り出されたとき俺は心臓が止まるかと思うほど驚いた。余りに驚きすぎてビールのジョッキを倒したくらいだ。康子は今年、37歳になる。高齢出産になることに驚いたんじゃない。第一、相手は俺じゃない。 康子とは5年前に離婚している。離婚の原因は俺のギャンブルによる借金。だがそれだけじゃない。あの頃の康子は、とある宗教に多額のお布施をしていた。嫌いで別れたわけじゃないのでこうして相談に乗っている。

夕刻の居酒屋はだいぶ混み始めてきていた。肴は刺身の盛り合わせ。戻り鰹が美味い。康子から妊娠を告げられた時、飲み始めたばかりの生ビールのジョッキを倒してしまったので、二杯目のジョッキが運ばれてきたところだが、店員に会話を聞かれなかったか気にしながら俺は言った。

「お前、自分が今何を言ってるかわかってるんだろうな?」

「わかってるわよ!」

「あいつには連絡したのか?」

康子はうつむくとかぶりを振って、か細い声でつぶやいた。

「三か月前にあいつが出て行ってから、連絡とってない……。アタシ、今頼れるの浩ちゃんしかいないのよ」

みるみる康子の肩が震えてきた。大粒の涙がぽとりと居酒屋の安っぽい合板のテーブルの上に落ちた。

俺は昔から康子に泣かれると弱い。言いたいことは山ほどあったが、ぐっと我慢して必要最小限のことだけ尋ねた。

「医者にはみせたのか?」

「母親の代から診てもらってるフクシマ医院のおじいちゃん先生が言うには4か月だって。専門じゃないから断定できないけど、間違いないじゃろって……。おじいちゃん先生すっごく興奮してた……」

それはそうだろう。なにしろ世界ではこの 37年間というもの子供が生まれていないのだ。当初は一時的な現象だろうと誰もが思っていた。やがてこれが限定的な現象ではなく全世界的に子供が生まれないということがわかるにつれ、世界はパニックに陥った。

世界中の研究機関が原因の追究を始めた。新種のウィルス、気候変動、電磁波、添加物の過剰摂取等による環境ホルモンの変化……ありとあらゆる事柄が俎上に載せられたがついに原因は解明できずに、いたずらに時だけが過ぎていった。

子供が生まれない、すなわち人類が生殖機能を失ったという現実に誰もが打ちのめされていた。その先にあるものは人類の滅亡しかないからだ。人々は絶望し世界中にテロと犯罪が蔓延した数十年を経て、やがて人類はゆっくりと世界の終わりを、人類の終焉という未来を受け入れつつあった。社会の平穏はかろうじて保たれ、人々は以前の生活に戻っていった。とはいえ、子供たちの笑い声が明るく響いていた時代と比較すれば、経済は衰退し、産業は停滞し、文明は萎縮しているのは明白だった。

康子は子供が生まれなくなる直前の最後の世代に属していた。そして彼等はラストジェネレーションと呼ばれた。

未来を託すべき次の世代がいないのであるから学校も保育園も産婦人科も必要が無くなってしまった。それでも政府はある時期、社会に子供の姿がないのは人心の荒廃を助長するということで、特区を設けてその地域の学校にロボットの子供を配置するなどの小手先の政策を実施したりしたが、所詮付け焼刃だったし、それ以上に犯罪やテロが蔓延してなんの効果もなかった。

産婦人科にしても、ラストジェネレーションが性的に成熟するまではなんとか産婦人科医を養成していたが、ラストジェネレーションが出産適齢期を過ぎつつある今、社会全体には諦めの空気が漂っていた。

 そんな中で、康子は妊娠したと、元の夫である俺に告げてきたのだ。これはいったいどういうことなんだ? この女は俺なんかに人類の未来を託そうとしているのか? 頭の中がこんがらがってきた。しがない水道屋の俺にいったい何が出来るというのだ! そんな俺の心の中の嵐を知ってか知らずか康子は言った。

「だってアタシ、静かに産みたいのよ」

 そのとき、店内にどよめきが起こった。

 居酒屋のテレビ画面がスポーツ中継から切り替わった。

「緊急ニュースをお伝えします。日本で 37年ぶりに女性が妊娠している可能性が高まっていることがわかりました。ラストジェネレーションに属する日本人女性です。政府は情報が確認出来次第この女性を隔離保護する予定で準備に入っています! 繰り返しお伝えします。全世界的に子供が生まれなくなってから 37年の歳月が流れました。しかし、37 年ぶりに子供が生まれる可能性が出てきました!」

思い思いに喋っていた居酒屋の客たちの視線が一斉にこのニュースを伝えるテレビ画面にくぎ付けになっていた。そして、一瞬の沈黙の後に大歓声が沸き上がった。


「それは本当なのか?」

首相官邸の北見総理の元に内閣官房副長官、東堂より報告が上げられた。

「町医者からカルテが持ち込まれました。鋭意、確認中です」

「事実なら、世界中がひっくりかえるぞ。マスコミ対策を徹底しろ。確認されるまで絶対にメディアに漏らすな!」

今年 68歳になる北見洋一郎は二年前に総理大臣に就任していた。人類から出産能力が完全に奪われた 37年前、彼は厚生労働省で少子化対策を推進する立場にいた。勿論数年前から出生率が上がらないという問題は議論されてきていた。だがそれはあくまで女性の職場進出、男女雇用機会均等法などによる複合的な問題により結婚年齢が上がり妊娠率が下っていった結果であった。まさか実際に妊娠する能力が無くなっているとは誰もが思っていなかった。原因はいっこうにわからなかった。少子化対策を推進する立場としての彼の苦悩は大きかった。あれから 37年が過ぎた。もはや誰一人としてこの緩やかな滅亡への道を回避できると思っている人間は居なかった。それは科学者であろうと民間人であろうと、政府関係者であろうと同じだった。それが、今になってどうして……。

そのとき執務室のテレビが臨時ニュースを伝える画面に変わった。

「…… 37年ぶりに子供が生まれる可能性が出てきました!」

  内閣官房副長官、東堂は色を失った。


「なんでこんな速さでニュースが出ちゃうんだ?」

唖然とした表情で居酒屋のテレビ画面を見つめていた俺は我に返り康子に言った。

「お前、誰かに言ったのか?」

「言ってないわよ。誰にも。あのおじいちゃん先生、だいぶ興奮してたからもしかして喋っちゃったんじゃないかしら。」

「それにしたって、医者には守秘義務ってものがあるだろうが!」

  居酒屋の店内はこのニュースを受けて蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。 37 年振りの子供かぁ……すげぇなぁ、閉ざされた未来へのかすかな希望の灯がともったってことなのか……それにしてもまさか日本から妊娠してる女性が出てくるとはなぁ、ラスジェネかぁ、いったいどこの誰なんだろうか……メシア降臨が現実になるんだろうか……ということは妊娠した女性は 21世紀のマリアってことになるのか……。

いつもならどうということはない居酒屋の世間話が急に熱を帯びた議論に変わってゆくのを苦々しく聞き流しながら、俺は康子に言った。

「とにかくここを出よう!」


 外に出た途端に俺たちは黒ずくめの集団に取り囲まれた。屈強な肉体と鋭い眼光を持つ男たち 5人を前にして、多少怯みながらも俺は康子を庇うように前に出た。

「なんだ、お前たちは!」

腹筋に力を込めて怒鳴ったつもりだったが多少声が裏返った。迫力ないこと夥しい。男たちの中では比較的体格が小さいリーダー格の男がプっと吹き出した。

「驚かせて済まない。怪しい者ではない。我々は政府関係者だ。厚生労働省管轄人口問題研究所特務部だ。高倉康子さんを保護警備する目的でやってきた。同行してもらいたい」

 リーダー格の男は、静かにしかし有無を言わさぬ威厳を持って言った。

厚生労働省の人口研究所特務部の精鋭部隊が出てきてはひとたまりもない。手荒な事もいとわない連中として通っている。しがない水道屋の出る幕じゃない。ここは大人しく従うしかない。

用意されたワンボックスカーにうやうやしくエスコートされて乗り込んだ康子に続いて、俺も乗り込もうとした時、屈強な男の腕に制された。リーダー格が言った。

「申し訳ないがあなたはここまでだ。村上浩司さん。あなたが高倉康子さんの元夫であることは承知しているが、現状、あなたに同行していただく意味はない」

「待ってください。浩ちゃんと一緒じゃなければアタシ、行きません!今のアタシにはこの人が必要なんです」

康子は血相を変えて一旦乗り込んだクルマから降りてきて、語気を強めて訴えた。 リーダー格は、一瞬呆気にとられたような表情を見せた後、不機嫌そうに言った。

「そういうことなら仕方ありませんな」

こうして俺と康子を乗せたワゴン車は居酒屋の前からゆっくり発進していった。康子はワゴン車の窓に頭をもたせかけて外の景色を見ていた。窓越しに空が見えた。 九月の夜空にはくっきりと中秋の名月が映えていた。


