幕間 一 ゴミ捨て場の悪魔
これは深夜と雪代の出会いと時を同じくする、もう一つの非日常との出会いの話。
「ただいま」
深夜達と別れ、両親と共に住んでいるマンションの一室にまでたどり着いた灯里は、その玄関扉を開けて帰宅の言葉を投げかける。
しかし、家族からの返事はなく、返ってきたのはロボット掃除機の微かなモーター音だけだ。
「今日も一日、お掃除ありがとうね」
日中、健気にも誰もいない家の留守を預かっていた円盤型ロボットに労いの言葉をかけながら、以前に聞いていた両親の仕事のスケジュールを思い出す。
――えっと、今日はお母さんが夜勤で……お父さんが出張で三泊だっけ――
両親が共働きの宮下家では、この時間でも誰もいないというのは珍しいことではない。
灯里はいつものように廊下の電気をつけて、いつものように制服のままリビングに向かい、いつものようにそこに安置された仏壇の前に膝をつく。
「ただいま、お姉ちゃん」
こぢんまりとしたその箱に掛けられた写真に写っているのは、灯里によく似た、しかし、彼女よりも少し大人びた雰囲気を持つ細く白い顔つきの少女。
若くしてこの世を去った姉に何を報告するわけでもなく、じっと目を閉じて短く手を合わせる。
そんな毎日のルーチンワークを終えてから、灯里は自らの寝室へと向かった。
――もう、お姉ちゃんと同じ年なんだけどな――
幼げな印象の抜けきらない丸みのある顔の輪郭、袖の余ったオーバーサイズのセーラー服。
自室に置かれた姿見に映る自分の姿を見て、灯里はそんな自嘲の感想を抱く。
「みんな、ただいま……ってこういうところが子供っぽいんだよ、私……」
ベッド上に並ぶ多種多様なデフォルメされた動物のぬいぐるみ達。彼らに自然と話しかけている自分に対して苦笑いとツッコミを漏らし、灯里は制服のままベッドに倒れこむ。
「……お姉ちゃんだったら、もっと上手くお話できてたのかな」
帰り道での深夜とのやり取りを思い返し、脳内であの時はああ言えばよかった、とかあの時はこう返すべきだった、といった感じに反省点をリストアップする。
そして、スマホでSNSアプリを立ち上げると、灯里は淀みの無い慣れた手つきで文章を作成し始めた。
『今日はちょっと色々あって、彼くんに助けられちゃったり、久しぶりに一緒に下校したりでいい一日だったな。惚れ直しそう。そういえば、しばらく彼くんのご両親が不在で夕飯に困っているらしい。今度、普段のお礼も兼ねてお家にお邪魔して料理を作りに行こうかな。妹さんの好感度も上げておかないと』
そんな文面をネット上にアップして、数秒と経たないうちにその書き込みに羨みの声や『色々』の詳細を気にする反応が付く。
もちろん深夜は灯里の彼氏でも何でもないし、料理を作りに行くという話も提案しようとはしたが臆病風に吹かれて誤魔化したので現実になる予定はない。
灯里は今さっき自分が書いた文面をもう一度黙読してから枕に顔を埋めてぼやく。
「……何やってんだろう、私」
最初は軽い気持ちだった。
学校の授業で、教師からの質問に見当違いな回答をして恥ずかしい思いをした日「もしも、ちゃんと正解していたら」を想像し、それをあたかも本当のことのようにネットに書き込んでみた。そうすると、なんだか少し救われたような気がした。
今日は失敗したけれど、うまくやればこんな素敵な未来があったのだと思えた。
だから、その日以来、「理想の自分」を想像することが灯里の日課となった。
勉強ができて、友達に頼られて、そして、素敵な恋人がいる自分。
それを文字にして書き残し、現実の自分を少しでもその理想に近づけられるようにと。
「とはいっても、現実との差は広がる一方なんだけどね……」
自分でもピアノが弾けて、県内有数の進学校に通い、さらには学年トップの成績を持つ彼氏がいる、というのはいくらなんでも盛りすぎた気がする。
だが、一度ネットの海に自らの妄想を公開してしまった以上、灯里に逃げ場はどこにもなかった。
「お風呂入ろ……」
ベッドの上でウジウジとしていても時間が無駄に過ぎるだけだ。
そう自分に言い聞かせ、精神的な理由で重い体を持ち上げてスカートのジッパーに手をかけようとしたところで、勉強机の卓上カレンダーから明日が可燃ごみの日だと思い出す。
