クリーンルーム

深川夏眠

clean room


 この混乱に陥る前からパートナーと生活を共にする者は幸いである。一人でいる方が気楽でいいと思う者も幸福である。どちらでもない者は先々どうなるか、どうすればいいのだろうかと、チリチリ、ジリジリ表皮を炙られ、その熱が次第に針の鋭さで心臓に迫ってくる不安と焦燥に苛まれているのだ。


                 *


 待ちに待ったセッティング完了の連絡が来た。飼い主が愛犬に向かって発する「待て」からの――非情なまでに長いを置いての――「よし」発令だ。目を血走らせ、涎を垂らし(幸い口の回りはマスクとマフラーで隠れている)、尻尾を振りつつ(といった気分で)、一泊分の着替えをバッグに詰め、久しぶりにバスに乗って出かけた。

 乗車口でブシュッとスプレーが出て手を消毒。指のささくれにアルコールがみてピリピリした。換気のお陰で座っても温かくならないし、眼鏡も曇らなかった。


 感染症が蔓延し、伝播する過程で遺伝子が変異して威力を増し続け、バタバタと人がたおれ、あるいは死なないまでも回復に日数を要するため、行動が制限されるようになって、どれくらい経ったろう。

 いわゆるの形も変化した。まずは申し込み。もと、経歴より健康かどうかが重視される。既往症、現在の体調、その他。もちろん当の流行りやまいに罹患していないのが肝心だから、事前の検査は必須。結果が陰性なら診断書を添えてエントリーシートを提出し、げんに行動を慎まねばならない。審査をパスすると順番待ちのリストに登録され、料金を支払ったのち、AIによって条件が合致する希望者との擦り合わせが行われる。

 ……そこまでして未知の人物と接触したいかって? もちろん。恋人は亡くなったし、打ち拉がれたところを慰め、支えてくれた親友は故郷の親を気遣って帰ってしまったから。きっと途中ので検疫があって足止めを食ったはずだけれども。


 逸る気持ちを抑え、医科大学の附属施設へ。正門前で警備員に会釈し、案内状に同封されていた入構証を提示して、マフラーとマスクを一緒に引き下げた。

「宇田アイルさん、ハイどうぞ」

 顔写真と本人を見比べる目色が、どことなく冷ややかで小馬鹿にした調子だったのは気のせいか。マスクだけ急いで元に戻す間にバーコードが読み取られ、整理券が発行されて入館を許可された。検温モニターで体温チェック、三十六・四℃、OK。クリーンゲートを通って頭から爪先までザッと除菌。番号別に案内板の指示に従って進めば他のユーザーと顔を合わせずに済むそうだが、宛がわれた部屋に入る前に洗面所に立ち寄ると、ひょっこり出くわして気まずくなることもあるという。

 何度か角を曲がって割り当てられた十九号室へ。サインランプが黄色く点灯し、待機中と表示されている(誰もいないときは緑色で空室、二人揃ったら赤で使用中)。インターホンで呼びかける。

「宇田ですが……」

 ドアが開いたので一歩踏み込んだ。マニュアルによれば、在室者がリモコンでロックを解除できるとか。天井も壁も床も白一色で目が眩んだが、ひとまずスリッパに履き替えた。右手にユニットバス、奥の間仕切りカーテンの向こうが寝室なのだろう。はリビングルームの中央で長椅子に気だるげに身を預けていた。調度品もバスローブも純白なので、最初は当人の顔だけがポッカリ空中に浮かんで見えた。

「どうも。城戸きどセレンです」

 声はテノールとアルトの中間くらい。しどけない横座りで敬礼のポーズ。緩いウェーヴのかかった飴色のショートヘアがフワリと揺れた。はだけた胸許むなもとにペンダントの鎖。

「お気に召さねばお帰りなさいよ。返金されないみたいだけど、構わないなら」

「いえ……」

 マフラーとマスクを外し、コートを脱いでハンガーラックに掛けた。変な汗がうなじに滲んだ。

「座れば」

「はあ……」

 ビーズクッションにあぐらを掻いた。据わりが悪い。

「ウェルカムドリンクを差し上げよう」

 実物の城戸氏――いや、呼び捨てにしてしまおう――セレンは送られてきたプロフィール画像よりずっと若く――と言うより幼く見えるものの、年寄りじみた言葉遣いと、華奢な肢体とは裏腹な異様に堂々とした態度が妙な貫録を醸しているのだが、カウンターテーブルへ向かう(目を凝らすと乳白色の簡易キッチンが現前した)アキレス腱の窪みがクッキリと瑞々しく、清らかな色気を湛えていて、ついゴクッと生唾を呑んでしまった。

