北浦十五

てのひら


 恵理子えりこはカッターナイフの刃を見つめていた。

ナイフの刃は鋭く光っていた。


 恵理子は、それを自分の手首に当てゆっくりと力を入れる。痛みと共に血が流れ落ちる。恵理子は血が流れる自分の手首を無表情で眺めていた。


 これは恵理子にとって日課となりつつあった。

 恵理子の手首には無数の傷痕きずあとがある。恵理子は、この行為でしか自分が生きている実感を得る事が出来なかった。流れ落ちる血を見る事で自分は生きていると確認できた。

 恵理子は、もう何カ月も学校に行っていない。


 度重たびかさなるいじめによって恵理子は学校に通う意欲を失ってしまったのだ。ひどい虐めを受けた訳でも無く暴力を振るわれた訳でも無い。しかし感受性の強い恵理子の精神はそれに耐えられず、学校は恵理子にとって恐怖でしかなかった。


 始めの頃は両親も心配して恵理子を説得したり叱ったり励ましたりした。心療内科しんりょうないかと呼ばれる病院に連れて行ったりもした。そこの医師からは、今は無理強むりじいしない方が良いと言われたので両親もあきらめたようだった。


 恵理子の両親は共働きで家に帰ってくるのは夜遅くなってからだ。自然と恵理子は自分の部屋で1人で過ごすことが多くなった。何をする訳でも無くベッドの上で天井を見つめている。何も考える事が出来ず、ただぼんやりと天井を見つめている。


 リストカットを始めたのは1月くらい前の事だった。死のうと思ってカッターナイフを当てたが、あまりの痛さに断念した。しかし自分の手首から流れ落ちる血液を眺めていたら、不思議な安らぎを感じた。


 あぁ、自分は生きているんだなと思えた。


 それからリストカットは恵理子の日課になった。



 ある日の夜。

 恵理子は久しぶりに家の外に出た。満月が明るく夜道を照らしていた。いつものようにリストカットをしようとしていて、ふと窓を見ると真ん丸のお月さまが浮かんでいる。しばらくそれを見ていた恵理子はナイフを置いて、ふらふらと家を出てしまった。


 久しぶりに感じる外の空気は新鮮で街路樹の湿った緑の匂いがする。時おり吹いてくる夜風も肌に心地よかった。まるで生まれて初めて外に出る子供のように、恵理子はわくわくしていた。


「よぉ、お嬢ちゃん。お散歩かい」


 突然に声が聞こえて、恵理子はびっくりして振り返った。そこには3人の男達がにやにやしながら恵理子を見ている。この数カ月で両親以外の人を見たことがない恵理子は、その場で固まってしまった。


