第十五話 些細な約束


「結構遅かったね」


 そして、その声の主は眠そうに、左眼を閉じて現れた。


「神崎……」

「そんな……どうしてここが」


 セエレは和道に背負われた体勢のまま驚きの声を上げる。


「瞬間移動を抜きにしても。足で和道に追いつく気しないし。先回りしただけだよ」

「ですが……あなたから、今は悪魔の匂いがしません」


 いくら疲労困憊の状態とは言え、それでもセエレはここに来るまで常に魔力感知を怠ってはいなかった。ラウムとの契約がある以上、深夜にもわずかだがその匂いが残っているはずなのだ。


「ああ、それ? 考えてみたんだけどさ。悪魔の言う匂いって、つまり魔力の事でしょ。だったら、コレを使えばそういうの全部打ち消せるらしいからさ」


 そう言って深夜はピンっと親指で弾き上げた白銀色の弾丸を器用にキャッチして見せつける。


「まあ、ラウムに持たせるわけにはいかないから、アイツは別の場所で待機中だけど」


 セエレは意識を集中させると感知範囲ギリギリの所にラウムの魔力の気配があることに気づき、深夜の発言が嘘では無い事を確認する。


「セエレがそこまで弱ってるのは俺にとっても予想外だったけどね。その様子ならわざわざラウムを呼ばなくても、退魔銀コレだけでお前を消せる」


 街灯の白い光に照らされながら和道に歩み寄る深夜。彼は友の肩越しに赤い髪の悪魔を睨み、右手に持った白銀の銃弾を彼女の目と鼻の先に突き出す。


「消すって……神崎、この子は!」

「和道はちょっと黙ってて。話はコイツに直接聞く」


 深夜はセエレだけを真っ直ぐに見つめ、間に入ろうとする和道には目もくれずに言葉だけで制する。和道も深夜の左眼の事情を知っているが故に、余計なことはできないと判断し、息を飲んで黙りこむしかできなかった。


「セエレ、お前は……いや、秋枡円香は自分の娘をどうするつもり?」


 深夜は、由仁と瓜二つの姿で召喚された悪魔をじっと睨みつける。その答え次第では彼の右手に握られた退魔銀がセエレの身を滅ぼすという確たる意志と共に。


「私の目的は、召喚者の約束を果たすことでございます」

「約束……ね」


 深夜の手は動かない。だが、セエレは毅然きぜんとした態度を崩さず、その灰色の瞳はまっすぐに深夜を見つめ返す。


「はい、約束で、ございます」




 悪魔がこちらの世界に呼び出される際、まず最初に触れるのは他でもない、召喚者の魂に刻まれた記憶だ。


――僕が責任持って、由仁を育てなければならない――


 妻が遺したその小さな命を抱きかかえ、彼はそう誓った。


『ごめんね。髪、上手く結んでやれなくて』


 何度やっても、どれだけ練習しても左右で不揃いの長さに結ばれる髪。だというのに、彼女は出かける時はいつも髪を結んで欲しいと言ってきた。


『ああ、わかったよ、約束だ』


 それは今まで一度たりとも、父にワガママを言わなかった彼女が初めて言葉にした、些細な夢だった。だから、それをどんなことをしても叶えなければいけない。そう思った。


――これは……由仁のために……――


 『娘のために』その言葉を使えば全てが許されるような気がした。彼も何も知らない子供ではない、「」が人の人生を破滅へと導く物である事も、自身のやっている事がこの国の法を犯す行為だと言う事も、全て理解した上で他人の不幸を金にした。

 彼を捕らえに来た警察から、ある一人の少女がクスリの過剰摂取によって命を落としたと聞かされた時、初めて、自分は当の昔に、人の親である資格を失っていたことに気づいた。


――すまない……すまない……僕はもうどうなってもいい、だが、由仁に罪は無い、どうか、あの子のこの先の人生が幸せになるのなら、今度は、他人ではなく、僕の全てを差し出そう――


 監獄で後悔と懺悔ざんげを繰り返し続けた彼の祈りが、今もセエレの頭の中で反響し続けている。


 そんな風に秋枡円香の記憶は最愛の娘で埋め尽くされていた。


 その記憶を元にして形作られたセエレの肉体が秋枡由仁と瓜二つとなるのは当然のことだろう。

 彼は決して善い人間ではなかった。人をだまし、おとしめ、果てはその命を奪う原因の一旦を担った。それは人の言葉では外道と呼ばれるに相応しい。

 だが、きっと彼は良き父ではあろうとしたのだろう。善悪や道理すらいとわぬほどに、ただただ、一人の人間の幸福を願う。人も神もそんな独りよがりの在り方は許さないだろう。しかし、彼が最後に願いを託したのは神でも人でもなく一人の悪魔で――