 奥野直基は、ラストジェネレーションの女性が妊娠した可能性を伝えるニュースに接して、喜び半ば落胆半ばだった。「うれしさも中くらいなりおらが春」という一茶の句のような奇妙な心境だった。

 ちょうど三年前に、東京オリンピックが、期待されつつも、さして盛り上がらないまま中途半端に終わった。これを機に若者のアスリートが居ない中高年だけのスポーツの祭典に意義があるのだろうかという反対派が勢力を増して、ついに次のパリ開催のオリンピックが中止に追い込まれたときの気分に似ていた。

 奥野自身もラストジェネレーションだった。彼等は仲間内で“ラスジェネ”と短縮して呼んでいた。“ラスジェネ”の妊娠は、多少誇らしい気持ちにはなった。だが、そのまだ名前すら発表されていない“ 21世紀のマリア”が、政府の全面的な庇護のもと、完全管理されて出産を迎えるという計画に、反感を覚えたのであった。


 彼等の世代は、生まれたときから世間からは特別な目で見られ続け、腫れ物に触るかのような扱いを受けてきた。何しろ彼らの次の世代はないのである。貴重にして希少。上の世代は、彼らのことをどう扱っていいか分からなかった。丁寧に慎重にと、可能な限り甘やかしてきた。

  結果、“ラスジェネ”は身勝手で我儘、他者を思いやることが出来ない性格が他の世代より圧倒的に多くなってしまったと言われている。そうして甘やかされてきた彼等を苦々しく思う世代もいた。

 それは、主に高齢世代に多く“ラスジェネ”を毛嫌いする人も少なくなかった。そしてそういう人々を奥野たち一部の“ラスジェネ”も嫌っていた。こうしてジェネレーションギャップも深く静かに進行していた。

 一方で、“ラスジェネ”は、人類の最後の希望であり人々の期待を一身に背負っていたことも間違いのない事実であった。彼等には来たるべき性的成熟期に向けて、幼少時からありとあらゆる検査が実施された。奥野も例外ではなく、来る日も来る日も検査漬けの日々を子供時代から過ごしていた。彼の周囲の子供たちは、それが当たり前だと思っていたので、何の抵抗もなく受け入れていた。

 ところが奥野はそれが耐えられなかった。ある日突然、彼の心に生まれたほんの小さなさざ波のような怒りと不信はだんだんと成長し、大きなうねりとなってついに爆発した。 中学生の時、いつものように血液検査があった。ところがこの日はたまたま新人が担当していて採血の針が入らず何度もやり直した。焦ったこの新人は照れ隠しに奥野くんはどんな子がタイプなの?と聞いてきた。当時好きだったアニメの主人公の名前を何の気なしに挙げた。するとこの新人はアニメがタイプなの。まだ子供ねと笑ったのだった。針はジクリと奥野の心を刺し貫いた。日頃溜まりに溜まっていた鬱憤の危険水位を超えてしまった瞬間だった。

「僕は、お前らのモルモットじゃないっ」

 奥野の叫びは保健室を超えて学校中に響き渡った。この時から奥野は政府のやり方を信じなくなった。金曜日になると学校を早退して国会前のデモに参加するようになった。 大学生の時に、Last generation Emergency Action for Liberal Democracy-s(自由と民主主義のためのラストジェネレーション緊急行動)LEALDs(レアルズ)という政治団体を立ち上げ、その代表になった。

 同じように考える“ラスジェネ”が全国から多く加入してきた。今では東京、大阪、名古屋、沖縄など大都市圏に活動拠点を持つ団体に成長した。工学部を出て一旦は大手電機メーカーに就職したが、3年程で退職した。最近は反政府活動の集会を各地で開いている。基地反対運動や護憲運動にも積極的にかかわるようになっている。今の政府は危うい。

 だからこそ、“ラスジェネ”が政府の広報に利用されるのは。とても嫌な感じがしたのだった。


 内閣官房副長官、東堂貴則は疑心暗鬼になっていた。北見総理からメディア対策を徹底しろと言われた矢先にマスコミにこの世紀の大スクープをすっぱ抜かれるという大失態。

 それにしてもどうしてこんなに簡単にそして異様な速さで情報が漏れてしまうのか。導き出される結論はたった一つしかなかった。東堂は同行している内閣官房副長官補、山沖勝人に命じた。

「町医者が保健所に持ち込んだカルテの件を知っていたのは何人くらいいるのか調査する必要がある」

「わかりました。すぐに調査します」


 クルマでの移動中、康子と俺はリーダー格から今後の説明を受けた。

「これから、ラボにお連れする。ラボでは厚生労働省直属の産婦人科医チームが、 24時間体制で康子さんの健康状態をくまなくチェックして、出産まで責任をもって管理にあたる。もちろん生活の心配は一切ありません」

大人しく聞いていた康子は素っ頓狂な声を上げた。

「え~っ、仕事は?アタシ仕事好きなんで出来るだけ続けたいんですけどぉ」

「 37年振りの妊婦に仕事をさせておくほど日本政府は愚鈍ではありません。美容師の仕事は辞めていただき胎教に専念していただきます。これからは生活の拠点がラボになります」

「アタシは普段通りの生活がしたいんだけどな」

まだブチブチ言ってる康子の隣で内心俺は呆れていた。仕事はしなくていい、しかも生活の心配もないことに一体何の不満があるというのだろうか、この女は。俺なら諸手を挙げて大歓迎だ。康子は昔からこういうところがあった。自分の生活圏を頑なに守り何事にも流されない、なんの打算もない純粋さのようなもの。これは打算ばかり考えてる俺にはない美点だ。

 クルマは高速に入ったようだった。リーダー格の男がやっと名乗った。水谷というその男が言うことには、目下全力を挙げて康子の内縁の夫、すなわち康子を妊娠させた相手である大隅泉の所在を確認中であることが康子に告げられた。

「登録されている住所には、大隅氏は居住していないことは確認済です。まぁ、公安が総力を結集して調査していますから、じきに見つかると思いますが」

 こころなしか、大隅の話になると康子の表情が歪んだように思えた。俺は康子が大隅との出逢いを語ってくれた時のことを思い出していた。

去年の 12月、久々に康子から連絡があっていつもの居酒屋で待ち合わせた。

「今日は水道管の凍結修理の仕事でキツかったわぁ。とりあえず乾杯」

 久しぶりに会った康子は綺麗になっていた。

「今日は寒かったものね。お疲れ様~」

 ビールが五臓六腑に沁みわたる。

「この瞬間の為に生きてるって気がするわぁ」

「よく言うわよ。もともとそんなにお酒好きじゃないじゃない」

  屈託なく笑った笑顔が少し眩しかった。

「気分だよ、気分。そんな気分になるときあるだろ。んで、なんだよ話って。ようやく新しい男でも出来たのか」

「ビンゴ! 彼が出来たんだ。今日はその馴れ初めを聞いて欲しくて。ど~せまだ彼女も居ない浩ちゃんを羨ましがらせてあげようと思ってさ」

  照れ隠しに言った言葉が図星だった。薄々そうじゃないかと思っていたが、いざ康子の口からはっきりオトコが出来たと聞かされると胸の奥底がチクリと痛んだ。

 大隅泉が康子の勤める美容院にやってきたのは、台風一過で気温が前日よりぐっと上がった秋晴れの午後だった。大隅は物静かではあったが、最初から一風変わった男だった。

 ヤンキースの野球帽を目深にかぶり手には胡桃を持っていた。

美容院のセットチェアに座ってもまだ野球帽を取る気配がなかった。

「ヤンキースお好きだったんですか?アタシもファンでしたよ。でも本当は阪神タイガースのほうがもっと好きだったんですけどね」

野球の話をしながら康子は男が被っていた野球帽をさりげなく傍らのコートハンガーに掛けた。

 あらゆるスポーツが例外なく根底から崩れかかっていた。スポーツを支える若い世代がいないため、プロ野球もペナントレースを争っていたのは十年前までだった。それ以降は年に数試合のOB戦が行われるだけになっていた。贔屓のチームを語るのも過去形でしかない。

 ところが康子から野球の話を振ってもこの男は食いついてこないばかりか何の反応も示さなかった。ヤンキースの野球帽は単にファッションとして被っているだけで野球はそれほど好きではないのかもしれないと康子は考えた。