 セレンは銀盆にグラスを載せて戻ってきた。レモンを添えたウイスキーソーダ。立ちのぼる微細な気泡の隙間に言葉を探していると、

「いろいろ試してみた。BGMのボリュームとか、だとか」

 サイドワゴンの天板がコンソールだった。セレンはコントロールノブを操作して音量を上げた。オペラの一節らしい。別のを動かすと直方体の壁、全面に風景が投影され、一瞬でジャングルに放り込まれた気分になったが、家具は岩塩の柱のように白く残された。セレンは無心にスイッチを動かし続け、灼熱の砂漠やら大地震で倒壊する前の世界遺産の景観やら、果ては宇宙空間にまで我々をワープさせた。

「もういいよ、尻がムズムズする」

 セレンは音楽と映像を同時にオフにすると、泡の立つ琥珀色の飲み物を勢いよく呷った。

「見事な飲みっぷりだけど、大丈夫?」

「は?」

トシ二十歳はたち以上じゃなきゃダメっていうのは承知してるよね?」

 飲酒もだが、〈クリーンルーム〉にも年齢制限がある。

「フフン」

 鼻で笑い、からになったグラスを持ったまま指を伸ばして浴室の方向を指した。ご託はいいからサッサと汚れを落としてこいと言いたいのだろう。

 誰と誰が何号室に――先に一方が入室してから丸一日を上限として――何時間滞在したか、どのように歩き回ったか、今までセレンがそうしたように、いかに備品を動かしたか……といったデータが研究室に送信されるそうだが、カメラもマイクもなく、決して所作や発言をダイレクトに記録するわけではないから心配無用と要項に書かれていた。そのげんを信用するしかないのだが、時折つい、四隅を見上げて装置の有無を確かめたくなってしまう。

 眼鏡を外してウォールシェルフに置き、シャワーを浴びた。アメニティグッズは多分(泊まったことはないが)高級ホテルに引けを取らない充実ぶりではなかろうか。ただ、の威力が強いので室内が暖まらない。体表もすぐに乾き、冷えてしまった。

 セレンはもう奥に籠もっていた。電動式のパネルスクリーンが開くと内部も真っ白で、束の間、眩暈を覚えた。セレンはベッドの上で枕を背凭れにし、脚を投げ出した格好で鎖を指に巻いてペンダントをクルクル回していたが、不意に動きを止めてみやの上のアクセサリースタンドに引っ掛け、ローブのベルトを外して胸を開いた。艶のある肌のところどころが、くすんだ桜色に曇っている。近づくにつれて、花が虫を招くように、そのたいこうの靄から強い芳香が漂ってくる錯覚に襲われた。

 考えるべきことはたくさんあったけれど、ひとまず脇へけて、セレンが形作る明暗と、様々な落窪おちくぼにほんのり浮かぶ――本来は不可知であるはずの――甘露に溺れ、顔をうずめてひたすら香気を貪った。文字通り飢えていたからだが、手や舌に触れるのは初めてのテクスチャで、それに合わせて今まで認識していなかったレセプタが目覚め、一心不乱に気脈を通じさせようと発奮していた。美しく奇怪な被造物の結構を理解し、存分に急所を攻め立てたいと思った。だが、あっという間に尾骨から頭頂へ、ねっとりした悪寒がせり上がって、ブラックアウトしてしまった。

 これは一体どういう生き物だろう。臍があるから哺乳類には違いないが……。


 シーツに突っ伏して、しばらくボーッとしていた。ようやく起き上がったときは腹が減っていた。床に放り出したタオルを巻いてリビングへ。セレンはさっきまでとは別の深紅のバスローブをまとって長椅子に凭れていた。傍らの白い円柱――つまり小さなカフェテーブルには、ワインのボトルとチーズやクラッカーを載せた皿。勧められたが、空腹だからと辞退した。浴室で軽く全身を洗い、部屋着に頭を突っ込んで眼鏡を掛け直した。

「頼み放題だって。何か注文すれば?」

 ワゴンの脇からメニューを抜いて寄越した。見るともなくページを繰りながら、セレンが再び首に提げたペンダントを気にかけていた。満月をデザインした風だが、ロケットにしても変に厚みがある。ピルケースか、はたまた誰かの遺灰を納めたもと供養の品かもしれない。

「ともかく話をしよう。今後どうするか」

「意向は?」

「真面目に付き合いたい」

「じゃあ、合格か。お気に召したようで何より」

 最前からの口振りと態度で、目的と察せられた。そくぶんするに、春をひさぐにもとの戦いに神経をすり減らす現今、元手はかかるがここで身体カラダの相性も金離れもいい客を数名キープするか、いっそ庇護者パトロンを捕まえてしまうのが得策との声も上がっているとか、いないとか……。

 思わず膝を詰め、

「セックスも大事だけど、もっと気持ちの問題っていうか……さ」

「安らぎとか潤いだとかを欲している、と。任せて。少し慣れれば好みを学習して、嫌というほど満足させてあげるから」

「あのねえ――」

「もしかして、友情の延長線上に恋が芽生えて性愛に至るって考えるタイプ? それにしちゃあ大分ガツガツしてたけど」

 返す言葉もなかった。顔が火照った。

「こんなご時世じゃね。パッとくっついて、すぐ別れて、また次へ……なんて、非効率的。第一、衛生面のリスクが大きい。そこで〈クリーンルーム〉を使って眼鏡に適った場合だけ長く密接な関係を築くことが望まれる」