「お、けっこうカワイイじゃん」


「お嬢ちゃん。いっしょにイイ事しようぜ」


 そう言って男達は下卑げびた笑みをうかべ、恵理子に近づいて来た。恵理子の思考は停止していた。真っ青な顔で目を大きく見開いて近づいて来る男達を見ていた。


「お前ら、何やってる!」


 突然の大きな声に、男達は驚いたように声のした方を振り返った。そこには、浮浪者のような格好をした1人の男性が立っている。


「お前ら、その子をどうする気だ!」


「なんだぁ? オッサン」


 男の1人が前に出た。


「ホームレスかよ。お前に」


 男は喋り終わらないうちに殴り倒された。


「テメェ!」


 浮浪者のような男は素早い身のこなしで2人目の男の顔面にこぶしを叩き込んだ。


「ぐえっ」


 男は奇妙な声を発して倒れた。口から折れた前歯が飛んだ。


「こ、こいつ強いぞ!」


「ちくしょう、おぼえてろ!」


 そう言い捨てて3人組は逃げて行った。




 恵理子は茫然ぼうぜんとそれを見ていた。浮浪者のような男が自分を助けてくれた事は理解した。


「大丈夫かい?」


 その男は恵理子に語りかけた。とても優しい声だった。

 恵理子は自分を助けてくれた人にせめてお礼を言いたくて口を開けたが、声が出ない。かなりの長い間、両親とも会話をしていない恵理子にとっては無理もない事だった。


「女の子が、こんな時間に1人で歩いてちゃいけないな」


 男が目の前にきても声が出ない恵理子は、そんな自分が悔しくて涙をぼろぼろこぼした。男は泣き続ける恵理子をじっと見ている。


「なんかワケありみたいだな」


 男はしばらく考え込んでいたが、そっと言った。


「良かったら僕たちのところへ来るかい。大したものはないけど暖かいココアを飲ませてあげるよ」


 歩き出した男に恵理子は本能のおもむくままに着いて行った。




 男は月明かりの中を歩いていた。その足取りが早かったので、恵理子はちょっと小走りで着いて行く。男が着いた場所は広い公園だった。

 この公園なら恵理子もよく知っている。子供の頃によく遊びに来ていた公園だった。

 男は公園の中に入って行った。公園の片隅に赤い炎が見える。何人かの人の声がした。人の気配を感じた恵理子は、とっさに逃げようとする。その手を男はつかんだ。

 恵理子は手首の傷痕きずあとを隠そうとしたが、そんな恵理子の顔を男は覗きこんだ。その目は「大丈夫」と言っている。炎に近づいた恵理子は、その周りに段ボールで作られた沢山の家のようなものを発見した。


「‥‥‥ホームレス?」


 恵理子の口からやっと声が出た。とても小さな声だったけれど。


「よー、雄一ゆういち!今日は可愛い子連れてるなぁ」


 雄一。


 恵理子は自分の手をつかんでいる男の顔をまじまじと見つめた。この人は雄一さん、というのか。雄一は声をかけてきた男に軽く手を振って、恵理子を炎を囲む人々から少し離れた場所へ座らせた。


「だけど雄一、その子は」


 さっきとは別の男が話しかけてきた。


「ここじゃ、人の詮索せんさくはしないのがルールだろ」


 そう言って雄一は炎の方へ向かった。


「そりゃそうだ!」


 また別の男がこたえる。


「それに、こんなべっぴんさんを見てると酒もうめえゃ!」


 そう言って大きな声で笑った。それにつられるように大勢の人が笑った。

 恵理子は、自分の事を言っているんだ、と思うと身体を縮める。そこに雄一がやってきて恵理子にカップを渡した。


「熱いから気をつけて」


 また別の声がした。


「なんだ、雄一はまたココアかよ」


「俺はココアが好きなんだよ」


 そう言い返して雄一は恵理子の隣に座った。


「飲んで。美味しいよ」


 恵理子はカップをすすった。


「熱い!」


 恵理子は思わず声をあげた。さっきより少し大きな声だった。


「だから、熱いって言っただろ」


 雄一は恵理子を見て笑った。思わず恵理子も微笑む。そして、びっくりした。自分が笑うなんて、いつ以来だろう。

 ココアは甘かった。

 その甘さは恵理子の全身に広がっていく。懐かしい味だと思った。恵理子は雄一と並んで赤く燃える炎と、その周りで酒をみ交わす人達を見ていた。皆、楽しそうに笑っている。身なりはとても粗末だったが、目はとても優しそうだ。恵理子は雄一と並んでそれを見ていて、楽しいと思っている自分が不思議だった。



 しばらくして雄一が立ち上がった。


「もう帰ろう。家の人が心配してる」


 恵理子は名残惜なごりおしかったが「うん」と雄一の手を握る。とても温かい手だった。


「じゃ、俺はこの子を送っていくから」


 そう雄一が言うと、炎を囲む人達がぶうぶう言った。


「なんだ、もう行っちまうのか」


「また来いよぉ、べっぴんさん!」


「また来いよぉ!」


 皆が恵理子に向かって手を振っている。それを見た恵理子は恥ずかしそうに手を挙げた。


 月明かりの道を恵理子は雄一と並んで歩いていた。さっきの3人組の男達の事を思い出した。怖くなった恵理子は雄一の手にすがりつく。雄一はそんな恵理子を見て、その肩に手を置いた。他人の手なのに少しも不快に感じない。2人は何も喋らずに歩き続けた。