「どんな感じにしましょうか?」

「……似合う髪型に……」

 実際こういうオーダーが一番難しい。お任せだなと判断して康子は髪に櫛を入れカットをし始めた。その髪に触れた瞬間、康子は不思議な感覚にとらわれた。康子は経験上いろんな髪質を知っている。だがこんな髪は初めてだった。今まで経験したことのない髪質に戸惑った。見た感じは量も多くて剛毛そうだったが一本一本が細くてしなやか。ふわふわだけど指にまとわりついてくるかのような感覚なんだけどそのくせサラサラ。指どおりが気持ちいい。いつまでも触れていたい髪…。  

  実際のところ、康子はこの髪から大隅のことを好きになっていったのかもしれなかった。大隅が髪を整えに店を訪れるたび、あの髪に触れることが出来るのかと思うと心ときめいたのだった。

 人が恋に落ちるきっかけがスキンシップにもあるとするならば、手を握られた、肩を抱かれた、抱きしめられた……、そんな王道パターンからは外れるかもしれないけれども、康子の場合は間違いなく髪に触れた瞬間だったと言えた。それがどれだけレアなパターンであったかどうかはともかくも。

 幾たびか大隅が店を訪れ、言葉を交わすようになりお互いが好意を抱いているとわかったのち、二人はデートをするようになった。頻繁に会うようになって初めて、康子は大隅が手の中で転がしているのが胡桃ではないことを知った。

「アタシ、てっきり胡桃だとばっかり思ってた」

「桃の種さ。ほら、胡桃より平べったいでしょ」

 大隅は手の中の桃の種を康子に見せてくれた。その手のひらには、小さな桃の種が三つ並んでいた。

寡黙な大隅は自分のことはあまり話さなかった。かといって康子もしつこく詮索するような性質でもないので大隅に関しては、あまり情報を持っていなかった。

元夫としては、別れたとはいえ自分の妻だった女が新しい男と親しくなっていく過程を聞かされるのは、あまり気持ちのいいものではなかった。

 特に自分とは全くタイプの違う相手の男が連れて行くデート場所が海や山や文化的な場所ばかりだというのは堪えた。俺が康子を結婚前によく連れて行ったのは、例えばパチンコ屋だったり競馬場だったりギャンブルの匂いのする場所ばかりだった。

康子にとってはそういう前の夫とのギャップも新鮮だったんだろうなと思ったら、一攫千金狙いでギャンブルにトチ狂っちまい、一向に家庭を顧みなかった 7年間の結婚生活で康子を幸せに出来なかった後悔ばかりが押し寄せてきた。

 だが、大隅だって十分無責任な奴ではないか! 付き合いだして間もなく大隅は康子と同棲を始めた。俺が居酒屋で幸せそうな康子のノロケを聞いたのはこの頃の話だ。そして今年の春先に、不意に大隅は行方をくらましたのだった。

 もう俺は康子の涙は見たくないんだ。結婚していたときギャンブル三昧で借金を抱えて、散々泣かしてきた俺が言うのは説得力がないかもしれない。

俺の心の中で感情がささくれだっていた。それは康子に対する未練なのか、 37年ぶりの子供の父親が自分ではなかったという会ったことのない大隅への嫉妬なのか、いろんな感情が心の中で渦を巻いて、訳がわからなくなっていた。

康子はというといつの間にかワゴン車の窓に頭をもたせかけたまま、かすかな寝息を立てていた。この状況下でよく寝られるもんだと半ば呆れたが、この天真爛漫さが康子の魅力でもあった。

 ともかく大隅の行方がわからない今、康子を支えられるのは自分しかいないでないかと俺は覚悟を決めた。

ワゴン車が急ブレーキをかけて止まった。

「なぁ~に?」

 お陰で康子も起きてしまった。もうラボに着いたのだろうか。なにかがおかしい。

「どうしたんだ?」

「交通事故らしい。道路の真ん中に人が倒れていて通れない。ちょっと見てくる」

 そう言って水谷は、もうひとりの屈強な男を従えて降りて行った。嫌な予感がした。倒れている男を遠巻きに見ている数人の男たちと数台のクルマ。近づいて行った水谷ともう一人が男たちに話しかけようとした瞬間、道路に倒れていた男が素早く立ち上がるのが見えた。

水谷ともう一人がスローモーションのように倒れる。車内に残っていた三人が身構えるのとほとんど同時に走ってきた男たちがドアを開けようとする。

 ドアをロックしてワゴン車を急発進させようとする特務部に対して、襲撃してきた男たちはタイヤに向けて発砲してパンクさせた。ガラスが割られスプレーされたガスが車内に充満した。これは拉致だ、不味い事になったと認識した。俺は咄嗟に康子に覆いかぶさり盾になったが、すぐさま意識を失った。


 高倉康子が拉致されたという衝撃の第一報が官邸危機管理センターにもたらされた。これを受けて内閣官房副長官、東堂貴則は直ちに内閣総理大臣、北見洋一郎を本部長とする政府対策本部を設置すると共に、緊急参集チームを招集した。

「どういうことなんだ! 厚労省人口研究所特務部の精鋭たちが、妊娠女性の保護隔離に向かったんじゃないのか!」

苛立ちを隠せない北見総理はテーブルを拳で叩いた。

「居酒屋で彼女を保護してラボに向かう途中にテロリストグループに拉致された模様です」

「今夜、かの妊娠女性を保護することやラボに向かうことを、何故テロ集団が知っているんだ? 情報管理はどうなっているのだ。すべて筒抜けじゃないか!」

「お言葉ですが、情報漏洩は今に始まったことではありません」

「今、そんなことをここで議論しても始まらん。詳細な状況報告をしてくれ!」

 北見総理の怒気を孕んだ物言いに、緊張の面持ちで閣僚たちが報告に追われる中、対策本部のテレビモニターにまたしても緊急ニュースが流れた。

「緊急ニュースです!先程お伝えした 37年振りに妊娠の可能性のある日本人女性“ 21世紀のマリア”が、テロリスト集団に拉致された模様です!」

 食い入るように画面を凝視していた北見総理は頭を抱えた。

康子の拉致は各局で大々的に報道されていた。その内容はどれもこれも政府の無能ぶりを激しく糾弾する内容で、このニュースは瞬く間に世界中に配信された。ただ不思議なことに各局で共通していたのは「妊娠の可能性のある日本人女性」ということで、高倉康子と名前を特定して報道してる局は一つとしてなかったことだ。


 官邸 5階の長い廊下を内閣官房副長官補、山沖と並んで歩きながら内閣官房副長官、東堂は言った。

「不味いな、下手すりゃ内閣吹っ飛ぶぞ!」

「支持率がどこまで下がるかですね。政局になりますね」

「それにしても、報道じゃテロ集団って言ってたな」

 それを受けて、小わきに分厚いファイルを抱えた山沖が言った。

「現場には、反政府集団レアルズのロゴマークが落ちていたんですが、これは偽装工作ではないかとみられています」

「そうだな。警視庁上層部では、 K国のカルト教団の犯行である可能性が示唆されているんだが、教団からの強い抗議と反発が来ていて発表出来ないようだ。政府筋からも圧力がかかってるらしい」

「それを受けてマスコミもはっきり報道出来ないわけですか」

「というか、むしろマスコミは好都合なんだろう。マスコミ関係者の中にも教団の息のかかった奴らはあちこちに食い込んでるからな。忠誠を誓ってる教団の名を出さなくてよくてホッとしてるっていうのが本音だろ」

「またしても“報道しない自由”を行使してるって事ですね」

「本来、真実を報道するってのがマスコミの使命だろ。ところがそんな矜持きょうじなんて奴らはこれっぽっちも持ちあわせちゃいないのさ!それにしても黒幕は誰なんだ!」

 眉間に深い皴を寄せて吐き捨てるようにつぶやいた次の瞬間、東堂は思い出したように山沖に尋ねた。

「そういえば、カルテの件はどうなった?」

「はい、保健所から県を通して厚労省に持ち込まれています。この間事情を知る者は保健所担当者、保健所所長をはじめ、計 18名にのぼりますが、聞き取り調査の結果、いずれもシロです。まぁ、ウソをついている可能性も捨てきれませんが」

「ま、全員シロだろう。あの一糸乱れぬ政府批判キャンペーンの張り方といい、警視庁への圧力といい、雑魚に出来ることじゃない。もっと上だ!」


 康子は泣いていた。テーブルに突っ伏して泣いていた。その肩が震えていた。傍らには倒れた洗濯籠。中には干しかけの洗濯物がそのままになっていた。床には何枚もの請求書が散乱していた。

 いつの悪夢だこれは…。結婚していたときの悪夢だ。場面転換。今度は教団支部に俺が乗り込んでいって康子のお布施を、無理矢理持っていくところだ。支部長の福岡夏美がなにか叫んでいる。ここでも康子は泣きながらなにかわめいている……。

