第7話 決戦(2)
懐を探るその手が、石溶の液を詰めた小瓶を探り当てる。僕はアンリの脇に辿り着くと、杖で小瓶を突き割った。
岩場をぬかるみに変える液体は、黒曜石の杖で効力を加速させ、その場を小ぶりな沼地へと変貌させる。僕はアンリのベルトを掴み、彼を引きずって沼の中に潜った。
ブォ――ン……!
背中の上を、大質量が高速で通り過ぎていく。ビリビリと衝撃が伝わってくる。
一度顔を出すと、返しの二撃目が来ていた。慌てて泥水の中へ戻った直後、先ほどと同じ衝撃が通り過ぎていくのを感じた。
「ぶぇほっ! えほっ……!」
泥水から這い上がると、アンリも激しく咳き込みながら顔を出した。
「大丈夫か?」
「んー、何とか……悪いねぇ」
猫のようにブルブルと身体を振るい、水気を飛ばすアンリ。一時的に気を失っただろうに、双剣は放していない辺り、流石というべきか。
そんな考えが過ぎるが、すぐに頭を振って思考を切り替える。竜の動向を把握するのが先だ。
「でぇえぇい!」
ベルの咆哮が聞こえてきた。
振り抜いた尾は、岩壁にぶつかって動きを止めている。ベルはそれを見逃さずに、塹壕から飛び出したのだ。ガストンも、ベルのすぐ後ろにぴったり着いている。
しかし、気合を入れるためとはいえ、無暗に叫ぶものではない。竜の動きは、二人の接近に気付いているような素振りに見えた。
「アンリ!」
とっさに、先ほど投げ損ねた爆竹玉を、竜の頭めがけて投げつける。アンリはすぐさま反応して、小さな火球でそれを狙い撃った。
幸い、爆発物とはいえ呪紋で作ったものなので、泥水に浸かって湿気ることもない。爆竹玉は、竜の目の前で大きな音と光を放って爆ぜた。
竜の首がすくめられる。その数秒で十分だ。
ベルとガストンは、既に竜の尾の根元近くまで接近している。
「ひとぉつ!」
ベルの渾身の斬り下ろしは、遠目で見ても深い一撃であることが見て取れた。対竜呪紋はデュラテール本体にも有効だ。不安はあったので、心の端で安堵する自分がいた。
そして、二人の強襲は終わりではない。全体重を乗せたベルの攻撃から間髪入れず、肩に剣を担ぐように構えたガストンが吶喊する。
「オオオオオオッ!」
ベルが刻んだ傷口に、完璧に刃を合わせるガストン。突進力に加え、全身の筋肉を連動させた斬撃が、その破壊の全てを竜の尾の内部に送り込む。
「ふたつ、だ!」
バチィィン、と、限界まで伸ばしたゴムが千切れたような音が響いた。続いて、巨大な質量の物体が、地面に落下する重低音。
長さに比すれば細いものの、それでも五メートルはあろうかという周長を誇る竜の尾――ベルとガストンは、それをたったの二撃で落として見せた。呪紋の補助があったとはいえ、驚くべき剣技である。特に、ガストンのそれは神業だ。僕は素直に、その手際に見惚れていた。
「呆けるな! 炎に備えよ!」
後方からジョゼットの檄が飛ぶ。
竜が体をよじり、ガストンとベルの方を向いている。ガストンはすぐさま走り出し、ベルは豆岩の陰に作った塹壕に飛び込んでいた。
吐き出された炎の塊は、二人を捉えることなく、岩壁を貫いただけだった。
グル、ル、ルルル……
そこで、竜の動きが一旦止まった。喉の奥から唸り声が聞こえるが、攻撃に移る様子がない。
切り落とされた尾を気にしているのかと思ったが、それも違うらしい。竜はゆっくりと、僕たち一人一人を観察しているかのように見えた。
「逆におっかねぇなぁ……」
アンリの言うとおりだ。不気味な緊張感が漂っている。
「こちらの頭数を、正確に把握しようとしているのかもな。早いところ、こちらから打って出た方がいい。……動けるか?」
「うい。だいぶ呼吸も戻ったぜい」
ここからは第二段階だ。ベルとガストンは、竜への直接的なダメージを狙いに行く。具体的には、首に近付くチャンスを狙うことになるだろう。
対して、アンリのやることは変わらない。陽動継続だ。
場合によっては、僕はベルたちのフォローに回った方がいいかもしれない。
アンリを見ると、彼も同じ思考に至っているようだった。
