第三話 始まりの夢



「おーい! そこのアンタ! 危ないぞ!」


 その声はその日その瞬間、霧泉市の住宅街にいた通勤途中の会社員や登校中の学生、そんな全ての人々が思わず声の方向に振り向いてしまうほどの大きさだった。


――朝から、うるさいなぁ――


 そして、偶然ぐうぜん居合わせていた深夜もまた、そんな周囲の反応にれずにその叫び声の方を不快そうに向き、自分に向かって真っすぐ突っ込んでくる原付バイクとそれを走って追いかける少年の姿が目に入り、その声が、自分に向けられているのだと気づいた。

 ビィ――――! と原付がけたたましいクラクションを上げつつも、速度を落とさずに直進し続ける。


「そいつ! ひったくり!」


 そして、ソレを追う少年と目が合った。


――……面倒くさい――


 その言葉を聞かなければ、あるいは少年と目が合いさえしなければ、ただ避けてやり過ごすつもりだったのに。しかしながら少年が着ているのは自分と同じ中学校の制服、今ここで彼らと関わる苦労と、見て見ぬふりをして後で蒸し返されるリスクを天秤にかけて、ため息をつきながら、深夜は左眼の眼帯を軽く持ち上げた。


【人の目も気にせずに道の中心を走り続ける原付は速度をゆるめる気配もなく視界から消えていく】


――十五秒後にいるのがあの辺りってことは、あのバイクが通るルートは……――


 そして、心の内で未来予知を元に割り出した秒数を数える。


――三、二……――


「おい、そこの眼帯! 避けないと……」


 少年の叫び、原付のクラクション。深夜はそれらをすべて無視して、接触も恐れずに直進し続けるバイクをにらみつけ、


「よっ、と」


 ひらりと左に一歩、体をズラし、原付の運転手の右手に持つブランドもののハンドバッグをひったくった。


「なっ! うわぁ!」


 原付の法定速度を大きく超えたスピードを残したまま運転手はバランスを大きく崩す。深夜の背後から急ブレーキを掛けた金切り音とバイクが横滑りして壁にぶつかる音が聞こえた。


「……ちょっとやりすぎたかな」


 手を出した後の未来の確認まではしていなかったことに気づき、眼帯をずらしたまま恐る恐る振り返ってみるが、アロハシャツに黒髪と金髪が不揃いに混じった一時代前のチンピラ然とした風体ふうていのひったくり犯はどうも大怪我をしている様子は無さそうだった。


「くそがっ!」


 それどころか、悪態をつきながら転倒したバイクを捨て置いて走って逃げようとしている。一瞬、どうしようかと思った深夜だったが、左眼に写る未来を見て。


「サンキュ! あとは任せろ!」


 風を感じるほどの速さで、自分の隣を駆け抜けていったその少年が組み伏せるのを見届けることにした。


「なっ! 離しやがれ!」

「逃がすかよ! あ、そうだ。そこの眼帯! 警察呼んでくれ! 警察!」

「え? ……俺?」


 上にずらしていた左眼の眼帯を元の位置に戻しつつ視線を左右に振るが、他の目撃者は深夜の視界に入るとさっと顔を逸らすばかり。押し付ける相手も他にいないと諦めた深夜はスマホを取り出し、人生初の110番通報をするのだった。


「……面倒くさい」



     ―――――――――――――――――――――――――――



「ん……また、昔の夢か」


 布団を肩まで被り、舌打ちを漏らす。深夜自身は夢を見ること自体は嫌いではなかった。だが、ラウムとの契約以後、過去の記憶をなぞるような夢を見る頻度ひんどが明らかに上がった。

 荒唐無稽こうとうむけいな夢ならそれなりに楽しめるのだが、自分の過去をそのまま思い返してもさして楽しい思い出の無い深夜としては、この変化はライフワークである睡眠の質に関わる由々ゆゆしき問題の一つだった。


――ラウムの代償と関係あるんだろうな……――


 夢は記憶の整理だという話は深夜も聞いたことがある。ラウムの代償によって記憶を喪失していくことによる副作用の一つ、と言うのは尤もらしい予想の一つだ。だが、今はその疑問を解決するべき時ではない。


――七時半……あと三十分は寝られる――


 枕元で充電していたスマホで現在時刻を確認し、残されたわずかな猶予ゆうよを二度寝に当てようとした深夜だったが、スマホの画面に映る通知の一つが目に留まり、辛うじて重いまぶたが開いたまま維持された。


『今日遅れるってヒナちゃんに伝えといて』


 それは、和道からの単発のメッセージ。


――送信時間は……十分前。またか――


 深夜の過去の経験則に則れば、酔っ払いの介抱が五割。捨てられた犬猫の保護が三割。家出人の説得とその他が一割ずつ。と言ったところだろうか。とにかく、彼のそう言う他人へのお節介は基本的に学生の本分より優先され、中学時代はそう言った理由での遅刻、欠席が大体一学期につき一度くらいの頻度で発生していたのだが、高校生になってもそれは変わらないらしい。


「まあいいや……寝よ」


 いつものことだと渋々ながらに受け入れ、当初の予定通り八時までの二度寝に入ろうと決めた深夜だったがその願いは叶うことなく。


「深夜ー! 朝だよ! 真昼が美味しい朝ごはん用意してくれたよ……あれ?」


 バンッと蝶番ちょうつがいが外れるんじゃないかと言う勢いで押し開かれる扉と、頭に響くような高音、大音量と共に飛び込んでくるラウム。


「……」

「もしかして、深夜……おこ?」

「……今晩から外で寝ろ……」

「う、うるさくしたの謝るから許して!」


 しかしながらラウムの大声で完全に目がえてしまい、不本意極まりないながらも普段より三十分早く、階下のリビングに降りると、既に登校の身支度を終えた真昼が咥えていた、イチゴジャムがたっぷり塗られたトーストが皿の上に落下した。


「今日は雨じゃなくて槍が降るのか……気を付けよっと」

「俺の意思じゃないってことは理解してくれ」



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