あの頃は、いつも俺は康子を泣かしてばかりだったな……。

 ぼやけた視界の中に、福岡夏美の端正な顔立ちが浮き上がってきた。ようやく意識を取り戻した俺を、教団支部長、福岡夏美がのぞき込んでいたのだ。

「ようやくお目覚めのようね。お久しぶりね、村上君。ピーチ教団にようこそ」

  俺はあたりを見回した。どうやらここは会議室のようだ。ということは教団の東京本部か。椅子に座らされていたが両手は飛びかかれないように、後ろ手で縛られていた。

「逢いたくなんかなかったよ。もうあんたらとはとっくに縁が切れたと思ってたわ。なんでこんな事した?どういうつもりだ!康子はどうした!」

「短気なところは治ってないわねぇ。質問は一つずつね。康子ちゃん大切なゲストだからⅤⅠPルームでくつろいでもらってるわ。ウチの教団に帰依している康子ちゃんが妊娠したのよ~。びっくりしたわぁ~。それもこの世界に子供が生まれなくなってから 37年ぶり。生まれてくる子供と康子ちゃんの人権は教団に帰属してるでしょう?このピーチ教団の広告塔になってもらうわ。日本人である前にまずウチの信者なんですもの」

 そう言って、夏子はこぼれんばかりの笑顔を作ってみせた。 7年前と何ひとつ変わっていなかった。多分整形しているのだろう。この蠱惑的な微笑に、一体何人の男たちが騙されて信者になったことだろう。この女は当初この俺すらも取り込もうと画策してきたのだった。

「なにを寝ぼけたことを言ってるんだ。もう脱会したんだ。関係ない。康子の人権が教団に帰属するだと?バカも休み休み言え!康子は教団の所有物じゃない。人権侵害だ。あ、お前らに基本的人権の尊重とか言ってもわかるはずないか」

 俺は後ろ手に縛られたまま、椅子から身を乗り出して吠えた。

「ふん生意気ね。せいぜい粋がってなさい。あなたの生殺与奪権はこちらにあるってことを忘れないことね」

 まずい、そうだった。あんまり刺激するのは得策じゃない。おそるおそる訊いてみた。

「特務部の連中はどうしたんだ?水谷はどこだ?」

「あなたが知る必要はないわ」

「まさか……、殺したのか?」

「キチンと“処理”したわ」

  背筋に冷たい汗が流れた。

「こんなやり方しても、康子が拉致されたことは隠すことは出来ない。今頃世間は、蜂の巣をつついたような大騒ぎになってるだろう。広告塔にするなんて無理に決まってる」

 夏美は左の口角だけを不適にあげて挑むように言った。

「教団は康子ちゃんを拉致なんてしていませ~ん。テロ集団から救い出したのよ。本人自らにそう会見させるわ。そこで自らの意思で、政府の保護より教団を選んだということを強調させるの」

「そんな事出来る筈ないだろ。第一、康子が承知する訳ない!」

「ふふん、そうかしら?村上浩司を亡き者にするって脅して、記者会見させるって手もあるわよ」

 夏美は後ろ手に縛られてる俺の椅子の手すりに足を交差させて半分腰をかけた。黒のタイトスカートから伸びた太ももはまだまだ十二分に艶めかしい。そして体を密着させて俺の太ももに手を乗せながら耳元で囁いた。

「あなた、康子ちゃんにとっては今でも大切な人らしいわね」

「馬鹿な。……俺は康子にとってエックスハズバンド(前夫)に過ぎない。相談にはのってはいるけど」

 俺は動揺を隠せなかった。

「本気にしないでよ。バカをからかうと面白いわぁ。子供を流産させると脅かしたのよ」

「そんなことしたら、教団の広告塔にする計画そのものが成り立たないじゃね~か。本末転倒だろうがよ!」

 夏美は俺の傍から離れると両腕を胸の前に組んで仁王立ちして言った。

「なんでも信じるのね。面白いわぁ。別人を立てて会見するのよ。今マスコミに出てる情報っていうのは、“ 37年振りに日本人女性が妊娠した”って事のみよね。幸いに康子ちゃんの身元も名前も顔写真もまだ公になっていないわ。こちらで用意した“替え玉”に会見させるの。替え玉なら動揺も緊張も逡巡もないわ」

 俺は呆れかえった。このカルト教団には魂がない。心がない。たとえ一時であったにせよ、こんなクソ教団に魂の安らぎを求めた康子が不憫でならなかった。

「あなたは本当は必要ないけど、“母体”の精神の“安定剤”として、生かしておいてあげるわ」

「そうそう、教祖が“ 21世紀のマリア”たる康子ちゃんの“安定剤”を見ておきたいとおっしゃってるわ」

 夏美が目くばせすると、部屋の隅にいた教団の男が俺を縛っていた紐をほどきにやってきた。

「教祖が日本に来てるのか? 祖国の本部に鎮座ましましてるんじゃないのか」

「教祖は何度もお忍びで日本に来ているわ」

「まさか、ネズミの国で遊んでるんじゃね~んだろうな?」

「日本における布教の視察が主よ。時には陣頭指揮を執ることもあるわ」

「案外とヒマなんだな」

「シャラップ! バカは口数が多くて困るわ」

 また怒らせちまったかな。だけど口数が多いのはどっちだ。どっちにせよ、本気で怒ってるようには見えない。

「私達、支部長クラスでもなかなか拝謁させてもらえないの。ありがたく思いなさい」

「ふん、身に余る光栄ですと瞳をキラキラさせて涙流して、俺が感激するとでも思ったか」

 腕についた紐の痕の痣を撫でまわしながら、俺は毒づいた。


俺は、支部長、福岡夏美に案内されて、広大な部屋に通された。そこは壁一面が教団のシンボルカラーであるピンクに統一されグラデーションがかかっていた。壁の上側は薄いラベンダーピンク、下側に下がるにつれて濃いビビッドピンクになっていく。そして正面の壁の真ん中にはピーチ教団のシンボルマークである二つに割れた桃の図案が威嚇するように俺を出迎えた。

 そしてそのシンボルマークの下の、最高級のキューバンマホガニーの立派なデスクの向こう側の皮張りのソファーに、こちらに背を向けてその男は座っていた。

夏美が俺と話す時とは打って変わって、別人のように緊張した声でその男に連れてきましたと告げた。

 男がゆっくりとソファーごと振り返った。こいつがピーチ教団の教祖なのか……。

想像とはまるで違っていた。年齢は五十代半ばだろうか、広い額に面長の顔、オールバックの髪には白いものが混ざるが、フチなしの眼鏡をかけた知的な眼差しがまっすぐ俺を射すくめている。口ひげを蓄え一見、大学教授のような風貌の中に、神経質そうな薄い唇がそこはかとない違和感を漂わせていた。

「君が康子の前の夫か。私が教祖のキム・チャンヌだ」

  恐ろしく響く低音ボイスだった。教祖は夏美に目くばせをして部屋から出ていくように促した。夏美は素直に従った。

俺はここで気圧されてなるものかと虚勢を張って下っ腹に力を込めて言った。

「村上浩司だ。康子を拉致した目的は、教団の広告塔にする為だそうだな」

「そうだともそうではないともいえる」

「なんじゃそりゃ。禅問答か」

「イエスならどうだというのだ」

「確かに康子が子供を産めば、37年振りだし、人類にとって福音だ。しかし、種の繁栄って観点からいえば、子供一人だけではどうにもならないことは分かっているだろう?世界各地で次々と子供が生まれるようにならないとどうにもならない」

「どうして今回の妊娠がその第一歩だと考えないのだ? ピーチ教団の信者を爆発的に増やし経典を全世界に浸透させる、これが私の夢だ」

 こいつは本心から言ってるのだろうか?訝りながら俺は訊きたかった事をぶつけてみた。

「ところで、政府は今、康子を妊娠させた相手、大隅泉を躍起になって探している。奴はこの教団の中にいるのか?」

「何故だ?」

 大隅は康子と会った時、常に桃の種を持ち歩いていた。それはすなわち教団から派遣されたことを示唆しているのではあるまいか。

「大隅泉は、教団が派遣したんだろう?」

「異な事を言う男だな。仮に教団が大隅なる人物を差し向けたとして、その男に繁殖能力が備わっているとどうやってわかるのだ? また高倉康子に繁殖能力があるとどうしてわかる? 高倉康子はラストジェネレーションだ。彼等は性的に成熟するまでに、人類生存の最後の可能性、いわば未来を背負ってありとあらゆる検査が行われた世代だ。そしてどんな小さな可能性にでもすがりつきたかった研究者が繁殖能力完全消失の結論を出したから、我々は絶望したのではなかったか。繁殖能力のある男女がそう簡単に見つかるなら、教団がとっくにやっておるわ。それが出来ないから今に至っている……違うかな?」

