第二章 「願いを叶えるモノ」
序幕 儀式
六月一日、午前零時。
その日、
「お疲れさんっした!」
時刻は夜の十時直前。地元の公立高校に通う少年、和道直樹は自身のバイト先である食品スーパーのシャッターを下ろし、隣に立つ中年の男、秋枡円香に向けて仕事終わりらしさのない
「お疲れ様……ごめんね、僕の分担まで手伝ってもらって」
「別に大丈夫っすよ、十時までに終わりましたし。それに秋枡さんには色々とお世話になりましたから」
新人アルバイトとその教育係という珍しくない関係で、まだ付き合いも二か月にギリギリ満たない微妙な長さ。それでも、和道の持ち前の気さくさもあってか、両者の年齢は10以上離れているが既にお互いに打ち解けていると言ってよかった。
「なんていうのかな、いい子だよね。君は」
しかし同時に秋枡はその少年の
「えへへ」
少なくとも表面上、和道は下手な
「でも、あまり遅くまで働いていると、家族も心配するんじゃないのかな?」
「まあ、そうっすね。母ちゃんには色々言われます」
「なにか、貯金の目的でもあるのかい? 例えば、海外旅行とか?」
この少年は高校生としてはかなり密にシフトを入れている。彼ぐらいの遊び盛りの年頃ではそれなりの理由が無ければなかなかそんな生活は割り切れないだろうと思っての問い。
「そんな立派なこと考えてねぇっすよ。家計の足しになればなー、ってくらいで」
「そっちの方がよっぽど立派だと思うけどね」
「そうですかね?」
秋枡はこれ以上この真っ当な少年と話したくないと思ってしまい、あえて家がある方向とは真逆、和道とは別れる道に向かって一歩を踏み出した。
「じゃあ、僕は一杯やってから帰るよ」
「了解っす。飲み過ぎないように気を付けて」
そして、秋枡の嘘を疑うことなく母が待っているのであろう我が家へと真っ直ぐに向かう和道が視界から消えるのを確認して、秋枡円香は胸に詰まっていた息を吐く。
「ふぅ……」
誰かのために行動する。それがどうしようもなく気持ち悪く感じるようになったのはいつからだろうか。
大人になったと言えば聞こえはいいが、世間的には
和道少年もいずれはそんな人間になるのだろうか、と考えてかぶりを振り、そんなを下卑た思考を打ち消した。
「あの子が、僕みたいなろくでなしと同じような人間に、なるわけがないか」
秋枡はコンビニで缶ビールを一本だけ言い訳がましく買い、決して和道と鉢合わせないように遠回りをしながら帰路に着いた。
―――――――――――――――――――――――――――
現に半年前に出所してこの家に戻ってからは使ってない部屋の方が多い有様だったほどだ。それが今となっては、その空き部屋を色々と便利に利用しているのだから人生、どうなるか分からない。
ガチャリと滑りの悪い鍵を開けて、
「しまった」
いつもの癖で帰宅直後にまっすぐ来たせいで缶ビールも持ってきてしまった。秋枡は少しだけ考えて、もう頭を使う作業はほとんど終わっていることを思い出し、景気づけにとその場でビールのプルトップを押し開けて一息に
――思ったより、酒に弱くなっていたかな――
今更ながらに思えばこれが数年ぶりの飲酒だと言う事に気づく。だが、時は既に遅く、すきっ腹にアルコールを一気に入れたせいで三百五十ミリの缶一つで顔が熱くなるほどの
自らの無計画が招いた酔いが醒めるまで、少し間を置くことにした秋枡は書斎のデスクチェアに深く腰掛け、デスクの上の写真立てを手に取る。
「……僕は、どうすればよかったんだろうなぁ。
それは、三年前に娘と共に行った旅行先での写真。たしか、偶然そこでは異国の色々な観光地をハリボテで再現したイベントが行われており、普段はあまり写真に写りたがらない彼が唯一、娘と共に映ったもので、我ながら写真写りの悪いつまらなさそうな、ぎこちない表情をしている。
そんな彼の隣で心底楽しそうに笑っている写真の中の娘、その左右で長さの不揃いな二つ結びの長髪。何度もやり直して、それでもうまくいかなかったそのセット、それは秋枡円香が娘に押し付けた過去の自己満足の象徴。
その写真のどこに目を向けても、見たくないものばかりが写っていた。
だが、そんな感傷が皮肉にも上手く酔いを醒ましてくれた。秋枡は鍵付きの引き出しにしまい込んでいたコピー用紙を
『もしもあなた方に、悪魔に魂を売ってでも叶えたい願いがあるのなら。この魔導書をどうぞ、お手に取ってください』
三か月前、不思議と顔の思い出せない女から買い取ったソレをデスクの上で開け、付箋を貼っておいた目的ページまでパラパラと開いていく。
今更だが、あれは本当に女だったのだろうか、何しろ顔が全く思い出せないものだから直接会って話をした彼自身も確証がもてないでいた。ただ、安っぽい生地のミニスカートのメイド服を着ていたことだけは明確に覚えている。
――まあ、どうでも良いか。僕はこの彼女を……いや、この本を信じることにしたわけだし――
その本に書かれている文章は英文が七割、日本語が三割。英語の文法はシンプルで、ネットの英和辞書を用いれば
「さあ、始めようか」
秋枡はこの三か月の間に準備しておいた、儀式のための道具を鍵のかかっていない他の引き出しから取り出して、デスクの上に並べて、ゆっくりと立ち上がる。
――まずは、陣の準備からだ――
書斎の床に刻まれた真円の魔法陣にデスクの上に用意しておいた食紅を水で溶かした液体を流し込む。赤い液体は、フローリングに彫られた溝を伝って流れ込んでいき、魔法陣が赤く染まる。
続いて魔法陣の四方に
密閉した部屋にその特徴的な香草の匂いが充満するのを待ち、最後に刃渡り五センチ程の小さな
――やってみれば、あっさりとしたものだったな――
緊張に口が
どうやら秋枡円香と言う人間は素面では一線を踏み越えられない人間だったらしい。
三十五年を生きて、初めて気づかされた情けない真実が彼の
ナイフの切っ先で左手の平を切り、痛みと熱を帯びたその切り口から流れた血に染まった人差し指を魔法陣に流し込んだ赤い液体に漬ける。
これで魔法陣は血によって満たされた。あとは言葉もいらない、ただ念じるだけ。
――
ごうっ、と密室のはずの書斎に風が吹き荒れた。秋枡はすぐにそれが床に彫られた魔法陣から噴き出しているのだと理解する。
――っ! ほ、本当に……――
その風はアロマキャンドルの小さな火を吹き消し、後に残った白い一条の煙は少しずつ少しずつ、黒に染め、
『――――』
秋枡は風の音の中に、人の声が聞こえた気がした。だが、それ以上に全身を包む強烈な
「はぁ、はぁ、はぁ……」
体温がどんどん下がっていくのが分かった。どれほど息を吸ってもそれが脳に届かない。視界が外側から徐々に白く変わっていく。
それは昔、一度だけ行った献血で血を抜いた時の感覚に似ていた。
『――……を』
――これが…………悪魔……――
『今一度、問いましょう。貴方様の願いを』
今度ははっきりと、その声が聞こえた。
だが、既に秋枡円香の視界は白く染まっておりその声の主の姿を確認することもできない。
「――頼む……」
それでも、彼は
『命令を受領いたしました。必ずや叶えましょう』
それは意味のない自己満足。それでも、叶えれば何かをやり直せる。気がしていた。
六月一日、午前零時。秋枡円香は死んだ。
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