「あの火除けの粉、残ってたらもうちっと分けておくれ。そしたら、おっちゃんたちの方へ」
「わかった。頼むぞ」
火消しのヴェールの残りを全てアンリに託し、爆竹玉も数個を渡しておく。
アンリと別れて、ベルたちが身を隠す方へ向かう。ある程度の距離が開いたところで、アンリは再び、竜の頭に火球を撃ち出した。
その時、竜が今までにはない動きを見せた。
両前脚を、勢いよく地面にめり込ませたのだ。
「これは……!」
一瞬だが、注視しなくても見えてしまうほどのマナの濁流が、地下を駆け巡ったのがわかった。そのうち、特に太い流れが向かった方を確認して、僕は振り向きざまに叫ぶ。
「ジョゼット! 下から来る!」
進入路を背にして、竜とは距離をとっていたジョゼット――その足下が、不自然に隆起した。
「ッ!」
彼女自身、警戒はしていたのだろう。僕が叫ぶのとほぼ同時に、ジョゼットは地面を蹴って大きく身をかわしていた。
そして、先ほどまでジョゼットが立っていた場所には、鋭い石柱が勢いよく突き出していた。
「ジョゼット様、そこも危ない!」
青い顔で石柱を見ていたジョゼットに、ベルが警告を発する。
ハッとした顔で立ち上がり、追撃の石柱を回避するジョゼット。彼女はそこから足を止めず、僕の方へ走ってきた。
「あんな……! 攻撃もあるとは……!」
六本の石柱がせり出したところで、竜はうっとうしそうに、火球と暴風を連発するアンリの方に向き直る。息を切らしたジョゼットと合流した時には、石柱はアンリを狙うようになっていた。
「あれは想定外だ。後ろで控えていてもらうというのも、もう危ないな……っと!」
自分の足下の異変に気付き、ジョゼットを引っ張りながら石柱を回避する。アンリを注視しているためか、その照準は若干粗い。
しかし、炎や尾とは違い、同時多発的に展開できる攻撃と見える。幸い、兆候を伴う攻撃ではあるが、迂闊に足を止めていられなくなった。
さて、どうするか。
迷うのは、ここからのジョゼットの配置である。
このまま、足下を警戒させつつ、竜と距離を保っておいてもらうこともできる。ジョゼットの安全を第一にするならそうするべきだ。しかし、ベルとガストンの気が散るのは間違いない。二人はジョゼットの危険を捨て置くことができない。ベルなどは、石柱が立つ度に後ろを振り返ってしまうことだろう。それでは勝負所を逃す。
ならば、いっそのこと――
「前に出るぞ、マルク。あやつらの足を引きたくはない」
彼らの近くで立ち回る。僕の考えていることは、ジョゼットの宣言と一致していた。
危険はある。しかし、勝利に近付くための選択だ。単純に攻め手も増える。
それでもジョゼットの腰が引けているなら、と考えていたが、彼女の覚悟は決まっているようだった。
「わかった。無茶はするなよ」
「せずに済むなら、そうするがな」
そうもいかないことを、認識できているなら上々だ。
僕は彼女に頷いてみせ、先導すべく走り出した。
「マルクさん……!」
ベルと合流すると、彼女は不安げに主の顔と僕を見比べ始めた。一方、少し離れたところで待機しているガストンは、こちらをちらりと一瞥しただけである。恐らく彼の方は、僕たちの動きの意図を推し量ってくれている。
「どうせ後ろに置いといても危険だ。アンリが持ち堪えているうちに仕掛けるぞ」
「でも、ジョゼット様を竜に近付けるのは……」
「腹は括った。そもそも、大願を口にする私が、いつまでも後ろで縮こまっている方がおかしかったのだ。一太刀くらいはくれてやる」
「率直に聞くが、ジョゼットの剣の腕はどの程度なんだ。宮廷剣術は修めたとか言っていたが」
「私相手で、十本に一本は取りますよ」
「それだけ動けるなら、僕の百倍強い。大人しく、主の威勢を聞いてやるんだな……っと、来たぞ!」
石柱の気配を感じ、二人に警告する。これ以上の議論は必要ない。
ベルも観念したようで、続く反論はなかった。
「ジョゼット、これを」
