第8話 いつか空の果てで

 私の胸は、誇らしさではち切れそうになっていた。


 決して容易な道ではなかった。一歩間違えば、死んでもおかしくはない戦場だった。

 しかし、私はやり遂げた。

 父から贈られた由緒ある剣を自ら手に取り、かの竜の首を落とした。仲間の窮地を救う絶好のタイミングで、この手が勝負を決めたのだ。

 これが高揚せずにいられるだろうか。


 面映ゆいが、正義の執行が叶ったのだという自負があった。私の選んだ道を、運命が肯定しているのだと思った。

 私は選ばれたのだと、湧いて出た幼い自尊心を溢れ出るままに浴びていた。


 その、金切り声を聞くまでは。


「マルクさん! マルクさん!? どうして!? 嘘だと言ってください! ねえ! マルクさん! お願いだから! お願い……!」


 五年も傍に置いておきながら、今まで一度も聞いたことのない悲痛な声だった。一瞬、ベルの声だと判別できなかったほどだ。


 尋常な事態ではない。

 私は、竜の眉間に刺さった剣をそのままにして、ベルのところへ駆け寄った。


「こ、れは……?」


 何が起こっているのか、私の頭はなかなか理解してくれなかった。

 泣きじゃくるベルの手にあるのは、マルクがはめていた手袋と折りたたまれた紙片、それと黒ずんだ土くれだ。彼女の目の前には、闇色のローブと黒曜石の杖、重そうに膨らんだ鞄が転がっている。ローブと衣服がぐしゃぐしゃに乱れているのは、ベルが力任せに揺すったためらしい。辺りには、ベルの手にあるものと同じような土くれが散乱していた。


 マルクの姿は、どこにもなかった。


「急に、マルクさんが……マルクさんの、右手が落ちて……みるみる、身体、崩れて……私、どうすることもできなくて……」


 要領を得ないベルの言葉が、それでも揺るぎない現実を突き付けてくる。


「この……土くれが……」


 マルクだった、とでも言うのか。


「馬鹿な、そんな冗談があってたまるか! マルクよ! どこかで隠れて嗤っておるのだろう!」


 叫び声は虚しく反響するばかりだ。返事はない。わかっている。そんなことはわかっていた。

 それでも、私は目の前の状況を受け入れられない。


「どうして……こんなの、酷い……」


 本来なら顔があったであろう場所に散らばる土くれを、ベルが未練がましく撫でている。


 黒い土。水分を失ったボロボロの塊。

 先代の神子の成れの果てを思い出す。一年間、竜のマナをひたすら受け止め続けた神子は、竜の咆哮の衝撃で砕け散った。

 激しい嘔吐感に襲われ、私は膝を折った。


「やっぱりこうなっちゃったのかぁ……つまんなくなるにゃあ」


 泥のように重たくなった空気に、間延びした呑気な声が割って入る。


 声の主が誰かなど、考えるまでもない。

 私は背後に立つ男を詰問しようと、振り返りざまに胸倉を掴みにかかる。


 しかしそれよりも早く、飛び出した赤い影が彼の首を絞め上げていた。


「やっぱり……? やっぱりって何だ!? おまえは何を知っている!? 答えろ!!」


「うぎっ……ちょ、ちょっと落ち着いて……なんで皆そんなに動揺してるん……?」


 ベルに烈火の様相で迫られ、アンリは苦しそうに手をばたつかせる。そこに、こちらを嘲るような調子はない。心底戸惑っている様子だった。

 しかし、ベルはそんなことに露とも目を向けない。噛みつくような勢いが納まる気配はない。


 ベルの知らない一面を続けざまに見せつけられ、私はどう出るべきかわからず、言葉を発することも忘れていた。

 ガストンがやんわりとベルを抑えなければ、彼女はアンリが死ぬまで詰問を続けていたかもしれない。


「ベル、それ以上やっても意味がない。殺したいのなら、後からでもいい」


 そのガストンですら言葉が辛辣なのは、彼も私たちと同じく、事態を呑み込めていないからだろう。

 ベルはアンリから引きはがされると、次第にその攻撃的な表情を失い、再びはらはらと涙を流し始めた。


「ごめんなさい……私……」


「アンリ、どういうことか説明せよ。貴様はこの状況をあらかじめ知っておったのか」


 一連のやり取りがかえって頭を冷やしてくれたようで、私は比較的冷静な問いかけを送ることができた。

 アンリは首を押さえて何度か咳き込んでいたが、やがて落ち着きを取り戻すと、私の問いに答えた。


「知っていたも何も……マルクの旦那は、えぇと、『竜気憑き』だっけ? 死んだ後に竜のマナで生き返ったって言ってたじゃん。竜が死んだら、そりゃあ生きていられないんじゃないのって、思っただけなんだけど……」