 確かにその通りだった。

「それなら、大隅は本当に教団が送り込んだんじゃないんだな?」

「くどいっ」

 しばしの沈黙の後、教祖は厳かな声でゆっくりと言った。

「お前は、他の動植物がなんでもないのに何で人間だけが次の世代が生まれないと思うのかね?」

「偉い学者でもない、一介の水道屋にそんな深淵な事がわかってたまるか!」

「長い間、人間はこの星の食物連鎖の頂点に立って来たことは自他ともに認めるところだ。そして、破壊の限りを尽くしてきた。我々が自分たちだけの幸福の追求のために、開発の名において、人間が絶滅に追い込んだ動植物がどれくらいあるか知っているかね?」

 俺はかぶりを振った。

「1950年以降だけでも、カリブのモンクアザラシ、ジャワトラ、日本のトキなどをはじめとして17種もいる。いちばん有名なのが1681年に絶滅したドードーという鳥だ。この鳥はマダガスカル沖のモーリシャス島に生息していた。1598年に公式に存在が報告されてからわずか83年で絶滅に追いやられた。空を飛べない鳥で、島に入植してきた人間が乱獲したことと人間が持ち込んだ犬やブタなどが雛や卵を捕食して個体数が激減したことが原因だ。 絶滅危惧種のレッドリストにはさらに30種の動物が載っている……」

「近々そのリストにまさか人間が載るようになるとはねぇ……」

 俺は大きくため息をついた。 教祖は続けた。

「人間は食物連鎖の頂点にふんぞり返りながら、レッドリストを作って次はどの種を保護対象にするかと上から目線で動物を眺めていたが、自分たちが絶滅の危機に瀕し今や恐怖におののいてる。これは神の怒りだよ。人類は神の警告を無視し続けた。台風、地震、津波等の相次ぐ自然災害……。神はその都度、人間に警告を与えてきた。だが、人間はいっこうに反省しようとしないばかりか、あろうことか、愚かにも戦争を繰り返し他の民族をないがしろにしてきた。特に日本は五千年間独立を貫いてきた歴史ある大国、ウリナラを侵略した。そして『創氏改名』で名前を奪われ、文字を奪われ、13歳の少女を含んだ二十万人の女性が日本軍に強制連行されて従軍慰安婦という名の性奴隷にされた。さらに戦争末期の昭和19年には多数の朝鮮人労務者が満足な賃金も与えられずに強制労働させられた。だが日本はこれらの全てにおいて謝罪も賠償もせずに逃げ回っている卑怯者だ! ゆえに神の逆鱗に触れたのだ。近年、日本に阪神淡路大震災や東日本大震災、福島第一原発事故が起こっているのは偶然ではない。神は日本を永遠に赦しはしないのだ! そんな呪われた民族であるチョッパリに“21世紀のマリア”が居ていいはずがないではないか!」

 口から泡を飛ばし、焦点が定まらず中空の一点を見つめるその目は最早、尋常ではなかった。当初感じた理知的な部分など消し飛んでしまって、正気を失なったその表情たるやまるで牙をむきだした獣のようであった。

 これが有名な火病ファビョンってやつかぁと思いつつ、俺は日本人として反論しないわけにはいかなかった。

「おいっ、教祖さんよぉ、いろいろ体裁のいい事並べてたが、結局行きつく先は日本批判かよ。ただの反日じゃね~か! 悪いけど反論させてもらうぜ。慰安婦は女衒が集めたもので日本軍が関与した証拠なんていっさいないし、大体二十万人なんて大嘘も……」

 言い終わらないうちに、ますます激昂した教祖の右フックが飛んできた。五十代のおっさんの蠅がとまるようなパンチは難なくスウェイしてかわした俺だったが、後ろの壁際に控えていたガタイのいい教祖のボディガードの膝蹴りは死角だった。ズシンと骨身に沁みる一発をみぞおちにくらってもんどりうって床に倒れる寸前に、またしても意識が遠のいていく中、教祖の絶叫が聞こえてきた。

「歴史を忘れた民族に未来はない」


  内閣官房長官執務室で、官房長官、二塚茂利を前に内閣官房副長官、東堂貴則はこみあげる怒りを懸命に抑えていた。デスクの上にはピーチ教団のシンボルマークである二つに割れた桃の図案が入ったネクタイピンが置かれていた。

「あなただったのか。でも北見総理の懐刀と言われ政権の中枢を担うあんたが反日だったとはね。この国の一体何を信じればいいんだ! ショックで言葉もありませんよ」

面従腹背めんじゅうふくはいだよ。北見総理の信頼を勝ち得るまでは苦労した。だがいったん信頼を得てしまえば笑顔で揉み手する裏で総理の顔に足で砂をかけてやった」

「あなたは、政府のスポークスマンとして、毎日記者相手に日本政府の立場を発表する側でしょう。今回の件では全世界的にバッシングを受ける立場じゃないですか。自分で自分の首を絞めてるようなものだ」

「それこそ面従腹背の面目躍如ってものだよ。うれしいねぇ。大嫌いな日本がこれから永遠に世界中から叩かれ続けられるかと思うと血沸き肉躍るね。日本の中枢に入り込んで中から日本を滅ぼす、まさにトロイアの木馬、埋伏まいふくの毒さ……これが私の長年の夢だったんだ。もうじき叶うのかと思うと夜も眠れない程、興奮してくるよ」

 二塚は頭髪が寂しくなった額を自らの右手でぴしゃぴしゃと叩き、実に下品に笑った。 猛烈な不快感がこみ上げる中、東堂は絞り出すように二塚に尋ねた。

「なんでそこまで日本を憎むんですか?」

はんだ。日本人は反省していない。ウリナラの恨みは千年消えない。劣等民族の日本人に二十一世紀のマリアが誕生することは許せない!」

「なに馬鹿な事を! もうじき人類が絶滅するかどうかの瀬戸際だぞ。そんな事言ってる場合か!」

「人類が滅亡しても、我が民族の恨みは消えない!」

 怒りに任せて東堂は、二塚をぶん殴った。

 康子は目覚めてから、ずっと丁重にあつかわれていた。かつてピーチ教団の信者だった康子は東京本部には一度来たことがあったが、もちろんこのVIPルームに足を踏み入れたことはなかった。

 それにしてもどうしてこんな事になっちゃったんだろう。ラストジェネレーションのオーラス、すなわち自分の誕生日である1986年4月 26日が、チェルノブイリ原発事故が起こった日であったことを大隅泉は知っていた。その日以降、赤ちゃんが生まれることはなかった。自分がこの世界でいちばん若い人間であるということは知識としては理解していたが、それまでそれを意識することはなかった。 なぜなら康子たちはラストジェネレーションとして一括りとして扱われてきたからだ。だけど、大隅は異様にそこにこだわっていた……。なぜかしら?

  厳密に言うとラストジェネレーションとは1985年1月1日以降に生まれた世代を差す。大隅がそこにこだわった意味は何?クルミのように桃の種をいつもこすりあわせていたのは何故?当時はただの変り者だとしか思っていなかった。とにかくアタシは寂しかった。あの髪にずっと触れていると心地よかった。でも彼は突然いなくなってしまった。 父も母も他界してしまい、アタシを寂しさから救ってくれた大隅も居なくなってしまったとき、アタシには頼れる人は元亭主の浩ちゃんしかいなかった。浩ちゃんは欠点だらけの人間だ。短気だし、ギャンブルに夢中で、結婚していたときは一度も家事を手伝ってくれたことすらない。

アタマはそれほど良くないけど、悪い人じゃない。話は聞いてくれるしあっちの相性もよかった。

 あれ?アタシ本当に大隅が好きだったのかな?単に髪に触れたかっただけじゃないのかな……。

 そういえば浩ちゃんはどこにいるんだろう。丁重に扱われてはいるけど、拉致されたんだし、スマホも取り上げられちゃったしなぁ。連絡つかない。さっき、元千葉県支部長の夏美さんが来たっけ。今は東京本部支部長になっているんだってさ~、出世したもんだわ。でもあの人全然変わってない。相変わらず美人だし。もう 45歳くらいになるはずなのに。きっとヒアルロン酸注射、射ちまくってるんだろうなぁ。浩ちゃんに手出しはしないでって言っておいた。

アタシの世話係だって言ってたけど、女の人が二人か。もちろん見張りも兼ねてるわよねぇ……、さぁてどうしようかなぁ……。


 支部長の夏美から康子の世話係を申し渡された美代子は狼狽していた。康子が突然苦しみだしたからだ。すぐに夏美に指示を乞うたが、いちいち私に連絡しないと何もできないの?自分で判断なさいと逆に叱責されてしまった。性格のキツい女だと美代子は思った。 もう一人の世話係と康子の背中をさすりながら容体を聞くとお腹が痛いらしい。これは大変だ。 37年振りに妊娠した康子のお腹の子を流産でもさせてしまったら自分の責任になってしまう。