――お風呂の前に気づけてよかった――
お風呂で体を洗った後にゴミ捨て場に行くのは嫌だ。
そう思った灯里はセーラー服のまま、一週間分の燃えるゴミが詰まったビニール袋二つを両手に持って再度エレベーターに乗り、一階にあるゴミ捨て場へと向かった。
屋外駐車場の脇にある共同ごみ捨て場の前に立ち、ノブに手を掛けようとした時ある違和感に気づいた灯里の動きが止まる。
「……あれ、扉が開いてる?」
簡素な小屋状のソレはマンション居住者以外の不法投棄対策のため、本来なら安っぽいダイヤル錠で常に施錠がなされているのだが、今はその引き戸が微かに開いていた。
「誰かが閉め忘れたのかな」
その
そして、彼女の背後から月明かりがゴミ捨て場の内部に差し込み、灯里はその青白い光に照らされたそれを見つけた。
――なんでこんなところに人が……酔っ払い……かな?――
小屋の中にあったのはゴミ袋の山に体を預けて横たわっている人影だった。
袋詰めにされているとはいえゴミはゴミ。臭いも酷く、とてもじゃないが、まともな精神状態でこんなところで寝ようと思う人間はいないだろう。
ましてや遠目からでも見える、ショートパンツから大胆に伸びるすらりとした白い足は、おそらく女性のものだ。
少なくとも灯里にはこんなところで寝るなんて絶対に真似できない。
「どうしよう……」
両手には中身のたっぷり詰まったゴミ袋。しかし、ゴミ捨て場にはどういうわけかゴミに埋もれて寝ている女の人。
選択肢は三つ。
一つは女の人を無視してゴミ袋を置いて去る。まったく知らない人だが流石に良心が
一つは声をかけて起こすか引っ張るかをしてそこを退いてもらい、ゴミを捨てる。状況が状況だけに相手が女性とはいえ、万が一にも危ない人だったらどうしようという恐怖心に一歩たじろぐ。
一つは見なかったことにして明日の朝に改めてゴミを捨てにくる。つまり決断の先延ばし。
「……どうしよう」
思考が一巡した果てに、灯里は思わずまた同じ言葉を呟いてしまう。
――こういう時、神崎くんならどうするのかな――
何かの決断を迫られた時、灯里の胸の中にいつも泡のように浮かび上がってくるこの問いかけ。
気にせずゴミ袋を捨てていく気もするし、恐れずに声をかける気もする。
だけど、もし彼が同じ状況になれば少なくとも三つ目の選択肢だけは選ばないだろう。そんな根拠のない確信だけが灯里の中にはあった。
――どうせなら勇気が必要な方を選ぼう――
「よし!」
覚悟を声に出し、ありったけの勇気を振り絞って灯里は決断を下す。
「あのー……大丈夫ですか?」
「…………」
まずはゴミ捨て場の外から声をかけてみる。返事なし。
「風邪ひきますよー」
「…………ぁ」
一歩、ゴミ捨て場の中に踏み込んで、再度ゴミ袋の山の上に横たわるその人影に声をかける。呼吸は確認できた。しかし返事は相変わらずなし。
一旦、手に持っていたゴミ袋を足元に置き、スカートのポケットから取り出したスマホのライトで照らして改めてゴミ山に横たわるその姿を観察する。
すると、驚いたことにそこにいたのは灯里と同じくらいの年恰好の少女だった。
白い羽をかたどった髪飾りを付けた、くしゃりとウェーブのかかったミディアムヘアの黒髪。いわゆる
髪色と対照的に透き通るように白い化粧っけのない顔は、まぶたを固く閉じ、薄く
――酔っ払いにしては若すぎる。よね―――
嫌な予感と同時に思い出したのは、先月からこの街を騒がせている襲撃事件のこと。
その事件が彼女にとっても他人事と言えないこともあり、改めて湧き上がってきた恐怖心がノミの心臓を締め付ける。
そんな悪い想像を否定するためにより詳しくその少女の姿を観察しようと、顔から徐々に下に移動させた光がボロボロに引き裂かれたサマーセーターを照らし出し、灯里の呼吸が詰まった。
「あの! 大丈夫ですか!」
夜にも関わらず叫んだのは自分を奮い立たせるため。
数歩しかない距離を駆けたのは自分が逃げてしまわないためだった。
「声、出せますか?」
「ん……んゅ?」
少女はその声に応えるよう首を捻り、眩しそうにスマホのライトから顔を背ける。