「仕事やら何やら、それぞれ都合があるから、一緒に暮らすのは難しいかもしれないけど……」

「互いの身の安全のためには同居が望ましい、無理でも、せめてスープの冷めない距離に住んではいかが、ってワケだ。徒歩で行き来できる範囲に」

「そういう相談をしたいんだ。徐々にね。だから、ひとまず次の約束を……」

 趣味と実益を兼ねた筋金入りのプロスティテュートなら、束縛を嫌って即答で却下すると踏んでいた。しかし、セレンは手の中で揺れる液体を虚ろに眺めつつ、

「こっちにも選ぶ権利がある」

「もちろん」

「では、味見させていただきますか」

 セレンは不意にグラスを傾けた。ワインが弾けてレンズに赤い飛沫しぶきが散った。

「うわっ」

 眼鏡を外しながら文句を言おうとしたが、セレンに素早く取り上げられ、無造作に放り投げられた。低反発性の床材が音もなく受け止めてくれたので、壊れはしなかった。

「何するんだよ――」

 袖でもとを拭おうとしていると、セレンは急に狂暴化したように勢い込んで飛びかかってきた。ほねぼそな印象からは想像もつかない剛力で押し倒され、動きを封じられた。馬乗りになったセレンは大した体重でもないのに、どういても跳ね返せなかった。真っ赤なローブのベルトで瞬時に両手を縛られてしまった。

「せっかく酒を注いでやったのに二度もスルーしやがって」

 そんなに怒るほどのことか。

「飲めば痛みを感じないで済んだのに。気持ちよくトロンとするクスリを入れておいたから」

 まさか、初対面の相手を殺す気か。最初からそれが目的だったのか。逃げたってすぐ捕まるに決まっているのに……。

「まあ、いいさ。ちょっと刺激が強いだろうけど、我慢して」

 片手で首を押さえつけてきた。緊張と諦念がぜになって背筋を這い上がった。死を目前にした絶望感。こめかみが汗でしとどに濡れた。セレンは異様な状況に興奮した様子で、

「マッチングの確率を上げたいから性別は問わないと申告したね。同世代であればいい、と」

 頷いたつもりだが、伝わったかどうか。

「男女いずれを宛がわれても構わない気だったけど、どっちだかわかんないヤツが待ってたもんで困惑したのかな? むしろ感謝してもらいたいね。自由なファーストコンタクトが制限されて理想の恋人を探すのが難しくなった昨今、は引っ張りだこなんだよ。実際、お誂え向きだったでしょ?」

 セレンはいている側の手でペンダントの鎖を引きちぎった。ロケットだと思っていた満月のオーナメントからカチッと留め具が外れる音がして、三日月型のやいばが飛び出した。銀の細いブレードが閃くや首にブツッと食いり、激痛に手足が痙攣した。セレンは小さなナイフを放り出すと傷口を唇で包み込んで舌を押しつけ、蝶が口吻で花の蜜を吸い上げるように血を啜った。ややあって満足したのか、動きを止めて顔を上げ、深い陶酔の吐息を漏らした。

「代用品でガッカリした? 残念ながら牙は生えてないんだ」

 指先で上唇をめくってチラッと八重歯を覗かせた。手の甲で口を拭う仕草は、さながら猫の毛繕い。

「世の中、持ちつ持たれつだよね。愉楽の対価に、ちょっとばかりの血液。悪くない交換条件だと思うけど?」

 ようやく了解した。セレンはヘマトフィリアで、安心確実な生贄ドナーを捕獲するために〈クリーンルーム・サービス〉を利用したのだ。

「宿主である人間がいなくなったら命脈を保てないってところは、ヴァンパイアもウイルスも一緒かな。ハハハ」

 年齢不詳の吸血鬼は頬を上気させてカラカラと笑った。僅かな時間で一層若くなったかに見えた。一方、こちらはいくばくかの血を奪われた途端、急激に年老いた気がした。

「さっきの件だけど、どうしてもって言うなら、どっちかが飽きるまで同棲してもいいよ。但し、部屋はいつも清潔に保つこと。無類のきれい好きなのでね」

 悦服の意をひょうしたかったが、喉がひりついて声が出なかった。セレンのローブの前がはだけ、マイセン人形に桃の産毛でも生えたような肌が露わになり、ケーキを飾る小さな薔薇の砂糖菓子に似たうすくれないの突起が剝き出しになった。仰臥したまま視線を下に動かすと、謎めいた神秘的な翳りが音もなく蠢いて次の戯れを促した。



               clean room 【END】



*縦書き版はRomancer『月と吸血鬼の遁走曲フーガ』にて

 無料でお読みいただけます。

**初出:同上2021年1月(書き下ろし)

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=116522&post_type=rmcposts

***⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/QLYVtKrr

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