 教団の中に医務室はあるが、医師、看護師は常駐していない。実は教団の中には精神的に不安定な信者も多い。薬を処方したいところだがそのためにはクリニック開設の手続きをしなければならない。だが、教団という体面上内部にクリニックは開けないのだ。ゆえに提携している病院から医師、看護師に診察を頼むのだ。

 運び込まれた医務室で、康子は思案していた。とりあえず特別な“妊婦”である康子がお腹が痛いと言えば、周囲は狼狽するだろうと考えたがその先は深く考えているわけではなかった。もともと康子は熟慮して行動するということが苦手であった。思いつきで行動してしまうことが多かった。とりあえず今は医務室のベッドで、お腹が痛い芝居を続けようと思った。 医師と看護師がやってきた。医師と言っても産婦人科医ではない。なにしろ 37年間も子供が生まれていないのだから専門医などとうに需要がないからいないのである。提携してる病院からやってきたのは 30代の内科女医と 40代の女性看護師である。

 女医が医務室のベッドに横たわる康子の容態を聞き取りにやってきた。美代子がまだ医務室にいたので診察の邪魔ですからと看護師が追い払った。女医がカーテンを開けた瞬間、康子とその女医はお互いに驚きの声をあげた。

「康子、康子じゃないの!」

「由佳~っ、久しぶり!」

二人は同じ小学校の同級生であった。

「康子、あんたなんでこんなところに居るの? まさかあんたが……」

「由佳、驚かないで聞いてくれる? ニュースになった“ 21世紀のマリア”はアタシなの」

 まだ信じられないという表情で由佳と呼ばれた女医は言った。

「ホントなのぉ? からかってるんでしょ。ニュースではテロ集団に拉致されたって……」

「だから、それがこのピーチ教団なのよ!」

 二人の会話をぼーっと傍らで突っ立って聞いていた 40代の看護師に、振り返って、由佳は言った。

「青柳さん、今の話は内密に。さもないと病院の事務局長と浮気してるのを旦那様にバラすわよ」

 青柳さんと呼ばれた看護師は、なすすべなく、わかりましたと頷いた。


 康子の拉致報道を受けて、政府は国内のみならず、世界中からのバッシングにさらされた。ほぼすべてが 37年ぶりに妊娠した“ 21世紀のマリア”を守れなかった日本政府の失態を激しく批判するものばかりだった。

 そんな中、官房長官、二塚茂利の突然の辞任が発表された。理由は体調不良というものであったが、誰もが政府のスポークスマンとして記者対応にあたり、すさまじいまでのバッシングを浴びたせいだろうと受け取った。

 わずかに一部の新聞が、このタイミングでの辞任を訝った記事を小さく紙面に載せただけだった。真相を知った北見総理の逆鱗に触れての更迭であると知られなかったのは幸いだったのかもしれない。

 最新の内閣支持率が発表された。 30%台だった支持率は一気に5%にまで急落した。危険水域をはるかに超えていた。与党内では北見降ろしの動きが表面化してきた。勢いづいた野党は内閣不信任案を提出。過半数以上の賛成票で可決された。  こうなると北見総理は、 10日以内に内閣総辞職か、衆議院解散かを選ばなければならない。大方の予想は内閣総辞職であった。なぜならば、この支持率では選挙に勝つことは難しい。政権交代もありえた。そんなリスクを冒すのであれば、国会で新しい内閣総理大臣を指名すればいいだけで、与党内での首のすげ替えだけで済むからだ。

 しかし、北見総理は一日の熟慮の後、衆議院解散を選んだ。ちなみに内閣不信任案が可決されて、即日解散しなかった例はたった一度しかない。1980年5月の第二次大平内閣の、俗に言うハプニング解散のみである。


 与野党ともに、選挙モードに突入した。衆議院が解散されても内閣は存続し、そのまま総選挙まで仕事を続ける。解散しているので身分は衆議院議員ではないという変則的な状況ではあるが、基本的に制限はない。

 公安が全力を注いでいるのにもかかわらず、大隅泉の行方は依然として分からず、高倉康子は拉致されてしまうという大失態で今や日本政府の信用は世界的に失墜していた。閣議の席に北見洋一郎は並々ならぬ決意で臨んでいた。目が据わっている。閣僚たちはこの北見総理のオーラに気圧されていた。北見総理が口にしたのは“ 21世紀のマリア”奪還作戦だった。つまり、今まで誰も手を付けたことがない、事実上、治外法権だったK国のピーチ教団への強制捜査を意味する。


「いやぁ、総理の気迫すごかったですねぇ」

 官邸 5階の廊下を、東堂と並んで歩きながら、山沖は頬を紅潮させながら言った。

「腹心だと思っていた二塚さんに手を噛まれたことではらわた煮えくりかえってるんだろう。国を売られたわけだしな。それにしても思い切ったな。メディアは報道しない自由を行使することを逆手にとったんだ。報道すれば“マリア”を拉致したのが、ピーチ教団だってことがバレるしな」

「国民が事実を知ったら、怒りが頂点に達し、激しい排斥運動が起こるのは目に見えていますからねぇ」

「政府も表向きはピーチ教団脱税疑惑ってことで令状請求するらしい」

 スマホを操作しながら東堂は、ヒューッと小さな息を吐いた。

「どうしたんですか?」

「ついに伝家の宝刀抜いたよ。総務相が放送局に対して、今後、公平中立な報道をしない局には、電波法 76条に基いて“停波”するって脅しかけた」

「うわっ、本気ですね!」

「それにしても、東堂さん、どうして官房長官代理の椅子を固辞したんですか? てっきり自分は東堂さんが官房長官代理になるんだと思ってましたよ」

「内閣官房副長官は三人いるんだ。今回は先輩に華をもたすよ。それに俺は表より裏方の仕事のほうが好きなんだ」

 そう言うと東堂は、ウィンクをした。


「診察した医師が言うには、今は鎮痛剤で一応は落ち着いてるけれど、腹痛の原因は詳しい検査をしてみないことにはわからないと言ってます。検査入院をさせたいそうです」

 教団3階の支部長室で、美代子は支部長夏美に報告していた。

「入院? あなた、今のこの状況で、いくら教団寄りの提携病院だとしても、高倉康子を教団の外部に出せると思うの?」

「お言葉ですが、医師にも教団信者はいますし第一医師には守秘義務があるのであまり神経質になる必要はないかと思われますが……」

「何を甘い事を言ってるの。医者が守秘義務をきちんと守れるくらいなら、康子の妊娠がこんなに早く漏れることもなかったのよ」

 夏美は美代子に、そんなこともわからないのかとなかば見下すような口調で言った。 いつも、こうだ、美代子は夏美のこういう態度が我慢がならなかった。心の中で、下手にでてりゃあ、つけあがりやがってこのクソ女が、と呪詛の言葉を吐いた。だけどこれで康子がもし流産でもしようものなら全ての責任を押し付けられかねない。

「もし、母体になにかあったら取り返しのつかないことになります」

「どうせあと数日すれば本国へ移送する予定よ。あっちへ行けば万全の体制が整ってるのよ」

「しかし、緊急性の病である可能性も捨てきれず……」

 美代子は粘った。

「そんなに言うのなら、ここへ検査機器を運ばせればいいでしょう!」

 その日の午後、早速教団のVIPルームに超音波検査機をはじめとする各種検査機器が運び込まれた。康子の小学校の同窓で女医の岩井由佳も改めて、検査技師を連れて往診に訪れた。検査技師はVIPルームにこもり、検査機器のセッティングに追われていた。康子はその分厚い牛乳瓶の底のような眼鏡とマスク姿の横顔を見ながらどこかで見たような顔だと思っていた。

  俺は康子の強い要望で、VIPルームで康子の傍にいることが許されていた。あのだだっ広い教祖の拝謁室でボディガードからキツイ膝蹴りをくらったあとは意識が飛んで、医務室に担ぎこまれてた。 目が覚めると、心配そうに康子がのぞき込んでいた。

「浩ちゃん、大丈夫~? あんまり無理しちゃだめだよぉ」

康子の「大丈夫」の言い方は独特だ。語尾がいったん下がって上がるのだ。俺は昔からこの言い方が可愛くて好きだった。

「なんでもねぇよ。これくらい。教祖のへなちょこパンチはよけたんだが、死角からボディガードの膝蹴りくらっちまったのは不覚だった」

「ごめんね、アタシがあの日、浩ちゃんを呼び出さなかったら、巻き込まれることもなかったのにね……」

「何をいまさら。毒を食らわば皿までだわ」

「アタシは毒か!」

 言いながら、早くも康子の目元が潤み始めた。俺はたまらずその半泣き笑いの顔を抱き寄せた。

「俺さ、結婚して時がくりゃ、誰だってそれなりの夫婦になれると思ってたんだ……。けど、そうじゃなかったんだな。それなりの夫婦になるには努力が必要だったんだ。当時はそれがわからなかった」

