妖精の休息

全力で消費者

妖精の休息

 霧雨が木々を濡らす。水滴が葉に擦れ、深い緑の香りが際立つ。静寂だけを閉じ込めたような空間だ。

 この森に生き物はいない。全ての生き物はまだこの森の存在を知らなかった。

 

 そんな森の最深部、一際大きなくすのきに背中を預けて座り込む少女の姿があった。熱に浮かされたようなその瞳はあおく、うっとりと虚空を見つめている。少女は少しの間雨を凌ぎに来たようだった。

 

 彼女のほっそりとした身体は、ボリュームのあるチュールドレスで飾られている。ドレスにあしらわれた柔らかな桜色は、裾に行くほど力強さを増す。そしてその終着点であるかのように、裾からは深紅のヒールが覗いていた。


 氷のように透明な輝きを放っている小さなティアラを、白く細い手で正す。僅かな狂いも彼女には許せないようだった。やわらかなミルク色をした髪は、軽くたゆみ、その長さは少女の肘にまで達している。

 その全てがまるで彼女のために存在するかのように、彼女の儚げな美貌を一層際立たせていた。

 


 しかし、その容姿を実際に確認したものはいない。

 彼女は人の目に映らない。


 

 彼女は上機嫌でしばしの休息を楽しんでいた。


 彼女に愛する者はない。また同時に、彼女を愛する者もいない。それは幾千年も前から変わらないことだった。



 かつて彼女は自身の境遇を憂いたこともあった。

 外界と全く繋がりを持つことが出来ないことから、自身の存在すら懐疑的に思えたのだ。

 自身にしか認識できないものが、果たして存在していると言えるのだろうか。


 それは永久に答えの出ない、哲学的な問いのようにも思えた。

 しかしたとえ彼女が誰の目に留まらなくとも、確かに彼女は自身の碧い瞳でこの世を見ていた。野花の香りをかぐことも、小鳥のさえずりを聞くことも出来た。空腹になれば、好みの味をした木の実を選んで食した。

 そして何より、彼女には思考する頭があった。死ぬことも出来ないたった一人きりでの生を嘆く心があった。


 伝えられない想いなど生まれる必要はない。それが彼女の考えであった。受け止める者のいない、にも関わらず溢れてしまう感情はただ彼女を苦しめるだけだったからだ。

 多くの人がそうであるように彼女にとってもまた、ただ生きるだけの生は自身に何の意味ももたらさなかった。それを自覚した時、彼女にとって彼女は最も要らない存在となった。


 そうしてただ蓄積され続ける思考は、あまりにも切実で率直すぎるものだった。彼女は自身をのだ。

 心が何かを想う度、それは自身への叱責に近い問いになって返ってきた。それはまるで己の身を切り裂いてくるような、重く、ひたすらに暗い衝撃。


 何度も死を受け入れた。しかし死はその度に彼女を拒んだ。


 彼女の声は誰にも届かない。彼女が抱きしめられることはこれから先も絶対にない。完全に遮断された希望とは裏腹に、いつも未来だけはよく見えた。

 ぬくもりすら知らぬまま、どうしてこの冷たい世界を生き抜けるというのだろう。この無用の長物は、一体いつまで呼吸を続けるのだろう。


 擦り切れる程繰り返された絶望は、次第に諦観に変わった。彼女は覚えていないだろうが、おそらく彼女の精神はこの時最も死に近い場所に居たのだ。


 なぜ自分に脳を授けたのだと、彼女はついに神をも憎んだ。

 プランクトンのように、ただ生命活動を続けるだけの肉塊であればどれほど楽だっただろう。もし考えることも感じることも出来なくなれば、私は何億年でも何兆年でも喜んでこの世に留まっていてやるのに、と。

 心も頭ももう愚図になってしまった。刺激に対してうるさく喚くばかりで、おそらく正しい役割を果たしていない。欠陥品である。神は取り替えてすらくれないのか。

 勝手に私をここに宿したのに。

 

 それは数少ない彼女の転機だった。彼女は自身が生まれることを望んだわけではないということを、唐突に思い出したのだ。同時に今まで自身に向けられていた感情が、初めて他の物にぶつけられた。


 彼女は長い間苦しんでいた。この世のあらゆる痛みと苦悩は味わいつくした。吐き気を催すほどの寂しさにも、立てなくなるほどの恐怖にも出会った。ずっと一人で対峙した。

 そしてそれら全てを甘んじて受け入れていた。

 時には自身を敵に回してまで、この苦境を飲み込み、吐き出さないようにずっと我慢していた。


 何故だ。

 何故、何故私が、私だけがこんな目に合わなけれならないのだ。

 