 今夜は不思議な夜だった。


 恵理子はそう考えていた。数カ月ぶりに家の外に出て怖い3人の他人を見た。雄一が助けてくれて、ココアを飲むかいと言ってくれた。久しぶりに自分の声を聴いた。たくさんの人達を見た。たくさんの優しい目を見た。ココアは甘かった。たくさんの人達が自分に手を振ってくれた。


 そして。


 雄一に向かって微笑んだ。自分がまだ笑えるなんて信じられなかった。肩に置かれた雄一の手は暖かい。


 男の人に肩を抱かれるなんて。


 恵理子は自分の頬が染まるのを感じる。家の前に来ると、恵理子はちょっと残念な気持ちになっていた。


「それじゃ。これからは夜に1人で歩いちゃダメだよ」


 雄一は立ち去ろうとした。


「・・・あの」


 雄一には聞こえていないようだった。


「あの!」


 恵理子は叫んだつもりだったが、それはか細い声だった。それでも雄一は振り返った。


「なんだい」


「・・・・あの、・・・・また行っても良いですか」


 消え入りそうな声だった。雄一はしばらく考えていたが、


「夜は危ない。来るなら昼間においで。僕はしばらくはここにいるから」


「・・はい」


 恵理子はまた消え入りそうな声で応える。雄一はそんな恵理子を見て笑って「おやすみ」と言って去って行った。恵理子は雄一を見送ると家の中に入る。

 その日、恵理子はリストカットをしなかった。




 翌日、恵理子は勇気を振り絞って家の外に出た。数人の人達が歩いている。

恵理子は家に戻ろうとしたが、かぶりをふって前を向いて歩き出した。


 もう一度、雄一に会いたい。

 会って、あの笑顔を見てみたい。


 恵理子はそれだけを考えて歩き続けた。公園の中に入った恵理子は辺りを見回した。隅の方に昨夜見た段ボールの家々を見つけた。昨夜のようにたくさんの人達はいなくて、2、3人の人がいる。恵理子は気後れした。やっぱり帰ろうときびすを返すと、聴きなれた声がした。


「おーい!」


 振り返ると雄一が立っていた。


「よく来たね。ココアを飲みなよ」


 やっぱり優しい声だった。

 恵理子は雄一に向かって歩き出す。雄一は座ってスケッチブックに鉛筆で何か描いていたが、恵理子がそばに来ると立ち上がった。


「ちょっと待っててね。ココアを持ってくる」


 そう言うと段ボールの家に向かった。そこにいた初めて見る2人が恵理子に向かって「やあ」という感じで手をあげた。恵理子も恐る恐る手をあげる。2人の目も優しそうだった。


「お待たせ」


 そう言って雄一が恵理子にカップを差し出した。恵理子は黙って受け取る。


 ココアはやっぱり甘かった。


 それから2人は黙って座っていた。雄一はスケッチブックに絵を描いているようだった。恵理子はぼんやりと太陽を見ている。まぶしかったが太陽を見るのも久しぶりだな、と思った。