「……アタシだって……、アタシだって努力が足りなかった」

「ごめんな……。幸せに出来なくて」


「この37年間、妊婦が居なかったのでほとんど忘れ去られていますけど、以前は妊婦検診という制度があったようです。妊娠24週までは4週間に一度、25週から35週までは2週間に一度のペースで検診が行われていたようです」  

  岩井由佳は、康子の世話係の美代子と共に支部長室で福岡夏美を前に検査結果を説明していた。

「毎回行うのは、体重、血圧、むくみ雄、尿検査、子宮底長、腹囲などです。康子さんの場合、ちょっと血圧が高めです。先日はみぞおちが痛くなったということで、子癇の疑いがあります。入院をお勧めします」

「この状況では入院はさせられないわ」

 夏美はがんとして首を縦に振らなかった。

「しかし、お腹の赤ちゃんの発育に悪影響がでるかもしれないんですよ!」

「そうならないようにするのが、医者の仕事でしょう。母体や胎児になにかあったらあなたたちの責任よ。わかってるんでしょうね」

 そう言ってじろりと夏美は美代子を一瞥した。美代子は気分がどんよりと重くなっていくのを感じていた。この人とは分かり合えない……。

VIPルームに戻ってきた由佳たちは、経緯を康子に説明した。この軟禁状態がまだまた続くことに康子も俺もうんざりしていた。

 美代子はVIPルームの窓からどんよりと曇った東京の夕暮れを眺めながら、先程の夏美の言葉を頭の中で反芻していた。

 眼下に見える首都高のクルマの群れはラッシュアワーの中、ライトを点けて走っているクルマの数がだいぶ多くなっていた。あなたたちの責任よ……、37年振りに人類待望の赤ちゃんが産まれるかもしれないというのにあの人は体面だけを気にしてる。人類の希望の灯火かもしれない赤ちゃんを守ることもしないで、教団の利益ばかりを追いかけるのが正しい道なの? なにかあったら全部責任をこちらに押し付ける気満々だ、なんであたしがあの女に詰腹を切らされなくちゃならないのよ!

美代子は無意識に拳を握っていた。心は決まった。

「皆さん、ここから出ましょう。私は康子さんを入院させたいと思います」


 すっかり日も落ちた午後7時半、ピーチ教団東京本部の正面玄関前に、数台の乗用車と窓やライトに投石防止の金網のガードをつけた物々しいバスが二台停まった。中から段ボールを抱えたスーツ姿の捜査員とヘルメットに警備服姿の隊員が足早に降りてきて建物に入っていく。公安機動捜査隊と東京地検特捜部の合同強制捜査が始まったのだ。

 公安機動捜査隊は警視庁公安部に所属する組織である。俗に「公機捜」の略称で呼ばれている。隊員がヘルメットに装着している超小型のウェアブルカメラ、ゴープロの映像を飛ばすことが可能なので、リアルタイムで官邸の大型モニターにその映像を映し出すことが出来る。

 官邸の危機管理センターでは、北見総理以下主要閣僚が集まり、強制捜査の様子を固唾をのんで見守っていた。

「いよいよ始まりますね」

「うむ」

 更迭された二塚官房長官の後を受け、内閣官房長官代理に就任した高橋信行が興奮しているのか額の汗を拭いながら、総理に言った。

教団の男性信者たちが、エントランスに集結して隊員たちの突入を阻止しようと試みるも、主にテロ事件等を担当する公機捜にかかってはひとたまりもない。あっと言う間に排除され、教団内は大混乱に陥っていった。 公機捜の隊長、矢沢永一のゴープロは教団の各施設を手際よく探索して、後に続く東京地検特捜部が証拠資料を次々と押収していく様子を、官邸に送っていた。


「待ってください。ここを出ると言いますけど、このVIPルームは監視カメラで監視されています。この部屋を出たことはすぐにわかってしまいます」

 もう一人の康子の世話係である友子がそう言って部屋の隅のカメラに目くばせした。

「その点は、大丈夫です」

 検査技師の男は、分厚いレンズの眼鏡とマスクを取った。俺は、驚いた。テレビで何度か見た顔だった。

「レアルズの奥野です」

「そして私のパートナーでもあるわ。検査技師に成りすまして、教団に潜入してもらったの」

医師の岩井由佳はそう言ってさりげなく、奥野に寄り添った。

あんまり好きな奴ではなかったけど、奥野が康子に握手を求めてきたので、つられて俺も握手するはめになった。

「検査機器のセッティングの際にカメラにちょっと細工しておいた。他にもいろいろと。モニタールームでは、8時間前のこの部屋の様子がエンドレスに流れてる。しばらくは気づかれない」

「クルマを用意してあるわ。まずはエレベーターで地下駐車場まで降りましょう!」  なんだか由佳が楽しそうに言うと、康子も頷いた。小学校の同窓か。こういう時の女同士の連帯っていうのはいまいち俺にはわからない。

 5階から一気に地下駐車場に降りようとしていた俺たちが乗ったエレベーターは、3階で停止した。ドアが開くと武闘派と呼ばれる男性信者たちと鉢合わせした。彼らは一様に手に銃を持っていた。

「どこへ行くんだ。お前たちは軟禁されているんだ。おとなしく5階のVIPルームにいろ!」

「いやちょっと毎日キムチばかり食わさせて飽きちゃったんで、セブンイレブンにおでんでも買いに行こうかと思って」

 俺は場を和ませようと軽口を叩いたが、完全にスべった。いやスべったどころか怒りを買った。

「ふざけるな! この野郎」

 武闘派が俺に殴りかかろうと拳を振り上げたとき、そいつの携帯が鳴った。

「はい、拝謁室ですね。すぐ行きます」

 奴らは血相を変えて走って行ってしまった。

「そろそろ行くか」

 ふう、助かったと安堵していると、奥野はポケットから何かとりだした。押しボタンのようなものがついてる。

「まさかそれ……」


危機管理センターで見守る北見総理の耳元で東堂が囁いた。

「地検特捜部が、キム教祖他、幹部数名の偽造パスポート十数枚を押収しました」

 隊長矢沢を先頭とする公機捜はついに最上階の広大な教祖拝謁室に入った。だが誰も居なかった。

 ほどなく銃を持って武装した男性信者の一団が乱入してきた。一瞬撃つ構えを見せたが、公機捜の装備や人数を見て勝ち目はないと判断したのだろう。あっさり白旗を上げた。勿論、全員逮捕されたことは言うまでもない。

 隊員たちで室内をくまなく捜索すると壁の一部の音が他とは違った場所があるのが発見された。そこには空間があることを示していた。小部屋が隠されていた。やっと人が入れる程度の小部屋の中に、キム教祖と支部長夏美が身を寄せあって隠れていた。

「キム教祖、並びに東京支部長福岡夏美の身柄を拘束しました!」

 内閣危機管理監、酒井実が上ずった声で報告をあげると閣僚たちから歓声があがった。

「あとは“マリア”だ。高倉康子はどこだ?」

 就任したばかりの官房長官代理。高橋信行がひとり気勢を上げた。


  隊長の矢沢は、3階支部長室の隣の管理モニタールームに入った。そこには各階廊下や主要施設の様子が映っていた。5階のVIPルームとシールが貼ってあるモニターに高倉康子と村上浩司らしき人物が映し出されているのを確認した。

「5階VIPルームに“マリア”が軟禁されている模様。これから救助に向かう」


「そう、察しの通り、起爆装置。さっき他にも細工しておいたって言ったろう。検査機器の中にプラスチック爆弾を仕込んでおいた。殺傷能力はそれほど高くないが、これで少しは時間が稼げる」

奥野はそう言ってニヤリと笑うと起爆装置のスイッチを押した。


 5階のエレベーターが開いて、矢沢隊長を先頭に公機捜が、VIPルームに突入しようとした瞬間、爆音とともにVIPルームの派手な化粧が施された高価そうなドアが吹っ飛んだ。もうもうと辺りに立ち込める煙で何も見えなくなった。

「大丈夫かぁ」

 矢沢隊長は部下の隊員たちの名を呼んだ。爆風で吹き飛ばされた破片等で怪我を負ったものは居たが、幸いみな軽症だった。ヘルメットと防弾用プロテクターに守られていたせいだ。

 VIPルーム内はめちゃくちゃだった。爆発で跡形もなく吹き飛んだ検査機器、破壊された家具や粉々になった家電、食器、割れたガラス等、がれきが散乱し足の踏み場もなかった。これでは室内にいた人員の安否確認など到底出来る状態ではなかった。

