第3話

 彼は五秒ほど何かを考えているようだった。

「よかったら、お茶でもしませんか」

 二人は会場と同じビルにある、喫茶店に入った。

「あの、私、なんて言っていいかわからないんですけど、すごいなと思いながら、どうすごいかきちんと説明できなくて、すみません」

「いいんですよ。気に入っていただけたのなら、それでいいんです」

 彼は涼し気な笑みを浮かべた。

「さっき、『ただわかる』って言われていたのは……」

 彼は不思議そうに祥子を見る。

「ああ、写真のことですか?」

 祥子はこくんとうなずいた。

「僕は、かつて水だったんです」

 この人何言ってるんだろうという思いと、それなら納得できるという気持ちが、同時に沸き起こる。

「信じて欲しいとか、そんなことを言うつもりはありません。夢物語だとでも思って聞いてもらって構いません。ただ、あなたがあれらの写真に興味があるなら、お話してもいいかなと思ったもので。

 僕は、ここに生まれてくる前までは、ずっと水として、地球上をぐるぐる回っていたんです。川にいたり、湖にとどまってみたり、海に出て、そしてまた蒸発して、空の上で雲となり、地上に降りてきて……。そういうことを、ずっと繰り返してきたんです。数えるのも無意味なくらい長い間、ずっとそうしてきたんです」

「飽きなかったんですか?」

「どうだったのかな。水だったとき、自分が何を思っていたのかは、もうよく覚えていないんですよ」

 祥子はコーヒーを一口飲んだ。コーヒーの味を確かめたかったわけではなく、話を飲み込むのに少し時間が欲しかったのだ。

「先生は、そうやって、水だったことを、川にいたときのこととか、海にいたときのこととか、誰かに飲み込まれたとか、全部覚えているんですか?」

「それは、なんとも言いようがありませんね。記憶にあったとしても、全部思い出せるわけじゃない。あまりにも膨大な時間ですから」

 祥子はとりあえず頷いてみせたが、話を理解したからではなかった。

 彼はそれを、話し続けてよいという合図として受け取ったようだった。

「思えば僕は、物心ついたときからずっと、水のことをよく知っていたんです。子供のころ、家族で出かけるときには、必ず水のあるところを希望していました。海だったり、川だったり、湖だったり、湧き水の出る山だったり。僕は、そういうところで水に触れてじっとしていることを、こよなく愛する子供でした。

 ある程度大きくなって、高校生になったころだったか、僕は自分が水については、ずいぶんみんなが知らないことを知っていることに気づいたんです。図書室に置いてある本をちょっと見て、どんなことが書いてあるかだいたい予想がついたりだとか、予想できないことでも、一度読めばあらかた内容が読み込めてしまったりだとか。

 大学に入って、水の生まれるところへもっと行きたいと思った。山に関する学問がいいと思い、この分野を選んだんです。そこでも僕は、水理学だとか水文学だとかは、授業を全くきかなくても既に理解できました。もともと勤勉ではないので他の教科は全然できなかったけれども、そうして水に関する知識を求め続けていました」

 彼は少し話過ぎたと思ったのか、祥子がなにか話すまで待つ素振りを見せる。

「先生は、全然日焼けしないんですね」

「それも不思議に思っていたんですが、普通の人よりも肌の水分が多いみたいなんですよね。だから、冬になっても肌荒れとは無縁なんです」

 声を出して笑う気にはなれなかったが、とりあえず少し微笑んでみた。

「水になる前は、どこにいたんですか?」

「宇宙にいたようです」

「宇宙にいたときのことも覚えているんですか?」

「たまに夢にみているような気はするのですが、起きたら大抵忘れているので、きちんとお話することは難しいですね」

「その前は」

「それ以上古いことは、全然わからないんです。きっとそのあたりが始まりなんでしょう」

 水の起源、と頭の中でつぶやいてみる。

「先生は、いつから自分が水だったと思うようになったんですか?」

「先週くらいからです」

「ずいぶん急ですね。今までも、たまに水だったころの記憶がよみがえっていたんでしょう? つじつまが合わなくないですか?」

「今までは、単に妄想だと思っていたんです。でも、その記憶は本当のことだったんだって、それがわかったのは最近ということです」

 祥子は視線で、話の先を促した。

「来月、僕は三十三歳になります」

 自分よりも十歳以上年上だったのか、と意外に思う。

「この体は、三十三年以上は持たないんです」

「誰がそんなこと決めたんですか」

「生まれたときから、決まっていたんです」

 祥子は静かに首を横に振った。彼は、なだめるような優しい目をした。

「もちろん、そんなことずっと知っていたら、安心して生きていられません。だからこうして、直前になると思い出すように準備されていたんだと思います」

 彼はいったん言葉を区切った。何を言うべきか、窓の向こうを探しているようだった。

「信じろというほうが無理ですよね。ただ、誰かに話したいと思ったんです。ついていけないからやめて欲しいというのであれば、話題を変えましょう」

「いえ、聞きたいです」

 彼はそっと頷いた。

「多分、僕は来月にはもうここにはいない」

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