第二十五話 代償


 ラウムの異能を使う度に、深夜の脳裏には妙なイメージがよぎる。

 それは巨大な黒い鳥の怪物に肉体を食いちぎられるイメージだ。

 痛みはない。ただ、自分を構成していた「何か」が失われたのだと、漠然と感じるだけ。

 この感覚だけは何度この力を使っても慣れることはできなかった。


 ◇


 灯里を連れて温室棟の外へと抜け出していた雪代の目の前で、一つの建築物が一瞬にして瓦礫の山へと変わっていく。その様相を間近に見て、今日何度目になるのかわからない絶句と恐怖の感情が彼女を襲った。


「これがあの悪魔……ラウムの異能」


 そしてすぐに、その崩壊した温室棟の内部にはまだ、その当事者であるはずの深夜が残されていることを思い出す。


「神崎さん!」

「あぁ、大丈夫。ちゃんと生きてるよ」


 その声がした瓦礫の山の一部。周囲と明らかに破片の細かさが違う領域から、全身を土埃で白く染めた深夜がラウムの大剣を握ったまま這い上がってくる。


「それに、まだ終わってない」


 そして、その深夜の言葉通り。温室棟の倒壊に巻き込まれ押し潰されていた樹竜もまた、瓦礫を強引に押しのけて姿を現した。

 樹竜は鉄骨の残骸が刺さったボロボロの姿を取り繕うことすらせずに、深夜を噛み砕こうとその首を伸ばす。


『「最高だ! もっと、もっと見せてくれよ。神崎ぃぃいいいい!」』

「雪代。そこから、撃って」

「っ! ……はい!」


 その言葉で雪代はようやく、深夜が言っていた策の全容を理解し、深夜を喰らおうと開かれた樹竜のあぎとへと退魔銀の弾丸を撃ち込んだ。


『深夜、危ない!』

「大丈夫だよ……アイツの終わりはもう視えた」


 雪代が放った一発の弾丸は、温室棟の瓦礫に押し潰されていた樹竜の頭から尾までを一直線に貫いた。


『「なっ……」』


 あとは一瞬の出来事。

 樹竜の全身を構成していた木々は弾けて木片へと変わり、無防備となった三木島の姿と、そこへと続く一本の道が月夜の元にさらされる。


「これで最後だ、三木島!」


 その光景を十五秒前に見据えていた深夜はまっすぐ三木島に突撃し、両手で構えた大剣の全力の一撃をその胴体へと叩きこむ。


「がはっ! ……っ!」


 その勢いのまま三木島の体は軽々と吹き飛ばされ、温室棟だった瓦礫と核を失った樹竜の残骸達の山を転がり落ちていった。


「ふぅ……疲れたぁ」


 瓦礫の山の頂点に立つ深夜は、緊張の糸が途切れたかのように息をつく。

 彼が大剣から手を離すと、剣は織物が解けるように消え去り、代わりに黒髪の少女、ラウムが再びその姿を現した。

 唯一、剣に変身する前と違いがあるとすれば、失われていたはずの顔の左半分が治り、琥珀色の瞳が両目に輝いていることだろうか。


「私、この三日間深夜に会えなくて寂しかったんだよぉ! ……って避けられた!」

「耳元でうるさい……」


 深夜は、飛び跳ねて抱き着いてこようとするラウムを最小限の動きでひょいと躱すと、先ほどの戦っていた姿が嘘のように頼りない足取りで、そろそろと瓦礫の山を降りていく。


「ねえちょっと深夜ぁ! こんな美少女のハグなのに何が不満なの!」

「それ、自分で言うんだ……」

「てへて、きゃるん☆」


 対して、ぴょんと人間離れした跳躍力で瓦礫の山から一跳びで深夜の隣に降り立ったラウムは、頬に両手の人差し指を当ててウインクする謎の決めポーズをとる。

 誤魔化しているつもりなのか。それとも本気で自分の可愛さをアピールしているつもりなのか。

 そこを言及するとさらに疲れそうだと思い、深夜はそれを見なかったことにした。


「まだ……だ」

「あらら、アイツ。まだ意識があるみたいだよ?」

「まだ、足りないんだよ……神崎!」


 瓦礫の山から転がり落ちたことで額から血を流し、骨折した両腕を振り回すその姿はゾンビのような惨憺さんたんたる気配すら漂っている。

 今この瞬間が心底楽しいという喜びと、この乱痴気騒ぎの終わりを拒絶しようとする切実な怒り。

 それらが混ざった表情を浮かべるその男を、深夜は冷めた目線で見下ろす。


「もう一発ぶん殴っておく?」

「いや、いい。さっきも言ったろ? 