 この一部始終をゴープロを通して官邸で見ていた北見洋一郎は、ショックを受けていた。肩を落とし、力なく右手でモニターを切れという所作をすると、がっくりとうなだれた。 先程まで、教祖の身柄拘束で勢いづいていた他の閣僚たちも一様に沈黙して、官邸危機管理センターは一転してお通夜状態になった。


「強制捜査が入って大混乱してるらしいな」

 奥野が言った。

「なんとか、お陰で脱出できそうね」

 ハンドルを切りながら由佳が言った。 レアルズが用意したクルマに乗り込み、俺たちは地下駐車場を出たところだった。その時、奥野のスマホが鳴った。

「そうか。わかった」

 電話を切るなり奥野は険しい顔で言った。

「レアルズの東京の拠点にも政府の強制捜査が入ったようだ。嫌な予感がする」


 翌朝、俺たちは念のため、レアルズメンバーの知人のクルマに乗り換えて、新東名を一路西に向かっていた。衝撃のそのニュースはクルマの中で見た。

政府は“21世紀のマリア”を奪還したといって堂々と記者会見を開いたのだ! 車内の12インチのモニター画面には、康子ではない別の女がアップになっていた。美代子が「アッ」と叫んだ。

「この女は、教団が用意していた“替え玉”です!」

「わたくし、小林早苗は、反政府テロ集団レアルズに拉致監禁されていました。救出してくださった日本政府ならびに関係者の方々にはお礼の言葉もありません。本当に感謝の念でいっぱいです……」

 そして画面いっぱいにレアルズの東京の拠点ビルが映し出された。

奥野直基は怒りに震えていた。

「だから政府は信用できないんだ! やり口が汚すぎる! 馬鹿をみるのはいつも国民だ」

  俺も康子もあっけにとられていた。

「これじゃあ、まるでレアルズはスケープゴートね」

  運転しながら、由佳がポツリとつぶやいた。その声は怒りで少し震えていた。

画面が替え玉からアナウンサーに切り替わった。

「なお、反政府テロ集団トップの奥野直基容疑者は現在逃亡中です。警視庁は全国に指名手配して行方を捜査中です」

 画面には奥野のとりわけ人相が悪く写った顔写真が大写しになった。

「お前、代表が容疑者になってるぞ。出世したなァ」

 またしてもスべった俺の軽口には反応せずに奥野は康子に言った。

「どお? これでも君はまだ政府を信じる?」

「アタシは……、アタシはただ、静かなところで赤ちゃんを産みたいだけよ……」

「ところで、どこへ向かってるんですか?」

 すでに奥野たちと行動を共にすると、腹を括った美代子たちが訊いてきた。

「瀬戸内海の離島だ」

「あんたはもう全国指名手配犯なんだってことを忘れるなよ。そんなところで大丈夫なのかよ。」

「瀬戸内海には島が幾つあると思う? 3000からの島々があるんだぜ。そう簡単に尻尾はつかまれないさ」

 俺の問いかけにようやく答えて奥野はうそぶいた。

テレビ画面のアナウンサーは、最後に思い出したかのように読み上げた。

「昨夜、ピーチ教団東京本部でガス漏れによる爆発がありました。部屋の窓ガラスが割れるなどの被害がありましたが、けが人はありませんでした」


 官邸の官房副長官執務室で、山沖と東堂は“替え玉”会見を見ていた。山沖は呟いた。

「痛み分けってことですかね」

「手打ちってことだろ。教祖は拘束したが、肝心の“マリア”は保護することが出来なかった。勝ち負けでみりゃ、負けだ。奪還作戦としては失敗してるわけだから。 だが、超法規的措置として教祖の祖国への送還と引換に、あちら側が用意していた替え

玉を使うことを思いついたのさ」

「転んでもただでは起きないって訳ですか」

「それだけじゃない。マスコミに巣くっている教団信奉者のリストを出させた。総理は政界もマスコミも大掃除する気だ。それでも特捜部なんかは不服で相当ゴネたらしいが、総理が押し切った。これで選挙は圧勝だろう。総理の座は安泰って訳だ。支持率もV字回復。安定政権はまだまだ続くよ」

「教団5階のVIPルームのがれきの下には“マリア”の遺体はなかったらしいですね。生きてるってことですよね? あんな会見していいんですか? 本人が私が本物ですって名乗り出たらどうするんですか!」

「それは俺も総理に進言した。でも総理は意に介してなかった。『達者で暮らしてくれるとうれしい』ときた。とんだタヌキ親父だ、ありゃあ。マスコミを手中に収めたから、どうとでもなると思ってるんだ」

「そんなんでいいんですか! 国民を欺むく政権なんて意味がないですよ」

 山沖は東堂に食ってかかった。

「甘ちゃんだなぁ、山沖。理想だけでは国を動かすことは出来ない。それが政治ってもんだよ」

 諭すように東堂は山沖に語り掛けた。

「それが政治だっていうんなら、私は辞めます!」

「もっと大人になれ、山沖。お前もラストジェネレーションだったな。口惜しかったら、お前の世代が、この国の仕組みを変えてみろ」

 そう言って、山沖の肩をポンと叩くと、東堂は執務室を出て行った。


 半年が過ぎた。瀬戸内海の何もない離島での昭和初期のような半農半漁の生活の中で、康子は臨月を迎えていた。この島にはPCもなければテレビもWi-Fiもなかった。スマホもタブレット端末もなかった。ある意味それは好都合だったかもしれない。携帯電話会社がスマホの位置情報を警察に提供する可能性があったからだ。

情報源は防災用の手回し充電ラジオのみであった。そのラジオから途切れ途切れにニュースが聞こえてきた。

「今朝未明、37年振りに妊娠していた小林早苗さんが流産していたことが確認されました……。日本のみならず、この当然の悲報に世界中が驚きと悲しみにくれています……。 37年振りの人類の子孫誕生の夢は……潰えました……。北見総理は哀悼の意を表し…… 政府は半旗を掲げるよう各官庁、学校、企業などに求めています……」

 海が一望できる高台で薪を拾いながら、ラジオを聴いていたレアルズの元リーダー奥野直基は吐き捨てるように言った。

「サル芝居うちやがって! 相変わらず永田町のやることは反吐がでそうだ」

 そこへ教団と縁を切った美代子が奥野を呼びに来た。

「いよいよですよ」

「わかった」

 干し草の上にマットレスを敷いただけの粗末な納屋の一角で、今まさに康子は出産の時を迎えようとしていた。納屋の中には、由佳と俺と美代子と一緒に教団と縁を切った友子が康子の手を握ってサポートしている。女性が二人いるけれど、誰一人として出産経験もなければ、出産に立ち会ったことすらない。すべてが未経験で手探りだ。

「康子、がんばれ!」

 俺はなんとしても康子の赤ん坊をこの手に抱きたかった。誰の子かなんてもう、問題じゃなかった。37年ぶりの命の感触をこの手に受け止めたいとそれしか願わなかった。

必死にいきむ康子の股間にしゃがみ込み俺は赤ん坊が出てくる瞬間を待った。

「熱い。浩ちゃんあそこが熱い」

「熱いってなんだ? どういうことなんだ?」

 傍らの女医である由佳に答を求めたが、由佳もただ首をかしげるばかりだった。

その時、康子の股間の割れ目から一条の光が射した。その光はまともに俺の目を射た。あまりの眩しさに俺は目を開けていることが出来なかった。光はまっすぐに伸びて納屋の片隅の鋤や鍬を照らしていた。

 納屋の近くまで来ていた奥野と美代子は納屋から得体のしれない光が漏れているのを見て腰を抜かしてしまっていた。

 これが出産なのか?あまりの出来事に由佳も友子も言葉を失っている。続いて納屋中に蒸気がたちこめた。その蒸気の発生源も康子の股間だった。

「浩ちゃん、あそこが、あそこが焼けるように熱い~っ」

 今や、康子の股間からは幾筋もの閃光がほとばしっていた。納屋中に夥しい光と蒸気が充満していた。

「康子~っ、産まれるぞ~っ」

 狂乱の中、俺は猛烈に感動していた。

耳をつんざく地鳴りのような轟音の中、それは康子の股間から生れ落ちようとしていた。激しい光の明滅と熱い蒸気が吹きあがる中、やけどしそうに熱い確かな命の兆しを、俺は感じ取っていた。それはまるで全宇宙をこの手にかき抱いているかのようだった。今、瀬戸内海の離島の納屋と宇宙は一気に繋がったのだ。

 その、火のように熱い赤ん坊は、俺の手の中で確かな産声を上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラストジェネレーション 鷺町一平 @zac56496

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