 私は返す言葉を失う。

 彼の言葉は、そのおどおどした口調とは裏腹に、至極もっともなものであった。


「っていうか、マルクの旦那は何回も、竜を殺したらそれに依存する人が生きていけないって言ってたよね? おいら、それは旦那が自分のことを言ってるんだと思ってたし、皆それを承知で竜と戦いに来たんだとばかり……」


 確かにマルクは、繰り返しそのことを警告していた。

 しかし私は――恐らくベルやガストンも、それはリンドブールやタラスコの民の暮らしが変わってしまう程度のことだと捉えていた。こんな直接的な依存があるとは考えていなかった。


「……マルクは、貴様の友人だろう。奴が死ぬことを知っていながら、何故何も言わずに加担できるのだ」


 絶句していた私とベルに代わってガストンが口を開くが、アンリの返事は淡白なものだ。


「そりゃあ寂しいけどにゃあ。マルクの旦那が死に方を選んだんなら、おいらが止めるのは無粋ってもんだ」


 ぞっとした。何故、笑えるのだ。

 十年来の友人を失うというのに、そんな風に割り切ってどうする。


「貴様は……!」


 怒鳴りつけようとして、今更ながら気づく。

 ニコラやロシェと話した時と同じだ。彼の価値観は、私とは違う。

 ここで当たり散らすというのは、何も学ばなかった自分の能無しぶりを喧伝するようなものだ。あまりにも惨めだった。


「それでも……それでも言ってほしかった……。自分が死ぬんだから、竜討伐は止めてくれって……一言……どうして隠して……」


 言ってくれたら、選択することができた。知っていたら、こんなことはしなかった。


 ベルのそんな訴えに一瞬でも同意しかけた自分が、酷く醜い生き物に思えた。


 ロシェを救うためだと息巻いて、一切の反論を寄せ付けなかったのは私だ。

 竜の喉元を直々に引き裂き、マルクを死に至らしめたのは私なのだ。


「私のせいだ……」


 正義に酔って、義憤に酔って、視野を狭めたまま全速力で突き進んだ。その結果がこれだ。


 見ているのは目に見えていることだけ。

 物事には多面があることを、マルクは私に伝えてくれていたはずだ。


 竜が脅威であると同時に、恩恵を生み出すこと。それに頼る動物や植物がいること。それを信仰する者がいること。それが作られた経緯。維持されてきた理由。


 それだけされても、私は「マルクに提示されたこと」しか気にかけなかった。それがすべてではないという当然の可能性に至れなかった。


「私が……浅はかだから……」


 突っ走る自分を止めてくれることを期待しながら、その手を振りほどいた。彼は最後まで、私の重石であろうとしてくれたのに。足を止められなかった。

 その方が、気持ちよかったからだ。そこには分かりやすい「正しさ」が転がっていて、飛びつくことが簡単だっただけだ。


「ジョゼット様、貴方だけの責任ではありません」


 あまりに酷い顔をしていたのだろうか。ガストンが私を庇うような言葉を漏らす。


「私はもちろん貴方の部下は皆……貴方の背中を押してばかりでした。貴方の前に進む力に見惚れるばかりで、その光に続くのが誇らしくて……いつの間にか、どこへ向かって貴方を進ませているのかも、見えなくなっていた」


 追い風の中を走らせてしまった、とガストンは言う。

 前に進むことが好きな私は、追い風を受けて、ますます立ち止まる気を失くしたのだと。


「そのまま崖に向かって全力疾走をしてしまう前に、奴は……傷を残そうとしたのでしょう。無理矢理にでも足を止めさせるために……」


 崖――崖とは、なんだろうか。このまま走り続けていけば、どこに落ちていたのだろうか。

 村が潰れるかもしれない。町が滅ぶかもしれない。森が消えるかもしれない。海が干上がるかもしれない。隣の誰かが不意に消え失せてしまうかもしれない。


 竜の影響は大きく、その歴史は長い。良きにしろ悪しきにしろ、周囲の無数のものとつながっているのが竜という存在だ。たったの数日で、その全容を把握した気になっていたことこそが浅慮なのだ。


 竜という環境を破壊する。その意味を、私は受け止めなければいけなかった。


「傷、か……」


 ガストンが言った言葉を反芻しながら、改めてマルクの心情に思いを馳せる。

 ただ私の在り方を非難するだけならば、こんな立ち回りは不要だ。突っ走る私を放置すればよかった。しかし、このような結末が待っていることを知りながら、最終的にマルクは協力の意思を見せた。