「……あぁ……ニンゲンかぁ……」
そのまますんすんと鼻を鳴らし灯里の存在を認識すると、少女は強張らせていた体から力を抜いてまたゴミ袋に全身を埋めた。
「け、警察……じゃない、救急車! すぐに救急車呼びますね!」
少女の生存を確認し、灯里はてんやわんやでスマホを操作し救急車を呼び出そうとするが、それは怪我人本人によって遮られる。
「あぁ……わるいんだけど、そういうのはやめてほしいかも……」
「え? で、でも怪我してますよね」
「うん……そうだけど、大丈夫だから。気にしなくていいよ」
「そんな、大丈夫にはとても……」
会話はできているが発せられる声もか細く途切れ途切れで、彼女の言い分はとても信じられない。
灯里はなおも食い下がろうとするが対する黒髪の少女は、はぁーしょうがないかぁ、とため息をつくと、がばっとゴミ袋に埋めていた上体を起こした。
「ひっ……!」
そして、今度はスマホのライトにしっかりと照らされた少女のその顔を見て、灯里は言葉にならない悲鳴を上げる。
「だから、私は大丈夫なんだよ。ニンゲンさん」
黒色よりもなお艶やかな濡羽色の髪の少女。彼女の顔面は左半分が存在しなかった。
「私、見ての通りのバケモノだからね」
琥珀色の大きな丸い右眼と対になるようにぽっかりと空いた空白。
本来なら頭蓋骨や脳があるべき内部にもそれらしきものは見つからない。
少女の顔に空いた大穴の断面は血が滴るでもなく。肉に覆われているのでもなく。
黒い
「ぁ……あの」
「朝までにはいなくなるから……そっとしておいて……」
体を起こすこともかなりの無理をしていたのか、バケモノを自称する黒髪の少女はまた全身の力を抜いてゴミの山に体を預けようとする。
だが、それを遮るように灯里の叫びがゴミ捨て場の狭い密室に響いた。
「あの……それでも!」
「なに? あぁ、ゴミなら気にせず置いて行ってくれて……」
「そ、それでも……怪我、してるんですよね?」
「え?」
灯里の言葉を受け、少女の元々真ん丸な琥珀色の右目が零れ落ちそうなほどに見開かれる。
「病院がダメでも……私にできること、何かありませんか?」
灯里は自分でも正直何を言っているのかよくわかっていなかった。
ただ、彼女の心の内側を支配しているこの感情の名前だけは、はっきりと知っていた。
これは恐怖だと。
「あなた……怖くないの?」
自称バケモノが灯里に問いかける。
怖くないわけがない。
なまじ神崎深夜という本物の特別な存在を知るが故に、目の前の少女もまた、自分の常識が通じる相手でないことがはっきりとわかる。
けれども宮下灯里にとっては少女から感じるそれ以上に、目の前で命が失われるかもしれない、ということの方が耐え難いほどの恐怖なのだ。
「…………」
だから、灯里は何も答えない。「怖い」とも「怖くない」とも。
「お人好しだね」
ポツリと黒髪の少女が呟く。そして、彼女はすぐに屈託のない笑みをにへらと浮かべた。
「じゃあさ、しばらく私のことを匿ってほしいな」
「はい、わかりました!」
勢いよく答えてすぐに、自分でも無責任なことを言っているなぁと思った。猫や犬をこっそり飼うのとは話が違う。
だが、幸いにも灯里の両親は昼も夜も仕事でほとんど家にいない。意思疎通ができる分、犬猫より隠すのも簡単だろう。
「ほんとーにお人好しだね……えっと、お人好しさん。あなたの名前は?」
「あ、ええと。宮下、灯里です」
「灯里か。うんうん、かわいい名前だね。私の名前はラウムっていうの」
「ラウ……ムさん?」
それはやはり灯里の常識の外の名であり、どこの国の言葉なのかもよくわからない。
しかし、相手が何者であろうと、自分にできることが何か一つでもあるのなら、それをしなければならない。
そんな強迫観念に似た感情が宮下灯里の胸の内を支配していた。
「そ。私、悪魔なんだよね……きゃるん☆」
だから、よくわからない擬音語と共に頬に人差し指を当てる、妙に芝居がかった決めポーズを取っているこの悪魔の少女を、灯里は放っておくことなどできなかった。
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