 もはや三木島に対する怒りも興味も失せたとばかりに、深夜が彼に背中を見せた瞬間、三木島の折れた右腕に異変が現れた。


「あっ――」


 ワイシャツの袖から見える彼の右手が、急激にしぼみ始めたのだ。


 元から細身だった指先はすぐに骨と皮だけとなるが、変化はそこで止まらない。

 瑞々しさが失われた爪先から皮膚がひび割れ、果てはミイラのようにカラカラに干からびた彼の腕は、ボロボロと土人形が風化するように崩れていく。


「が、あぁあああ!」


 三木島の絶叫が月夜に木霊する。

 だが、誰にもどうすることもできず。無情にその袖口から、さっきまでは彼の右腕だったのであろう乾いた砂が、ザラザラと音を立てて流れ落ちていく。


 そして、中身を失った右腕の袖が夜風にたなびき、三木島は残された左腕でその肩を押さえて、その場にうずくまった。


「あっ……がっ はぁ……はぁ……」

「悪魔の異能を使いすぎた……その代償です」


 そんな三木島から目を逸らし、雪代はやるせないといった表情を浮かべる。

 今の今まで殺されかけた相手だというにも関わらず、だ。


「……お人好しだね」

「何か言いましたか?」


 深夜の呟きは雪代の耳には届いていなかったらしい。

 だが、それでいいと深夜は彼女の確認を聞き流す。


「……それじゃあ、あとは任せるよ。相模の時と同じく、後処理も協会あんたらの仕事なんだろう?」

「ま、待ちなさい! 神崎深夜!」


 既に自分のやるべきことは終わったと、深夜はラウムと共にその場を後にしようとする。

 雪代はずっと握りしめ続けていた拳銃をその背中へと突き付け、去ろうとする彼を呼び止めた。


「いつ……からなんですか」


 困惑、怒り、失望、あるいは恐怖。カタカタと拳銃が小刻みに震える音が背中越しに深夜に伝わる。

 いつから。

 それは、「いつからラウムと契約していたのか」という意味だろうか。

 それとも――。


「俺がラウムと契約したのは二ヵ月前。トンネル事故のあの日だよ」

 深夜はゆっくりと振り返り、雪代の瞳を見つめて淡々と真実を答える。

「つまり……、ということですね」

「……そうなるね」

「大した演技力です」

「演技なんて特にしてないよ。だって俺、雪代の前で一度も嘘を言ってないから」


 人を騙す時、最も効果的な方法は「都合のいい真実しか口にしないこと」だ。


「……どうして」


 深夜の左眼が雪代のどんな表情を視たのか、それは彼にしかわからない。


「悪魔の力には、代償が伴います……」

「うん、知ってる」


 悪魔の力はタダではない。彼女達の異能を使えば使うほどに、契約者は何らかの代償を支払うこととなる。

 血液、皮膚、視力や聴力、果ては記憶。

 代償の内容は悪魔によって様々だが、それが何であれ、代償を支払い続けた先に待つ結末は三木島が示すように、例外なく破滅だ。


「わかっているなら、どうして! 今は大丈夫でも、いずれ三木島大地のようになってしまうかもしれない。いいえ、もっと酷いことになる可能性だってあります。あなたはそれがわからない人ではないでしょう!」


 雪代の感情が爆発する。

 それは、たとえ三日という短い期間であろうと、生死の危機を共に乗り越えてきた深夜を、彼女が本気で信頼していたことの何よりの証拠だった。


「そこまでして……悪魔に魂を売ってまで、あなたは何を願うっていうんですか」

「現状維持」


 深夜は迷いなく、自らがラウムに託した願いを答える。

 今までと同じようにその言葉に嘘はない。


「現状、意地?」


 雪代は深夜の言葉の真意を理解できないと、拳銃を構えたまま表情を歪に固める。


「誰に聞いたのかはもう思い出せないんだけどさ『その場に留まるには、全力で走り続ける必要がある』って言葉があるらしい」


 良きにしろ、悪きにしろ、世界は何もしなくても変わる。緩やかに、あるいはある日突然、残酷に。

 変化し続けることこそがこの世界の当然のルールで、人は誰しもそれに折り合いをつけて生きている。


 だが、それでもなお、変わらない『今』を求め続けるのなら、変わろうとする世界に全力で抗い続けなければならない。

 たとえ、神を敵に回しても。


「家に家族がいて。学校に友達がいて。寝て、食べて、勉強して、遊んで……今のそういう日々をこれからも続けていく。それが俺の願い。だから――」


 悪魔憑きの少年は最後にあえて雪代から目線を外し、自らの隣に立つ悪魔の少女へと向ける。


「――俺の大事なものを守るために、俺にはこいつが必要なんだ」


 そして、深夜は迷いなく雪代に背中を晒し、再び歩き始めた。


「ま、待って!」

「その銃の中、空でしょ? 雪代が嘘をついてなかったら、だけど」

「……ええ。そう、でしたね……」


 深夜の背中越しの言葉を受け、雪代は力なく銃口を下ろし、意識を失ったままの灯里を改めて抱きかかえる。

 そして、周りをぴょんぴょんと飛び跳ねるラウムをうっとおしそうに歩く深夜の背中を黙って見送った。


「きゃー! 今のすっごくキュンときた! ねぇねぇ、もう一回! もう一回言って! 『俺にはこいつが必要だ』って!」

「うるさい。引っ付くな。疲れる」

「おーねーがーいー! 一回だけ! 一回でいいからぁ! ねぇ、深夜ぁ!」

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