最終話:沼のほとりの猫は元気か
珍しく今日は土砂降りの雨だった。傘を忘れた女子高生が全速力で通学路を走る。あのアパートまではあと少しだ。
前のような軽やかな音はせず、水溜りを踏みつける音が不規則に響いた。
Aはいつもは寄らない公園に立ち寄った。理由は簡単、さっき彼女の友人から公園まで散歩に行くとメッセージが来ていたのだ。友人はさすが半熟ニートと言うべきかヘンテコな人物で、雨の日が大好きだ。好きすぎて台風になると毎回外に出張る。流石にその時は危ないから部屋に引きずり戻すが。
公園には大きな池があって、友人はいつもそのほとりにいた。さすがに今日みたいな土砂降りの日には傘を差してて、なんとなくそれを観て安心した。
Aはとあることを思い出した。ちょうど一年くらい前だっただろうか。その時もちょうど今みたいな土砂降りの雨だった。どう足を滑らせたのか、その当時の記憶は曖昧でわからないがとりあえず自分はコケてその池に落ちたのである。いや、こんな雨では土も大量に入ってしまっていて、しばらく後に地域の人たちで掃除をするまでずっと沼みたいな状態だったのだ。だからその時落ちたのも池と言うより沼だった。全身泥まみれになったのは覚えてる。
そんなほぼ沼と化した池のほとりで友人は静かに立っていた。
空が光った。ごろごろごろ、と遠くで音がする。どこかに雷でも落ちたのだろうか。あいつを連れて早く帰りたい。決して雷が怖いわけではないけど、決して。
音がさっきよりも近づく。驚いてAの肩が思わず跳ねる。
次の瞬間、Aの耳はとてつもなく大きな音を捉えた。あまりにも大音量で、どんな音だったかもわからなかった。Aは思わず目を瞑りそうになる。ただその前にまだ立っている友人の方を見た。素直に言おう、怖かったと。
Aは友人に近づいた。目を凝らす。まず第一に目に入ったのは友人の傘。さっきまではなんともなかったその傘が、ビニール部分は消し飛んでいて骨組みも奇妙に曲がっている。
Aの目が限界まで見開かれる。友人の足がたまたま沼に入っていた。2回目の雷で驚いて滑ったのだろうか。傘を持った友人はその体制のままゆっくりと沼側に傾いた。そのまま何一つ動くことなくまるで置物のように沼に落ちて、沈んだ。Aの足は動かなかった。Aの目は見開かれたまま固まった。
友人の傘は、ひしゃげていた。友人は、雨の中でもわかるくらいに真っ黒だった。ただ真っ暗だっただけではない。
……焦げていた。
Aはゆっくりと上を向いた。沼から生えている大木が黒焦げになっている。煙まで上げて、まるで今雷に打たれました、と主張するような木からAは目を逸らせなかった。
一体どれだけそうしていただろう。Aにとっては何時間にも感じられたが、実際には一秒も経っていなかったのかもしれない。
「うへ、ドロドロだ」
聞き慣れた声がした。思わず視線を正面に戻す。
沼の中から、友人が自分を見上げていた。
沼は結構深いのか、いや自分も転んでだが入ったのだからわかる。深かった。友人は肩から上を泥の上に出すような格好でこちらを見ていた。
「コケたみたい、手貸して」
自力じゃ上がれないだろー、とAに向けて手を伸ばしてくる友人。友人が手を伸ばした分だけAは思わず後ずさった。
「観て」しまった。白昼夢なんかじゃない。今、友人は雷に打たれて、そのまま沼に落ちて。次の瞬間あいつは何事もなかったかのように沼から出てきた。
そこでAはある話を思い出した。
「スワンプマン……」
思考実験の一つ。雷に打たれた人と同一の、新しい存在が沼の泥から出来上がる話。
だとしたら、この目の前の友人は本物なの?今朝学校に行くまで話をしたりして、見送ってくれた記憶は目の前の友人にもあるはずだ。
でも、この人は本物?
沼の中から友人が不思議そうな表情で見上げてくる。
そういえば。
Aの思考は止まらなかった。そういえば、あたしも去年ここで転んで沼に落ちた。ちょうどこんな雨の日、雷も鳴ってて。
あたしに転んだ時の記憶はない。転んだという事象は観測されていない。もしかしたら自分はこの友人のように雷に打たれたのではないか。観測不足だ。
Aは「自分が本物ではないのかもしれない」という未確定の事象に震えた。本物。本物って何だ?定義は?意味は?
シュレディンガーの箱は開かれない。観測されていない、未確定の事象。
あたしが、あたしである事象と偽物の泥人形である事象が重なって存在している。確率は二分の一。
Aは、考えるのをやめた。
Schrödinger'swampside‼︎ 巡屋 明日奈 @mirror-canon27
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