 そんな沈黙の中、恵理子が口を開く。


「・・・・あたしの手首の傷痕きずあと、見ましたよね」


 雄一は鉛筆を動かしながら言った。


「僕らはみんな生きている、っていう歌を知ってるかい」


 その歌なら恵理子も知っている。幼稚園の時、皆で唄った歌だ。雄一は鉛筆を止め、自分のてのひらを太陽にかざした。


「君もやってごらん」


 恵理子も自分の掌を太陽にかざした。掌の中の血管が見える。


「こうすれば、そんな事をしなくても自分が生きていると実感できる」


 恵理子は、はっとして雄一を見た。


「おっと。よけいな詮索だったかな」


 そう言って笑うと、再び鉛筆を走らせだした。それから2人は何も喋らずに、ただ座っていた。太陽の光が気持ち良いと恵理子は思った。


 家に帰った恵理子は自室のベッドに座る。かたわらには見慣れたカッターナイフがあった。しばらく見ていた恵理子は、それをつかんで窓の外に放り投げた。




 それから恵理子は毎日のように公園に通いだした。両親は心配そうにしていたが、それでも娘が自分から外に出て行くのを見てちょっと嬉しそうである。


 段ボールの家にはいつも2、3人の人がいた。恵理子と顔なじみになった人もいる。恵理子はそんな人に自分から「こんにちは」と言えるようになっていた。


 雄一はいつもいて絵を描いている。恵理子を見ると黙ってココアを持ってきてくれた。2人は何も喋らず座っていた。雄一は何も聞かずに黙々と鉛筆を走らせている。

恵理子がそれを見ると風景画のようだった。恵理子は絵の事は判らなかったけどとてもキレイに見える。雄一にそれを告げると「そうかな」と照れたように笑った。


「雄一さんは、いつも絵を描いているんですね」


 恵理子は最近では、はっきりとした口調で喋れるようになっていた。


「ま、一応これが俺の仕事だからね」


「仕事 ? 」


「こうやって描いた絵を道に並べて売るんだ。あまり売れないけどね」


 雄一は苦笑する。恵理子は最初に会った時の雄一の言葉を思い出して急に不安になった。


「あの、しばらくはここにいるって言ってたけど」


「ああ、僕は旅をしながら絵を描いてる。まだ行ってみたい場所もたくさんある」


 恵理子は叫んだ。


「雄一さん! どこかに行っちゃうんですか! 」


 恵理子の目は涙目だった。雄一はそんな恵理子の頭に手を乗せる。


「しばらくは、ここにいるって言っただろ。ここは居心地も良いし」


 それでも涙目の恵理子に雄一は小さな箱を取り出した。


「こんなのも作ってる」


 箱を開けるといくつかのアクセサリーが入っている。


「こっちはまるで売れないけどね」


 恵理子がのぞき込むと、さまざまな色をした指輪やネックレスが入っていた。


「・・・・キレイ」


 恵理子はネックレスを取り出した。紅い石がついている。太陽にかざすと、それはキラキラと光った。恵理子には本物の宝石のように見えた。


「とってもキレイ」


 恵理子はうっとりするように言った。


「君にあげるよ」


「え? 」


 恵理子は驚いたように雄一を見た。雄一は頭をかきながら続ける。


「どうせ売れないんだし。君が気に入ってくれたのなら君にあげるよ」


「・・・・・・」


 恵理子は無言だったが、いきなり雄一に抱きついた。


「ありがとう! ありがとう、雄一さん! 」


 抱きつかれた雄一はちょっと困ったような顔をしたが、優しく恵理子の肩に手をかけた。





 翌日、恵理子はある決心をして家を出た。今日こそ、雄一に自分の名前を言おう。そして色々な事を聞いてもらおう。


「雄一さん、びっくりするかな」


 恵理子は微笑みながら公園に向かった。


 公園に着いた恵理子は愕然がくぜんとした。


 段ボールの家が無い。


 数人の作業員が大量の段ボールをトラックに積んでいる。恵理子は思わず作業員に駆け寄った。


「あの! ここにいた人達は! 」


 作業員はやれやれといった態度だった。


「やっと浮浪者どもを追い出したよ。住民から苦情が出てたからな」


 恵理子は呆然ぼうぜんと片づけられる段ボールを見ていた。




 恵理子は無言で自室に入った。


 引き出しからネックレスを取り出す。雄一からもらったネックレスだった。

紅い石が光っている。


「・・・・雄一さん」


 恵理子の瞳から涙がこぼれ落ちた。それは途切れる事なくあふれ続けた。



「雄一さん! 雄一さん! 」



 恵理子はいつまでも泣き続けた。





 恵理子が学校に行く、と告げると両親は驚いた。無理はしなくていい、と言ったが恵理子の決心は変わらなかった。


 制服を着た恵理子は通学鞄を持って家の前で立っている。太陽がまぶしく光っている。


 恵理子は太陽に掌をかざした。自分の血管が見える。恵理子は制服の中のネックレスを握りしめた。



「雄一さん。あたし負けないからね」



 そう言って恵理子はしっかりと前を向いて歩き出した。










終わり







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北浦十五 @kitaura

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