せめてもの気休めとして、音消しと光逸らしの呪紋符をジョゼットに渡しておく。分け身との戦いで使ってしまったので、もう一枚ずつしかないが、両方とも彼女に持たせた。ジョゼットの生存率を上げ、ベルの気を楽にさせるための判断だ。
「破けば、しばらくの間、竜から知覚されにくくなる。どうしても危ういときに使ってくれ」
「うむ、活用させてもらう」
そう言い残して、ジョゼットはベルの後を追うように走り去った。
僕は一度足を止め、竜から離れる方向に移動する。戦場の俯瞰を行う人員は、どうあっても必要だ。前衛への支援が間に合わなくなる可能性はあるが、危険の予知の方が優先度は高い。
自分の足下と竜の頭の向きに注意しながら、肉薄する三つの影を見守る。日がな一日呪紋を相手にするだけだった僕には、難しい並行作業だ。しかし、他の四人が直面している脅威を思えば、泣き言を漏らしている場合ではない。
アンリが放った風の塊が、竜の遥か頭上で弾けた。天井が抉れ、ヒカリゴケを張り付かせた岩が、竜の頭へと落下する。かなりの衝撃のはずだが、やはり大した損傷はない。
しかし、その攻撃に紛れてガストンが強襲をかける。岩を振り払い、アンリへと火炎を放つまさにその瞬間を狙って、ガストンが竜の左前脚を斬り落とした。付け根ではなく、手首にあたる部分を狙った一撃だ。黒光りする凶悪な爪は、ガストンの剛剣により無効化された。
竜がそれに気づき、ガストンの方へと顔を向けようとする。
「させるかよぃ!」
竜が吐き出した火炎の一部を長剣に纏わせ、そのまま打ち返すアンリ。炎をかわすだけではなく風で絡めとるという発想も信じられないが、即興でそれを実行して見せる腕前に舌を巻く。
アンリの自前の火球とは規模が違う強烈な熱量に、流石の竜もたじろいだ。その隙にガストンは竜の視界から離脱していた。
入れ替わるようにベルとジョゼットが竜の後脚を狙うが、連続で突き出した石柱に行く手を遮られる。しかし、二人が足を止めたのは一瞬のことだった。すぐさまベルが剣を振るい、邪魔な石柱を打ち倒して道を開く。連動するように、剣を構えたジョゼットが竜への接近を試みる。
「駄目だ、下がれ!」
竜の挙動に気付き、僕は大きく声を張った。急停止するジョゼットの目の前に、竜の後脚が叩きつけられる。
どうにかそれをかわしたジョゼットだったが、姿勢は大きく崩れていた。そこに連続して襲い掛かる暴風。羽ばたきによって生じた衝撃波に耐えることはできず、彼女は後方に吹き飛んだ。
「ジョゼット!」
僕はジョゼットの方に駆け出したが、彼女はごろごろと転がりながら勢いを殺し、どうにか自分の足で立ち上がっていた。
「……よい。助かったぞ」
短く僕に声を返し、その姿が不意にぼやける。呪紋符を使って身を隠したのだと理解して、僕は足を止めた。怪我をしたのか、あるいは前に戻るつもりなのか判断はつかないが、しばらくは安全だ。むしろ、僕が近くに寄れば石柱攻撃を誘う可能性があるので、避けた方がいいだろう。
「でぇぇい!」
そのほんの少しのやり取りの間に、ベルは竜の背中へと身を躍らせていた。凹凸が激しい竜の背中を、驚異的なバランス感覚で走破し、その剣を翼の根元へと届かせる。
左の翼が切断され、竜が大きく身を震わせた。振り落とされる中、空中で体をひねって着地姿勢をとるベルだが、落下位置までは制御できない。
「これはっ、まず……!」
待ち受けるのは竜の牙。空中で身動きの取れないベルを、赤黒い竜の口腔が迎える。
しかし、ギリギリのところで風弾が飛来し、ベルを横に吹っ飛ばした。状況に気付いたアンリのとっさの援護である。ベルは酷い体勢で地面に墜落したが、竜の口に収まるよりは遥かにマシだろう。
ただ、転がっていては石柱の的になる。三秒経っても立ち上がらないベルに、僕は迷いつつも駆け寄ることにした。
「げぇっほ……困ったな、足やっちゃったかも……」
「応急処置をする。君は地面を見ていてくれ」
「わかりました……いや、ダメですマルクさん!!」
切羽詰まったベルの声に顔を上げる。