 そこで彼女は気づく。彼女は怒っていた。そう認識した途端、何千年もの時間をかけて熱された怒りは一気に火を噴いた。

 それはある意味で運命からの解放だった。強い快感とエネルギーの中、彼女は彼女の中の何かが急速に晴れていくのを感じた。

 彼女の身に起きる全てのことは彼女のせいではなかったし、受け入れるかどうかは彼女の自由だったのだ。そしてそれはきっと初めから、生まれた瞬間から許されていた自由だった。


 そう、彼女は自由だった。皮肉にも繋がりを有さないことは彼女に翼を持たせた。

 誰一人彼女を止めることは出来ない。何にも捕らわれることのない彼女は、何処まででも飛んでいけたのだ。


 そしてそれに気が付いた時、彼女は最早独りではなかった。強大すぎる憤怒と激昂の中、とうとう寂しさをも忘れてしまったのだろうか、いや、そうではない。


 彼女はたった一人で孤独に打ち勝ったのだ。忘れてしまうほど遠い過去はそれでも蓄積された。怒りの翻弄などもろともしない程、それは力強く堅実に、彼女の中に存在していた。それら全てが彼女を彼女たらしめた。


 今や彼女は己を確立させることに成功し、自身の全てを完全に掌握していた。


 

 目の前の濡れていく芝を眺め、彼女は抱くようにして肩に立てかけていた猟銃に頭をもたれかけた。

 繊細な髪がその煤黒い銃身を覆う。


 

 彼女はその猟銃をいつも側に置いていた。


 移ろう時代、巡り廻る時間の中、彼女はずっと人間たちを見つめていた。

 彼らは蟻と同じく、群れの中でしか生きられないようだった。


 人間たちは彼女が欲した全てを持っていた。

 声を出せば反応はどうであれ、他者が反応する。何をするにも誰かと関わる必要がある。一人で生きている人間は彼女の知る限り、ただの一人も居なかった。

 それが自身の運命と同じく人間にとって強制的なものであったとしても、彼女にとっては泣きたくなる程羨ましいものだった。

 

 しかし、今の彼女はその中に入ることを夢見ている訳ではなかった。


 いつ頃からかはもう覚えていないが、ある時から彼女にはある種の人間の声が聴こえるようになった。

 それはかつての彼女の声だった。

 強烈な孤独と、決定づけられた生殺しのような行く末に緩やかな絶望を覚え、跳ね返るような自身の言葉を制御出来ずに絶えず自傷を続ける者たち。


 彼女に言わせてみれば、何故意思疎通の叶う中でそんな声を発しているのか、不思議で仕方なかった。仄かに贅沢にも感じた。

 しかし直ぐに考え直す。彼らもきっと自身と同じ。ただ与えられた肉体が人間であっただけなのだ。

 その苦痛と哀しみは生の通過点であることを、彼女は知っていた。しかし、数千年もかかる通過点だ。


 可哀想な人間達。その苦しみを凌駕するには到底寿命が足りないだろうに。



 と知ったその時から、彼女はその猟銃をいつも側に置いていた。



 まるで抱きしめるように猟銃にすり寄り、彼女は口付けを落とす。

 その様子を眺めるかのように太陽が顔を出した。たちまち暖かな陽ざしが辺りを包む。なおも注がれ続ける雨は光を受け、生きたように輝く。



 今まで幾人も人間を殺めたその猟銃は物騒で不格好ながらも、不思議と彼女の美しさによく馴染んでいる。


 彼女はいつも遠くからその銃を構える。決してその身を汚さない。

 

 彼女の声も体温も伝わらなかったというのに、鉛玉だけはどんなに遠くからでも心臓に直接届いた。偶然の悪戯か、銃声だけが彼女を肉付け、奪ったものが彼女の生きた証となった。


 しかし彼女はもうそんな物を望んでいない。


 彼女が引き金を引くのは自身の居場所づくりためではない。自身と似通った欠陥品の脳を持ちながら脆弱な身体に生まれついてしまった悲劇の魂のため、そして僅かな悦びのためだった。


 彼女は彼らに心から同情していた。それは彼女が身をもってその苦心を誰よりも理解していたからだ。

 そしてこの世から可哀想な声の主たちを解放することは、あの表現しようのない快感をなぞることに近かった。


 無邪気な妖精のように、雨に酔いしれ、快楽に遊ぶ。

 彼女は彼女自身という、何もかもを凌ぐ強い力を手にしていた。


 彼女こそが彼女の神だった。真の神だった。


 彼らが自身の餌食になることを夢見ていると、彼女はそう信じて疑わない。そしてそれは孫うことなき事実なのだ。



 さぁ、愛しく愚かな人間よ。

 泥のように粘着質な痛みが、出来るだけ長引かないように。

 たった一人で立ち向かわなければならない夜が、なるべく少なくて済むように。

 魅力的だろう?その脳に、その胸に、小さな鉛の餞を。

 


 雨が止んだ。視界は良好だ。

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