 彼が自分の命を賭けたのは、竜が君臨する今の環境に対してではなかったのだ。

 もしかしたら彼は、私がこの先失敗しないための布石になろうとして――


「いや……それも勝手な感傷か……」


 散らばる土くれは何も言わない。彼の本当の思惑は、今更知りようがない。


「……ジョゼット様、これ……」


 俯く私に、一枚の紙片が手渡された。強く握られたようで、しわが寄っていたが、破れてはいない。

 目を赤く腫らしたベルが、私を覗き込んでいた。


「マルクさんが、最後に……ジョゼット様にって……すみません、動転してしまって、お渡しするのが遅れてしまいました……」


 マルクがガストンの剣に呪紋を施す際、何やらしたためていたことを思い出す。深くは追及しなかったが、これを書いていたのか。


 私は震える指でそれを受け取り、折りたたまれた紙片を開いた。





 ジョゼット王女へ

 

 大きなことほど慎重に。

 逸るときほど周到に。

 僕の持ち物は全て託す。

 貴方がつくった時代の話を、いつか空の果てで聞かせてほしい。





 それは短いメッセージだった。

 細かい事情や、彼の思いが直接綴られているわけではない。


 しかしそれは、紛れもない激励の言葉だった。


「……ふっ……ふふ」


 読み進めるうちに、不覚にも笑いが零れてしまった。同時に、やっと目頭が熱くなるのを感じた。

 今ようやく。私はマルクの死を受け入れたのかもしれない。


「馬鹿者が……気取りおって……」


 怪訝そうに私の反応を窺っていたベルに、その手紙を手渡してやる。

 赤い目で文字を追っていたベルは、やがて私と同じように、泣きながら笑い出した。


「あは……どれだけ期待されてるんですか……。これは、下手なことできませんね」


 そうだ。あんまりな過大評価ではないか。


 自分の手で仲間を殺めたという失態すら、踏み越えていくことを前提に書かれている。

 私がまた進み始めることを確信している。


 そういう文脈の助言だ。助言というか、最後まで説教だ。

 口煩い彼が頭を捻って短く纏めたのかと思うと、なんとなく可笑しかった。胸の内に温かいものが注ぎ込まれていくような感覚だった。


「……これが、マルクさんの最後の呪紋なのかな」


 涙を拭ったベルが、手紙を指して妙なことを言い出す。


「どういうことだ?」


「ジョゼット様を縛る呪紋です。ジョゼット様の慌ただしさを重石に変換する呪紋……『傷』なんていうよりは、あの人らしいじゃないですか」


 私の足を引っ張る呪紋か。何ともまた回りくどいことを。


「しかも製作者の手を離れても、ずっと機能するということか。なるほどな」


 ガストンが含み笑いを浮かべて同調する。貴様までそんなことを言うか。


 いや、しかし確かに「らしい」のかもしれない。


 私はこの手紙を捨てられない。たとえ手元を離れようとも、もう心根に焼き付いてしまった。

 私が気持ちよく走り出そうとするたびに、この手紙は語りかけてくるのだろう。本当にそれでいいのか。周りは見たか。足下に異常はないか。私の気持ちが鈍るまで、ぐちぐちと文句を並べてくるに違いない。


 それがきっと、彼のやりたかったことだ。

 未熟な私に、それでも何かを見出してくれた、彼なりの力添えのかたちなのだろう。


 ――本音のところでは、生きてこの言葉を説いてほしかった。これからも一緒に旅をして、その都度足を引いてほしかった。

 しかし、それを口にすることは許されない。その機会を奪ったのは、私自身なのだから。


 せめて、このことを忘れずに刻み付けておこう。彼が残した呪紋を抱いて歩いていこう。

 きっとそれが、彼の望む道行きだ。


「ガストンよ。マルクをきちんと葬ってやりたい。仕切ってもらえるか」


「かしこまりました」


「ベル。呪紋具の取りまとめは貴様に任せる。……傍に置いておきたいものがあれば、好きにしていい」


「はい。ありがとうございます、ジョゼット様」


「アンリ。貴様がこれからどうするかは、貴様の判断を優先しよう。今後も協力してくれるというなら、歓迎する」


「ついていくさぁ。旦那のいないリンドブールに引っ込んでも、退屈だからにゃあ」


 それぞれの返答に頷き、私は改めて、崩れた土くれと向き合う。


 彼が面倒くさそうに理屈をこねることは、もうない。嫌そうに皮肉を漏らすことも、呆れた顔で説教をすることも、親身になって助言することも、彼にはもうできない。


 それでも、忘れはしない。

 この手紙がある限り。


 大きなことほど慎重に。

 逸るときほど周到に。


 上等だ。やってやろうではないか。


 私は胸の中に灯った熱を感じながら、淡い光を放ち続けるヒカリゴケを見上げた。


「貴様の最後の呪紋、確かに受け取った。空の果てとやらで、土産話を待っておれ」






 

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竜気憑きの呪紋士 かんごろう @kangoro

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