第二十六話 それは天使のように


 そこは地獄のようだった。


「父さん! 母さん! 真昼! しっかりして!」


 上下が逆さにひっくり返った車の中には両親と妹がいる。

 扉は歪んで開けられない。窓ガラスを叩き割って家族を外に引っ張りだそうとするが、非力な深夜一人ではそれは不可能だった。


「深夜……」

「父さん! 大丈夫?」


 そんな中、深夜の呼びかけに父が意識を取り戻す。だが、彼の発する言葉は彼をより一層の絶望に叩き落とした。


「足が折れて動かないんだ……深夜……母さんと真昼は?」

「すぐ……助けを……」

「あぁ……深夜だけでも離れなさい……瓦礫が、また落ちてくるかもしれないから」

「助けを呼ぶから! 待ってて!」


 父の言葉を遮るように叫び、瓦礫の壁と家族の乗る車を背にして少年はトンネルの奥に進む。


――無事な大人を……みんなを助けられる人を……――


 それは誰でもよかった。家族を助けるため、力となってくれる誰かが欲しかった。

 そんな都合の良い願いを求め、歩き続けたその先で見た光景を彼は決して忘れないだろう。


 乗用車よりも巨大な瓦礫に押し潰された車があった。


 横転した車から漏れたガソリン。そこから引火した炎が、今にも逃げ遅れた人々を焼き殺さんと手ぐすね引いて踊っていた。


 足がめちゃくちゃな方向に曲がって、微動だにしない人間がいた。


 深夜と同じように、家族を助けてと泣き叫ぶ幼い子供がいた。


 その全てを振り切って、深夜はトンネルの奥へと進み続けた。

 煙のせいだろうか。左眼痛い。目が開けられないほどだ。だけど、今はそんなことにかかずらっている余裕はなかった。


「誰か! 誰かいないんですか!」


 助けを求める声は、それ以上に悲壮な嘆きと、恐怖と、絶望の怨嗟に飲み込まれて、誰の耳にも届きはしなかった。


「誰か……誰か……」


 歩みを進めるほどに左眼の痛みが酷くなり、遂に我慢できずに手で覆う。

 それとほぼ同じタイミングで、周囲からグラグラと地響きのような音と地鳴りがし、深夜は本能的な恐怖に突き動かされてわき目もふらずに走った。


「あっ……」


 全力で、さらに奥に向かって、走った。

 そして、走り続ける彼の背後で轟音と地響きが響く。

 その音の中に助けを呼ぶ声があった気がしたが、それは一瞬の錯覚のように崩落する天井に飲み込まれ、轟音の残り香の耳鳴りだけが聞こえていた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 振り返ると深夜が歩いてきた道は瓦礫と土砂によって埋め尽くされ、もう後戻りはできなくなっていた。


「あぁ……あぁ……」


 全身の力が消失していく。

 絶望

 恐怖

 無力感


 トンネル内に蔓延していたそれらの感情が、遂に深夜の心も蝕みはじめた。

 だが、それでも、歩みを止めるわけにはいかなかった。歩みを止めれば、もうその未来が変えられないことを彼は生まれた時から知っていたから。

 どれほど、歩いただろう。赤い炎の柱に包まれた世界で少年は彼女に出会った。


「………バケモノ」


 地獄の中に一人の黒い少女がいた。


 ボブほどのウェーブのかかった髪は土煙にまみれてうっすらと白く、纏う衣服はボロボロのワンピース。靴も靴下も履かずに素足。

 琥珀色の日本人離れした瞳は生気の感じない虚ろを見ていて。

 そして、そのこめかみからは大きな黒い翼が生えていた。

 その翼はカラスのものによく似た、黒く大きな翼。


 そんな異形の少女の瞳にわずかに感情が宿り、億劫おっくうそうに深夜を見とめると、少年と怪物は見つめあう。


「バケモノ……か……」


 少女は羽を地面にひきずるように垂らしてゆらりと近づき、深夜の首を片手で掴み、持ち上げる。


「あっ! がっ!!」


 当然、深夜の呼吸は止まる。

 必死に両手で少女の細腕に抵抗するがビクともしない。


「随分、ひどい言いようね」

「じゃあ、なんなんだよ……お前は」


 まさかこの状況でなお、そんなことを聞いてくるとは思ってもいなかったようで、少女は一瞬きょとんとした後に、三日月のように口角を薄く持ち上げて笑う。


「私はね、悪魔よ」

「悪魔……」


 それは冗談なのか、事実なのか。

 だが、深夜にとって今はそんなことはどうでもよかった。

 深夜にとって重要なのは、この怪物には深夜を片腕で持ち上げられるほどの力があるということ。

 彼女なら、家族を助けられるかもしれない。


「だったら……力を……貸せ」

「はぁ?」

「お前が悪魔だっていうなら……」


 薄れゆく意識の中、それでも瞳を逸らさずに、自らを今まさに絞め殺さんとする少女に向けて言葉を続ける。


「お前の……望むものをくれてやる……なんだってしてやる……だから」

「だから?」

「お前の力を俺に貸せ!」

「……っぷ」


 少女はパッと深夜の首にかけていた手を放し、腹を抱えて大笑いをしはじめた。


「あっはっはっはははは! 本気? なんでもするって! あっははは! この状況で? あー、おかしい! はっはっは!」


 その嘲笑はトンネルの奥深くの闇に飲まれていく。


「ひー、ひっひ……あんた、サイコーね」

「はぁ、ごほっ、ごほっ!」

「いいわ。乗ってあげる。その話」

「はぁ……はぁ?」


 少女は地に這いつくばって咳き込む深夜の前に屈みこみ、その頬を慈しむように撫でる。

 しかし、その口元は三日月のように歪に吊り上がっていた。


「ねえ、ニンゲンさん、あなたの名前は何?」

「神崎……深夜……」

「深夜……ね。私はラウム。七十二柱の第四十位。破壊を司る黒い鳥」

「ラウム……」


 短く、眼前の有翼の少女の名を反芻はんすうする。


「それで、深夜は私の力が欲しいんだよね?」

「ああ。俺は……家族を、助けたい」

「……じゃあ、私と契約をしましょう」

「契約?」

「そう、契約。あなたに私の力の全てを貸してあげる。あなたの願いをなんでも叶えてあげる」


 少年の背後から何度目かもわからなくなった崩落の音が轟き、その余波が熱い風となって二人の髪を揺らした。


「その代償に、私はあなたの全てをもらう。そして……私の願いを叶えてもらう」

「お前の、願い?」

「うん、そう。私の願いはね……」


 少年の手を取り、立ち上がらせ、自身の側頭部から生えた翼を見せつけるように広げ。



「天使になりたいの」



 悪魔は笑ってそう言った。

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