『今一度問いましょう、貴方様の願いを』

「娘に世界を見せてやりたい……他の国の街並みや、景色や、人を……昔、約束したんだ。頼む』

『かしこまりました。その約束、私めが必ずや叶えましょう』


――そして、その悪魔はそんな彼の在り方を尊いと思ってしまった。






「約束って、海外旅行に連れて行く、だっけ?」

「……ご存じでしたか」

「色々あって、本人から聞いた」

「ハイ……彼女が望む世界の景色を直接見せる。そのために、私は召喚されました」


『瞬間移動』

 その気になれば地球の裏側にでも一瞬で移動できる力、それがセエレの異能。つまり、秋枡円香はその力をただの海外旅行のために使おうとしていたというのか。


「そんなことのために……」

「はい、そんなことのために、あの方は私を召喚しようとした。そして……」


 その代償によって、願いを果たすよりも先に命を落とした。


「ソレを果たせば、一日と経たずに私は魔力が尽きて消えるでしょう。身勝手な願いであること、そして、和道様を巻き込んでしまったこと、重々理解した上で、どうか、お目こぼしください」

「というわけだ、俺からも頼む神崎!」


 和道の肩越しに首を垂れるセエレとそれに合わせるように腰を曲げる和道。


「悪魔の言う事なんて、信じる気無いけどさ……」


 深夜は大きなため息と共に退魔銀の弾丸をズボンのポケットの奥に納めて、道を譲る。


「あんたを今消すと、後で和道が後で面倒くさそう」

「恩に着るぜ、神崎」


 和道の表情が綻び、先ほどまでの緊張が嘘のように深夜の背中をドンドンと叩く。


「痛い……あ、でも監視のためについて行くよ?」

「むしろ、ご同行いただけるのでしたら助かります」

「で、由仁ちゃんの所まで異能で跳ぶの?」


 と深夜が今後の計画をセエレに確認するが、彼女は力なく首を横に振る。


「いえ……申し訳ありませんが、由仁様の往復分を残すことを考えると魔力的にはもう余計な跳躍は一度もできませんので……」

「つまり、忍び込むわけだ!」

「待て待て、マジで警察に捕まるから……」


 と言うか、子供の保護施設がそんな簡単に侵入出来たら違う意味でマズい。と深夜は自信満々にサムズアップしてそんなことを言ってのけた友人に胸の内で突っ込む。


「むしろ由仁ちゃんを何とかして外に呼び出した方が安全だけど……」

「そうは言うけど、呼び出すって、どうやって?」

「今考えてる」

「あの、お話し中、申し訳ありません。よろしいでしょうか?」


 と深夜と和道が頭を悩ませているとセエレがおずおずと声を出す。


「何かいい案があるとか?」

「いえ、そうでは無いのですが……施設の正門に誰かいらっしゃいます」

「まずい、隠れるよ!」


 セエレの指摘に釣られて、即座に養護施設の方に視線を向ける深夜。そこには確かに小さな人影が正門の向こう側に立っているのが見えた。


「おいおい、神崎。なんで焦ってんだよ?」

「みんながみんな和道みたいに、下半身無くなってる人間見て驚かないわけじゃないんだよ」


 口で説得するのが面倒になってきた深夜は和道を電柱の陰に力づくで押し込み、自身も物陰に隠れ、改めて正門の前に立つ人影を観察する。


「随分小さい……子供か?」

「もう真夜中だぜ? こんな時間に何の用で抜け出したりなんかするんだよ?」

「俺に聞かないでよ……とりあえず、離れるまで様子を見よう。もしかしたら、あの子が抜け出したおかげで、どこかしらの出入り口の鍵が開いたままかもしれないし」


 そうなれば直近の問題も解決する。そう思い、深夜達は息を潜めて、その小さな人影が必死に自身の身長よりも高い鋼鉄製の門扉を乗り越えようとするのを見届ける事にした。しかし、和道が発した言葉で状況は一変する。


「っていうか、アレ。由仁ちゃんじゃね?」

「うそっ!?」


 と咄嗟に大きな声が出るが、和道の言う通り、鉄門の上に身を乗り出し視認できたその顔は間違いなく、今彼らと共にいる赤い髪の悪魔と瓜二つだった。


【そして由仁が施設の正門の上に足をかけ、身を乗り出した瞬間、手を滑らせ頭からコンクリートで舗装された地面に向かって落下した】


「まずっ……あの子、落ちる!」

「嘘だろ、オイ!」


 落下までの猶予ゆうよは残り十秒弱、全力疾走してギリギリ間に合うかどうか。


――考えてる暇はない!――


 深夜は物陰から飛び出し、一直線に由仁に向かって駆け寄る。落下まで残り五秒。距離はおよそ三十メートル。


――クソ、門の内側に落ちるせいで、間に合わない――


 深夜が駆け出しても、左眼が視せる未来は変わっていない。【地面に横たわる由仁の髪が赤く染まって】


「由仁様!」


【否、その場に「跳んだ」赤い髪の少女が、由仁を抱きしめていた】

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