信じられないことが――いや、考えたくなかったことが起きていた。
竜の尾が再生している。
再生というより、自身の形状を変えているのかもしれない。両前脚と右の翼が体内に呑み込まれるように姿を消し、代わりに長大な尾が傷口から生えてきているのだ。
そして、僕とベルがいる場所は、十分に尾が届く位置である。
急いで周囲を見回した。ベルとガストンが掘った塹壕があるはずだ。すぐに見つかったが、遠い。近くを探す。ない。尾がしなり、今にも降り抜かれようとしている。石溶の液を探る。懐にはない。鞄の中だ。今から探って間に合うか。
「私を引きずってたら間に合いません! マルクさんだけでも……!」
無論却下である。逆はあっても、それはない。僕は返事もせずに、鞄を探る。手が小瓶に触れた。すぐさま引っ張り出す。違う。これは対竜呪紋に使ったもの――
「マルクさん!」
ベルの叫びが耳を刺すように抜ける。時間が引き延ばされたような感覚。目当ての小瓶を探り当てた。手が滑る。もう一度持ち直す。竜の尾は引き絞られた弓の弦のようで――
「ぜぇぇぇぇぇぇい!!」
思考の全てを両断するような、裂帛の気合が轟いた。
竜の頭部で光る剣閃。遅れてやってくる轟音と振動。
竜の身体からあらゆる力が抜けていく。
――竜の首が、落ちていた。
「ふっはははははは! 地の竜デュラテール、討ち取ったり!」
ぼんやりしていて見辛かった影が、呪紋符の残骸を捨てて人の形をとる。
竜の頭の上に立ち、眉間に剣を突き立てて高笑いしているのは、誰あろうジョゼットであった。
「……迷彩を張ったとはいえ、一人であんなところに行っていたのか……」
ものを渡したのは僕自身だが、その行動には絶句するしかない。光逸らしの呪紋符は、あくまで見えにくくするだけのものであり、注視すればその姿は確認できる。また、それ以前の問題として、竜は頭を激しく動かしているし、アンリの牽制弾も撃ち込まれている。
その上で、首を落としに行く判断をし、成し遂げたのだから舌を巻く。というより、本物の竜殺しの威力に今更ながら戦慄した。
「やった……んですかね?」
ガラガラと音を立てて崩れ落ちる、岩の塊と化した竜の身体を見ながら、ベルが呆然とした声で呟く。容易だったとは言わないが、思ったよりも呆気ない……という心の声が聞こえてくるようだった。
「うぉぉぉー! 王女様すげぇー!!」
分け身の時と同じ調子でジョゼットの元に駆け寄るアンリを見て、ようやく現実感が湧いてくる。文字通り力を出し尽くしたであろうガストンは、その場にどっかりと座り込んでいる。ジョゼットは、どこからその元気が出てくるのか、相変わらずの大笑ぶりだ。
「そうだな。僕たちの勝ちだ」
ベルにそう告げると、彼女は感極まったように、じわりと涙を浮かべた。
「よかった~……」
分け身の時の喜びようとは違う、心の底からの安堵の声だった。
誰一人欠けずに目的を果たしたことが本当に嬉しいのだと、その声音が物語っていた。
「…………」
一方で、僕の頭の中は冷めていた。
比喩ではなく、指先から冷たくなっていく自分の身体を、他人事のように落ち着いて受け入れていた。
どうやら、予想していた通りになってしまった。もしかすれば、という希望も抱いてはいたが……いや、これでいいのかもしれない。
覚悟はできている。きっとこれが、偶然拾った命の使いどころだったのだ。
「悪い、ベル。これをジョゼットに……」
震える指で懐の紙片を探り当て、涙ぐむベルに渡す。
彼女は戸惑いがちにそれを受け取った。
「え……? どうしてわざわざ私に……」
「ありがとう。結構楽しかったよ」
最後の言葉に嘘はない。努めて明るい声で言ったつもりだった。
しかし、ぼとりと落ちた僕の右腕が、彼女の表情を凍らせた。
しまったな、と思ったが、もう取り繕う元気がなかった。
僕の意識は、冬の夜の帳のように暗闇へと沈んだ。
「……マルクさん?」
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